結局、私はあの後「うー」だとか「えー」だとか言いながら酔っ払ったふりをしてあの場をうやむやにしてしまっていた。ちなみにその後の記憶はない。勢いに任せてガブガブ飲んだはずだから、たぶんほんとうにベロッベロに酔っ払ったのだと思う。
 朝起きたらちゃんと自分の部屋にいて、その日来ていたスーツのジャケットだけ脱いだ姿の私は自分のベッドの上で目を覚ました。ジャケットはちゃんと掛けてあったけれど、帰路の記憶もジャケットを脱いだ記憶もベッドに横になった記憶もなにもかも一切ない。ついでに、化粧を落とさずに寝ていたせいで今日の顔面のコンディションは最悪だ。目の下のクマもここ最近でいちばんひどい有様だったのでいつもよりコンシーラーを叩きこみまくっている。悲しい、悲しすぎる。今日は定時でさっさと帰りたい。帰れるといいな。

「……ねえ、三井さんてカノジョいると思う?」

 他部署の同期と外ランチに出て、日替わりのハンバーグ定食を突っつきながら、私の口からはそんな言葉が零れていた。
 いや、いないはずがない。だってあの人は男前だしそこそこ顔がいい。美形とかじゃないんだけど、なんていうか男らしく整っているし背も高い。粗暴な口ぶりだけど面倒見がよくて後輩に好かれてて、加えて仕事もできちゃうから上からの評価もそこそこ高い。あと、笑うとちょっとかわいいんだよなあ、照れてる顔もかわいかったし。ってなに考えてんだ私!

「名前って、やっぱり三井さんのこと好きだったんだね」

 そうじゃない、そういう好きじゃないんだけど、なんだろう、上手い言葉が全然見つからない。たしかに前々からカッコいいなとは思ってたし「私は三井さんいいなって思うよ、見てくれとか男前だし」みたいな話もしていたけれど、その時はそういう意味で言っていたわけじゃない。
 そうなのだ。昨日の夜のあの人の言葉で私はすっかり混乱しきってしまっていた。あの人のことも、自分の事ももうなにもかもわからない。知らない。考えたくないのに頭の中はあの人のことでいっぱいで正直もう勘弁してほしい。
 クライアントの無茶振りに応えるべくイライラしながら暗いフロアでパソコンとにらめっこして、キーボードを親の仇とばかりに叩く私。まだいたのかと言いながら現れたあの人。やっと朝から戦っていた案件を片付けて、会社の最寄駅近くの大衆居酒屋で向き合ってビールで乾杯して、スピードメニューで来たたこわさをつまみながらしていた会話。奢ってもらったビールのひとくちめ、ものすごく美味しかったなあ。
 ―― なあ、この意味わかるか?
 そう言ってあの人は、三井さんは私の右手の小指をきゅっと握った。それから大きな骨ばった手を私の手の上に重ねた。ちょっとだけ紅潮した目尻と、形の良い太めの眉がめずらしく困ったように寄せられていた。どこか余裕がなくて、だけど私をまっすぐに射抜くような真剣な眼差しは見事に私の心を貫いていた。
 くやしい、くやしいくやしいくやしい。どうして、なんだってこんなに心かき乱されなきゃいけないんだ。やっぱりからかわれてるだけだ、そうとしか思えない。

「そういうんじゃないんだけどさあ……」
「よくわかんないけど、アンタあと10分で昼休み終わるってわかってる?」

 ここから戻らなきゃだから実質あと5分だし、という彼女の言葉でハッとした。ハンバーグ、まだ半分も残ってるのに!
 ああもう、こんなに急いでごはん食べなきゃいけないのも、私が午前中からずーっとぼんやりポンコツなのも、全部ぜーんぶあの人のせいだ。もうそういうことにしてやる。


*


 もうだめだ、今日の私は、もうだめだ。
 そんな頭のわるすぎる五・七・五を脳内で生成しながら、私はリフレッシュルームに逃げ込んだ。
 いくつかのソファーとテーブル、そして自販機とテレビが置いてあるだけの広々とした空間。いまは16時という変な時間だからか休憩を取っているほかの社員の姿もない。私は盛大にため息をつきながらわき目もふらずにソファーへ倒れこんだ。
 なにやってるんだろう、っていうかそもそも昨日あの人と一緒に飲んだことは夢だったんじゃなかろうか。昨日の仕事をヒィヒィ言いながらおわらせて、疲労のあまりそこから記憶を失って、それでも自力で家に帰ってそこで力尽きて、三井さんとのサシ飲みはたぶん寝落ちた時にみた夢だったんだ。夢になんとも思ってない知り合いとか芸能人とかが出てきて、その人のこと意識するようになっちゃったとかいう話、よくあるもんね。それだ、そうに違いない。
 そういえば、今日はまだ三井さんの顔を見ていない。おそらく家から直行でどこかに出ているのだろう。ちょうどいい、だってもし顔でも合わせてしまったら私は変なカオをしてしまうに決まっている。それにあの人意外と目ざといから、また私のクマが濃いとか顔がしんでるとかそういうデリカシーないことをなんにも考えずに言い放っていくのだろう。カオが良くて脚が長いから何言ってもいいと思ってるんだ。
 実際は何の罪もない、ここにはいない先輩へ心の中で呪詛を吐きながら、私は眉間に皺を寄せてぎゅっと目を閉じる。
 やっぱり今日は絶対定時で帰ろう、そしてさっさと寝よう。人間、頭の中がもやもやしている時はさっさと寝るかお酒を飲むかに限る。

「どうした、二日酔いか?」

 突然真上から掛けられた声に、私は「ヒッ」と小さな悲鳴を上げた。ギュッと閉じていた目を開くと、私をのぞき込んでいたのはこともあろうか三井さんその人だった。
 私はソファーに投げ出していた体をものすごい勢いで起こしながら、思わず「で、出た!」と言葉をこぼしてしまった。三井さんは訝し気に目を細めながら「なんだよ、人のカオ見るなりバケモン見たみてーに」と不満そうに言う。

「どっか具合でも悪いのかよ」
「いや、えーと、ちがうんですけど、たぶん寝不足かな?みたいな感じで…」
「昨日すげー飲んでたもんな、そら残るわ」

 白状すると、最初の「二日酔いか?」という言葉はちゃんと聞こえていた。だけど聞こえなかったことにした。だって、そのセリフは具合が悪そうだから適当に言ったのかもしれないという線がまだあったからだ。でも、そのあとの言葉ではっきりとわかってしまった。昨日三井さんと私が飲みに行ったことは夢じゃなくて、つまりそのあとの、居酒屋でのあのやり取りも現実であるということだ。

「おまえ、あの後やたらビールがぶ飲みして寝ちまうしよ、オレが担いで家まで連れて帰ってやったんだからな」

 感謝しろよ、と続けた三井さんの話によると、家はどこだと質問をすると私は寝ながらも「カバンの中に定期ありましゅ」「そっちの道れす」「ここ曲がってくらさい」「この2階れす」とふにゃふにゃながらもしっかり受け答えできていたらしい。三井さんは律儀にも、その時の私の様子を伝えるべく酔っぱらって舌ったらずな口調まで器用に真似ている。
 恥ずかしい、人生でベストスリーに入るぐらい恥ずかしい。加えてそのことがまったく記憶にない。顔からというか、もう顔の毛穴という毛穴から火が噴き出しそうだ。そのまま焼け焦げて燃え尽きたい。燃えカスとなって跡形もなく消え去りたい。
 そして私を部屋まで運び、ベッドに横にしてから、それなりに悩みぬいた末にジャケットだけ脱がせてハンガーにかけてから部屋を出たらしい。よかったな、オレが理性のある大人で、と言った三井さんは冗談めかしてニヤッと笑っている。

「その……大変お恥ずかしいところをお見せしまして……」
「もうああいうめんどくせえ照れ隠しはやめろよな」
「は、え、えーと、はい……」

 恥ずかしいけれど、たらふく飲んだのは照れ隠しなんかじゃないやい!と反論することはできなかった。だってほんとうに照れ隠しだったんだから。
 私はなんて面倒くさい女だろう、なんて手のかかる後輩だろう。三井さん、私のこと担いだって言ってたけどたいそう重かったに違いない。ダイエットしてればよかっただなんてもう後の祭り。うう、最低最悪だ。もうおしまいだ。やっぱり燃えカスとなってそのまま風に舞って消えたい。

「その、重かったですよね、本当にごめんなさい」
「気ィ失った人間ってマジで重いんだな」
「頭上がりません、このお詫びはいつか必ず」
「バーカ嘘だよ、大したことなかったぞ。こっちゃ鍛えてんだ」

 そういうと三井さんは力こぶを作るようなポーズをしてニッと笑った。いつもなら「ダイエットした方がいいぞ」とか「ちょっと腿のあたりに肉があまり過ぎてる」とか言ってきそうなのに。不覚にもきゅんとしてしまって、いやいやなにときめいてんだと自分で自分にツッコミを入れる。
 ちょっとの沈黙のあと、三井さんが「それで、昨日の話の続きだけどよ」と口火を切ったことで私は大げさなほど大きく肩を揺らした。来た、ついに来てしまった。正直あんまり触れたくなかったけれど、おそらく避けては通れぬであろうこの話題。夢じゃなかった、やっぱり現実だったんだ。

「あ、あのう、つかぬことをお伺いしますけど、わたしなんかのどこがいいんですか」

 その声はちょっとだけひっくり返っている上に、震えていてものすごくおかしな調子で私の口から飛び出した。
 三井さんは一瞬びっくりしたように目を丸くしたけれど、それからみるみるうちに不機嫌に眉を顰めた。

「なんかとか言うんじゃねえよ、そのおまえが好きなんだっつーのオレは」
「うううおおおお……!」

 歯を食いしばり、喉の奥から言葉にならない叫びを漏らす私を見ながら「はは、なんだその顔ウケる」と言って目尻を下げる三井さん。
 むかつく、この人やっぱりからかってる。ついでにすごく慣れてる。でなきゃ口からこんなにポンポン恥ずかしい言葉が出てくるはずがない。くそ、やっぱりしてやられたんだ。私に今日1日モヤモヤした気持ちを与えてきたこと、ぜったいにゆるさない。

「まず、負けず嫌いなとこだろ」
「は……?」

 いきなり何を言い出したんだこの人は、と三井さんの顔を見つめる。
 すると、三井さんは「苗字の好きなとこだよ、おまえが言えっつったんだろ」と不思議そうな表情で言った。いや、その顔したいのは私の方なんですけど。っていうかド真面目に答えちゃうの?

「あと、ぶつくさ文句言いながらも諦めないでやり遂げる責任感あるとことか、自分を取り繕わねーとことか、あとよく笑うとこだろ、よく食うとこも好きだな。でも飲みすぎ注意な」
「へ?いや、あの……」
「あと、スーツ着てるとき!腰からケツのライン、いいと思うぜオレは」
「は、はぁ!? あんたなに言ってるかわかってんですか!? それはセクハラでしょ!」
「うわっヤベ、いまのナシで頼むわ」
「もう聞いちゃったんですけど!」

 そっちが好きなとこ言えっつったんだろ、と三井さんは小さくごちながら拗ねたこどもみたいに唇をとがらせて、行き場のない手のひらを自らの後頭部にあてた。

「何人めですか」
「あ? 何人目ってなにがだよ」
「私を、何人めの、キープの女に、しようとしてんのかって、聞いてるんです!」
「………キープ?」

 三井さんの声が急に低くなる。

「……んなわきゃねーだろが」

 少しだけ、ほんの少しだけ悲しみを孕んだトーン。ゾクッとするほど静かで、そしてなぜか私の心がズキッと痛んだ。
 わかっていたはずだ。いやちがう、そうじゃなくて、本当はちゃんと知っていた。この人がすごく真面目な性格だってことも、嘘がつけないってことも。大雑把そうに見えて人の事ちゃんと見てるし、視野だって広い。だからいつも私の些細な違いとか様子にもよく気が付いてくれるし、嘘がつけないからオブラートに包んだ表現なんかできなくて、さっきみたいにストレートな言葉しかぶつけてこれないのだ。
 私もこの人のそんなところをいいなって、そう思っていたはずなのに。

「……ご、ごめんなさい。私、こんな風に猛アピールされたことなかったから、ましてや三井さんからなんて」

 信じられなくて、とだんだん小さくなっていく自分の声。
 最初はちょっとこわい感じのする人だなと思った。大きな体と、意志の強そうな眉と、見据えられたら抗えなくなりそうなほど力のある瞳。粗暴な口調と大きな声。初対面だと愛想がなくて威圧感のある雰囲気。だけど、こわい人じゃないっていうことはすぐにわかった。先輩なのに人懐っこくて、いくつも歳上なのにどこかかわいらしいその人を「いいひとだなあ」って思ったのは間違いじゃない。いまだってそう思ってる。
 昨日握られた小指がピリピリと痺れるような感覚を覚え、私はぎゅっと拳を握った。

「……あのよ、オレってそんなチャラそうに見えるか?」

 そう言った三井さんの声はまるでひとりごとみたいに聞こえた。
 そんな風に見えるわけじゃない、だけどこの人なら選びたい放題だろうって私は勝手に思っているし、間違いなくそうに決まっている。だから経理のクールな美人さんより、受付のキラキラしたかわいい女の子より、私のことをいいと言ってくれるこの人の言葉がとても信じられなくてどうしても疑ってかかってしまうのだ。

「飲みに誘うのも、気持ち伝えんのも、いい年して内心めっちゃくちゃドキドキだったんだからな。ヨユーある大人でいようとしてたのによ」

 膝に肘をついて組んだ手の上に顎を乗せ、猫背気味に座りながら「カッコつけてる年上の男にこんなこと言わせんなよな」と三井さんはため息交じりに小さな声でぼやいた。

「その、なんかスミマセン」
「いや、オレが悪かった。つーかちゃんと言ってねえな、そういえば」

 ちゃんととは?と私が言葉の意味を理解する前に、横に座っている三井さんが顔を上げてすっと背筋を正した。その表情はいつも私をからかってくる時とは全然違うもので、不覚にも胸がどくんと鳴った。その音は目の前にいるその人に聞こえてしまうんじゃないかと思うほどで、私は思わず胸を抑える。

「ぜってえ後悔させねえ、だから」

 物は試しと思ってオレと付き合ってみねえか?
 どこまでも直球なその言葉と、私を真正面から見つめてくる瞳。私は胸のあたりをぎゅっと抑えたままで下唇を噛みしめていた。どくんどくんと心臓は早鐘を打つように鳴り続けているし、口の中はもうカラカラだ。なんだか頭までくらくらしてきた。すぐ目の前に、少し手を伸ばしたら触れられる距離に三井さんがいる。

「よ、よろしくおねがいします」

 気づいたら、もうすっかりリップがはげ落ちているであろうカサカサの唇からそんな言葉が飛び出していた。じっと私のことを見据えながら、じわじわと眉間に皺を寄せていっていた三井さんの目が、今度はゆっくりと見開かれていく。それに比例するみたいに口をぱくぱくさせて、それから唇をわなわなと震わせた。

「マ、マジか……!? マジか!?」
「え、待ってください、まさかここまで来て冗談とかないですよね、先輩であろうと女子の心をもてあそんだなら全力でブン殴りますよ……!?」
「バカ、ちげーよそういう事じゃねえ! そうじゃなくて」

 ちょっと信じらんねえだけだ、と三井さんは続けた。その意味がよくわからなくて、そんなの私もですけどって間髪いれずに返したかったけどとりあえず話を聞くことにする。

「嫌われてると思ってたんだよ、おまえに。ホントは褒めてやりてえ時にも口から出てくんの、そうじゃない言葉ばっかりでさ」

 ちょっと待ってください神様。許されるなら、いまこの瞬間をどうか私の中で永遠に残せるようにしてください。
 目の前で顔を赤くして、照れ隠しに口元を隠しながらこちらにちらりと視線を投げてくるこの32歳男性の姿をどうしても忘れたくないのです。一生このまま残したいのです。元気がない時にこの映像をみて生きる気力を起こしたいのです。
 困った、非常に困った。大きな体に大きな態度のその人がこんなにもかわいらしい人だったなんて知らなかった。

「前に彼氏が云々言ったのだってそういう相手いんのかなって探るためだし」
「はい」
「目の下のクマがどーだの言うのも、よく眠れてねーのかなって心配だったからで」
「……はい」
「かわいい後輩っつったのはその意味の通りだけどよ、オレは苗字のことをかわいいと思ってるから言ったわけであって」
「……も、もうやめてー!」

 限界だった。耐えきれず思わず絶叫した私の顔はきっと三井さんに勝るとも劣らないぐらい真っ赤だろう。目を丸くした三井さんが「お、おいいきなり叫ぶなよ、びっくりすんだろ」とか言ってるけれど、びっくりしたのは私だっておんなじだ。っていうか私の方がびっくりしたに決まってる。

「そ、そういう暴露は恥ずかしいのでやめてほしいです!」
「あ……そ、そうだな、でもなんつーか、もういっかってなっちまってよ」

 このリフレッシュルームに誰もいないのが幸いだったと思う。へんな時間で良かった。冷静になろう、ここは会社です、いつだれが訪れるかわからないのです。名前、深呼吸よ、吸って吐いて、もういっかい吸って。

「いややっぱりウソでしょ!」

 私は思わずそう声を荒げていた。うお、と再び驚いたように声を上げた三井さんが「ウソだったらオレはめちゃくちゃヘコむからな」と目じりを下げる。繕わない素の表情を見せるその人は年上なのにやっぱりかわいくて仕方がない。私の目にはいつの間にかキラキラのフィルターでもかけられてしまったのだろうか。三井さんがあまりにもキラキラして見えるので、思わず目もとをごしごし擦ったけれどどうやらそうではないらしい。

「だめだ、こんなのもう好きじゃん……」

 ぼそりと呟いた言葉は、かろうじて三井さんの耳には届いていなかったみたいで安心した。
 昼休みに同期の発した「名前って、やっぱり三井さんのこと好きだったんだね」という言葉がリフレインする。ごめんなさい、そういう好きじゃないっていったけど、どうやらそういう好きだったみたいです。
 定時までは1時間と少し。このあと、デスクに戻っても仕事が捗るわけがない。もういいや、明日の自分に超期待しよ、と完全なる諦めモードに移行しながら、私は自分の心が目の前の三井さんにすっかり捕らえられてしまったことを認めるしかないみたいだ。

--- ハート・オン・ビート!後編
(20200225)



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