ふじまけんじ、という名前が耳に届いたとき、ぼんやりとしていた頭の中が急にクリアになった。 たぶんおそらく、私の通っていた高校でその名前を知らない者などいなかっただろう。 母校の翔陽高校はスポーツが盛んな高校だったけれど、中でも男子バスケットボール部は神奈川で1、2を争う強豪であるらしかった。 その翔陽高校男子バスケ部において、1年生の時からレギュラーを張り続けた驚異の同級生が藤真健司くんだった。 178センチのすらっとした立ち姿、色素の薄い髪の毛に意志の強そうなぱっちりした目が印象的で、まあなんというか見てくれはそれこそ「王子様」というワードがバッチリ当てはまりそうな見目麗しい男子だった。 そのくせ、見た目に反した歯に衣着せぬ言動とか、割とおおざっぱで豪快なところがギャップに弱い女子生徒の心をガッシリ掴んで離さなかった。 1年生の頃だけおんなじクラスだったけど、見てくれがキラキラしている藤真くんに対して女子の間では「藤真王子」なんてあだ名がつけられていたし、友人曰くひっそりとファンクラブも出来ていたらしい。 そんな彼が、当時の面影を残したままに精悍な青年となった藤真王子が目の前で辞令の交付を受けて、さきほど私がもらったものと同じ社章を受け取っている。 同姓同名のだれかじゃない、あの時とほとんど変わらないキラキラしたオーラを纏う彼は間違いなく藤真健司その人だった。 入社式は滞りなく進み、新社会人としての午前中はあっという間に終わった。 案内された社内食堂で「よう、久しぶり」と声を掛けられて、顔を上げた私の目の前には藤真くんがまばゆいばかりの笑顔を浮かべながら立っていた。 驚きのあまり、3秒ほどポカンと口をあけてフリーズしてしまう。 箸で掴んでいたお弁当の厚焼き卵をぼろっと落としそうになって「ああ!」と小さい悲鳴を上げ、寸でのところでパクついた。 ナイス口キャッチ、と笑う藤真くんは私の目の前の席に座る。 「なんかすごいよな、縁を感じるよ」 ああ王子よ、さらりとそんなことを仰るのはお止めくださいと頭の中にいる平民の私が床に額をこすりつけている。 「もう高校卒業して4年経ってんだもんな」 こんなんじゃすぐオッサンになっちゃうよな、と言う藤真くん。 高校生の姿から、すっかり大人になって目の前に現れた彼があまりにもすてきな成長の仕方をしているから、彼のいう「オッサン」になっちゃった藤真くんも見てみたいなあと思ってしまう欲張りな自分がいる。 「おんなじ会社だから、私はおじさんになっちゃう藤真くんの事見られるね」 ついそれを口に出してしまったら、プレッシャーかけんなよ、と藤真くんは顔をしかめた。 そんな彼を眺めながら、どの角度から見てもどんな表情をしていても非の打ちどころのないその整った顔の造形に思わずためいきが出そうになる。もともとない女子としての自信が更になくなりそうだ。 何食べてるんだろう、とか頭のわるい考えを巡らせていたら「どうした?」と不思議そうな表情でこちらを見つめてくる藤真くんの声。 そこでようやく失礼にも不躾に眺め続けてしまっていたことに気が付いた。 「ご、ごめんなさい!藤真くん、相変わらずキラキラしてて王子様みたいだなって!」 思いまして、と続けてから一瞬の間が空いた。 自分の発言を頭の中で反芻してみてからではもう遅い。なに言っちゃってるんだ私は、それは心の中だけで思っておけばいいことで口に出さなくていいことなのに! カーッと顔が熱くなっていくのを感じて、目の前にあるコップの水を勢いよく飲み干すと、水が気管に入ったらしく盛大にむせこんでしまう。 何やってんだろう、と涙目になりながらハンカチを口に当てていたら、藤真くんが「大丈夫か?」と心配そうにこちらを覗き込んできた。 「私のこと覚えてくれてたんだね」 ようやく落ち着いて、涙目ながらもそれだけは口に出すことが出来た。 「そりゃ覚えてるよ、1年の時同じクラスだったろ。一緒に日直したこともあるし、席となりになったことだってあるんだぜ」 苗字は忘れてるかもしれないけど、と藤真くんは付け足す。 なにを仰いますやら、もちろん覚えていますとも。だけど、まさか藤真くんが私のことを、そしてそんな些細な日常のエピソードを忘れないでいてくれているだなんて思わなかった。 席替えをしたとき、たまたま隣同士になって「よろしくな!」と眩しすぎる笑顔をたたえながら言う藤真くんに「こちらこそ」って返しながら、どきどきしていたあの気持ちだって覚えている。 青春だったなあ。もう私、学生じゃないんだもんなあ。 「な、今度落ち着いたらメシでも行こうぜ」 「………え?わたしと?」 「ダメか?あ…彼氏にわるいよな」 「そんな人はいないんだけど!っていうか藤真くんこそ、その」 俺もいないよ、だから誘ってんの、とワタワタしている私を見ながら朗らかに、これ以上ないってぐらい爽やかに笑んでいる藤真くん。 藤真くんならきっと女の子なんて引く手あまたなはずなのに彼女いないんだ。大学でもバスケ三昧だったのかな。 っていうかそんなことはもはやどうでもいい。高校時代の私よ、こんな状況を誰が予想しただろうか。いや、予想も想像も出来たはずない。 高校で大人気だった男の子と入社した会社で再会して、ましてや飲みに誘われるなんて! 「え!?ま、待って理解がおいついてないんだけど私と」 「うん」 「藤真くんで、サシ飲み…?」 「おう。いやだったか?」 めっそうもない!その気持ちが溢れすぎて水浴びをした動物みたいに首をぶんぶん横に振った。 うれしい、うれしくてうれしくてとってもたのしみなんだけど、それが例えば話の流れでちょっと口に出してみた軽いノリであって結局実現しなかったとしても、それでもうれしくてたまらなくなった。 もしかして、藤真くんは自分の手のひらの上でコロコロ転がる私が面白いから、その様子をみて楽しんでいるだけかもしれない。 それでも、こんなに完璧な人に手玉に取られるならもうそれでもいい。経験だ経験、なんて思えてしまうのだ。 「やっぱりかわいいな、苗字」 「…………へ?」 「俺さ、1年の時から苗字のこといいなって思ってたんだぜ」 気づいてなかったと思うけど、と藤真くんは続ける。 気づくもなにも、校内の人気者にモブ生徒みたいな私がそんな風に思ってもらえるだなんて考えるわけがない。 というか、いったい何を言っているんだこの人は? 混乱する頭はもうまともに機能していなくて、必死に彼の言葉を理解しようと努力してみても、現実なのか夢なのかわからなくなってきてしまっていた。 そうだ、これは夢の中かもしれない。っていうかそうだ、そうじゃなきゃ納得できないもん。 もうすぐぱちっと目が覚めて、入社式だー!ってベッドから飛び出して、顔を洗ってお化粧をしてスーツに袖を通すんだ。たぶん。 え、夢じゃなくてほんとうに現実なの? 私はアホみたいに何度もまばたきを繰り返してみたけれど、目の前には真剣な表情の藤真くんがいるし、加えて一向に目がさめる様子はない。 「同じ会社に就職するとかなかなか無いよな。ガラじゃないけど、運命ってあるのかもとか考えたりしてるんだ」 ちょっと待って。 ちょっと待って、藤真くん。 心の中で何度も呪文みたいにタンマと唱えてみたけれど、頭の中がすっかりとっちらかってしまっている私の口からその言葉が出てきてくれはしなかった。 「そんなわけだからよろしく。メシ、マジで行こうな。連絡するからさ」 それじゃあ午後もがんばろうぜ、と言いながら席を立った藤真くんは私の肩を強めにぽんと叩いて去っていく。 右手で持っていた箸がぽとりと机の上に落ちる。え?と呟いた小さな声は、食堂のざわめきに吸い込まれてきっと誰にも聞こえない。 --- プリズミカル |