いつの間にやらひとりになっていた広いフロアの中に、私の指がキーボードをたたく音だけが響く。すっかり暗くなった窓の外と壁に掛かった時計に目をやることすら嫌になって、ただただ仕事を崩すためだけに目の前にあるパソコンの画面に集中する。
 明日の朝八時までに直して提出してくださいって、そんなのもう今日中に絶対終わらせろって意味じゃん! そっちがなかなか返事よこさなかったくせに急に明日出せってなんなんだ! と怒りに任せながらエンターキーを乱暴に叩く。クライアントからの無理な要望への怒りは、どうしたってキーボードへと向かってしまう。
 はっと我に返って深呼吸。ダメだダメだ、イライラしちゃったら終わるものも終わらない。怒らない怒らない、かわいい子犬や子猫が遊ぶ姿を脳内に思い浮かべるのよ私、と鈍く痛むような感覚をおぼえはじめたこめかみを親指でぐりぐりと指圧しながら、ゆっくりと息を吸って、そして吐いてを繰り返す。
 そもそも、私はちゃんと納期に間に合うように余裕を持ったスケジューリングしていたし、更に余裕をもって早め早めに完成させてチェックをしていたし、更に更に余裕を持って提出していたのだ。連絡してこなかった上に、今更ここ直せとかいってくるあっちが全面的に悪い。私はちっとも、これっぽっちも悪くない。だけど、それでもやらなきゃいけない時がある。それがまさに今なのである。生きていくって、お金を稼ぐって大変だ。

「なんだ、苗字まだ残ってたのかよ」

 唐突に背後からかけられた言葉に、私は「わひゃあ!」と素っ頓狂な声を上げ、驚きのあまり体をビクつかせてしまった。
 バクバクと鳴る胸の辺りを抑えながら、息を整えてその人物を見上げる。

「三井さん!?」

 おう、と言って私の隣の席に腰を下ろしたその先輩は「どんだけ集中してんだよ」と笑っている。ホワイトボードの三井と書かれた名前の横にはノーリターンの意味であるNRと言う文字。

「あれ、直帰じゃなかったんですか?」
「ん? あー、ヤボ用思い出してよ。つーかそれ終わんのか?」

 もう打ち込みは終わっていて、あとは確認するだけだったそのデータを指さす三井さん。もうチェックだけなので、と簡潔に返して私はパソコンに向き直る。
 びっくりした、っていうか帰ってこないと思ってたのに。ひとりごとを言ったり、イライラ落ち着かなかったり、この世を滅ぼしかねない形相で画面に向かってたの、見られてないといい。ちょっぴり背筋がひんやりする感覚を覚えながら、さっさと頭を切り替えて再び画面に並ぶ文字列に目を向ける。
 っていうか、そこの席は三井さんの席じゃないんですけど。隣に居られたら気が散るからさっさと用事済ませて出て行ってくれないかなあ、という言葉はすっと飲み込む。
 同じ部署の三井さんは私より5つ歳上の先輩だ。普段の言葉遣いは乱暴なくせに、営業成績がよくて会社からの評価もなかなかに高い。そんでもって取引先からの印象もいい。事務作業はあんまり得意じゃないみたいだけど、なんていうかそんな完璧じゃないところが歳上ながらちょっぴりかわいらしい、なんて思ってしまう自分がいたりして。本人にはもちろん言わないけど。
 この人は「なんだよ苗字、おまえ目の下黒いけど寝不足か?」と心配してくれたのかと思いきや「カレシと遊ぶのもほどほどにしろよな」とセクハラスレスレでデリカシーの無いことを平気で言ってくるし、こないだだって「おまえなんかちょっと顔丸くなったんじゃねえか?」とか言ってくる始末だ。私だって自覚してたけど、女の子に対してああも包み隠さず言ってしまうところ、マイナスだなって思う。
 ああ、どうしよう思い出したらなんだか余計にイライラしてきちゃった。ていうか彼氏なんかいないっつーの!
 ぼーっと座ったままの三井さんという存在はもう居ないものと決め込むことにしよう。とにかく最終チェックをすすめなくちゃ。これが終わったら帰れる、でも今から家に帰ってご飯食べてお風呂入ってそれから横になって、朝まで眠れるのは何時間だろう。そんな悲しいことばかり考えてしまいそうになって、ふるふると首を振る。

「……よっし!」

 確認し終えたファイルをメールに添付する。お世話になっておりますから始まり、ご査収いただきますようよろしくお願いいたします、で締める。そんな決まりきった文章を打ち終えてから送信ボタンを押す。不備がなければこれで完了なはず、っていうかかなり入念にチェックしたし、すごく丁寧に組み立てたから大丈夫だと信じたい。これでダメならもうこのフロアをのたうちまわって暴れてやりたい気持ちだ。まあ大人としてそんなことはしないし、さすがに冗談だけど。

「おう、終わったか」
「ハイなんとか……あーもうヤダ! 12時間後にはもうとっくに働いてるんですよ、信じられない! あのクライアント呪ってやる!」
「まあ落ち着けって、今日はこの三井先輩が一杯奢ってやっからよ」
「え!?」

 なんだよ、と目を細める三井さん。

「かわいい後輩が頑張ったってんなら褒めて労ってやんのもデキる先輩の役目だろーが」

 かわいい後輩、という言葉に思わず反応してしまう。この人の口から「かわいい」なんていう単語が出てくるのにも、私のことをそんな風に思ってくれていたということにも驚きながら「あ、う、はい」と少々どもりながら返事をする。

「あ、つーかもう遅いっつー話だわな。明日も仕事あるしお疲れ様会はまたにすっか」
「いえ! いえあの、今から行きましょう! ぜひ!ぜひともなにとぞ!」

 思わず前のめりに、かつ食い気味の私に「なんでそんな必死なんだよ」と言いながら、目を細めてくしゃっと笑う三井さんの表情は年齢のわりに幼く見えて、思わず「かわいいのはそっちじゃないですか」と口走りそうになる。
 というかヤボ用っていってた件はいいのかな、いつの間にか済ませてしまったのだろうか。仕事が終わって解放された頭の中にそんなことが浮かんだけれど、まあいっかとすみっこに押しやる。
 カバンを持って立ち上がり「ほら行くぞ」と言った三井さんに急かされるまま、私もカバンを引っ掴みスーツのジャケットを羽織った。


*


「っかー!五臓六腑にしみわたる!」
「オッサンかよ」

 注文した生ビールの入ったジョッキを一気に半分あけながら、思わず口をついて出た言葉に三井さんからのツッコミが入る。それにしても、仕事終わりのビールってなんて最高なんだろう。しかもなんと今日は三井さんの奢りだし!
 さっきまでイライラしていた気持ちはどこへやら、すっかりいい気分になった私はスピードメニューとして運ばれてきたたこわさをつまむ。
 これで今日が金曜日で明日がお休みだったら最高だったのに、とちょっぴり重たくなる気持ちはもうこの際忘れてしまおう。

「あの案件、昼間っからやり取りしてたろ? オレが外出する前」
「そうなんですよ !急かしても急かしてもメール寄こさなかったくせに、急に反応来たと思ったら明日朝イチで出せと来たもんですよ、横暴にもほどがある!」

 その勢いでビールを飲み干して、横を通った店員さんに「生追加で!」と注文をする。
 おーおーよく頑張ったな、と笑いながら私の頭にぽんと手を乗せてきた三井さんの手のひらは大きくてごつごつしている。そういえば、この人たしか学生時代はずっとバスケットボールをやってたとか言っていた気がする。これだけ手が大きかったら、ボールとか片手で掴めちゃったりするのかな。
 それに、女子の頭撫でちゃうとかこういうこと平気でできちゃうんだなあと思ったら、ドキドキした気持ちが急激にしぼんでいく感覚。そりゃそうだよね、悔しいけどこの人これだけカッコいいんだもん。目の前に座って焼き鳥を頬張る三井さんを見ながらぼんやりと思う。きっとこうやっていろんな女の子を手のひらでコロコロ転がしてきたのだろう。まったくなんて罪なオトコだ。

「三井さん、こうやってよく誰かとお酒飲みに行ったりするんでしょ? こないだ言ってましたもんね、経理部のだれだれさんが美人だとか受付のどの子がタイプとか」

 三井さんが以前話題に出していた経理部の人も受付嬢の子も、どちらかというと美人系だった。たまたま聞いてしまった部内の人とのそんな会話。なんていうか、平々凡々な私とは違う華やかな感じの子だった気がする。
 って私、なんでこんなこと口走っちゃってるんだろう。そんなことを言いたいわけじゃなかったのに。疲れているせいか、そして言葉にはしないけれどかっこいいなって思っている先輩と一対一で飲みにきているせいかアルコールの回りが早い。
 酔っぱらった脳みそのせいで饒舌になった口から溢れてくる言葉は止まらない。私はこの人の彼女でもなんでもない、ただの同僚でただの後輩なだけなのに「どうなんですか!」とめんどくさい女よろしく目の前の三井さんについにじり寄ってしまっていた。

「………かねーよ」
「え?」
「行かねーっつの。女とサシ飲みなんてしねえよ」

 頬杖をついて、眉間に皺を寄せながらじっとこちらを見据えてくる三井さん。スーツなんかよりも、おそらく作業着とかのほうが似合いそうなちょっと強面な三井さんの眼力にやられそうになって、私はその視線から逃れるために目を逸らして運ばれてきた新しいジョッキをグイッとあおる。

「おい苗字、聞いてんのかよ」
「な、なにがですか、きいてますよ」
「おまえからふっかけて来たんだろ。オレはな、なんとも思ってない女と二人で飲みにいったりはしねえって言ったんだよ」

 これ、どういう意味かわかるか?この酔っ払い女、と続けた三井さんは私のおでこにデコピンを食わらせてきた。痛い!と絶叫するぐらいに入ったその攻撃は割と容赦なくて、涙目になりながら目の前のその人をにらみつける。当の三井さんはというと、ふいと横を向いてしまっている。
 じんじんと痛む額の真ん中を両手で抑えながら、その痛みのせいですこしだけマトモになってきた頭で考えてみる。なんとも思ってない異性とふたりっきりでお酒のみに行ったりはしないって、そう三井さんは言ったのだ。
 頭が混乱してきた。私は両手で自分の顔を覆いながら息を吸って深く吐く。えっ、つまりどういうこと?いま、というか現在進行形で私たちは向き合ってふたりでお酒を飲んでいるわけだけど、ええと…?うん、わかった。きっと三井さんにとって私は異性だとか女性だとかそういうのじゃなくて、たぶん弟分みたいな後輩なんだ。そうだ、そうにちがいない。
 だって、だってもう、そう思わないとどこまでもうぬぼれてしまいそうになる。私はぶるぶると震える唇と、その口の端がぎゅっと上がってしまいそうなのを必死にこらえているのだから。

「……なんで黙ってんだよ」

 低い声でそうつぶやいた三井さんの顔を指の間から盗み見る。不機嫌そうに口をとがらせている三井さん。前髪を立ち上げてあらわになっている額に手をあてながら、ぎゅっと目元に力を入れているその人の目尻が少しだけ赤い。

「なあ、意味わかんだろ」

 わかりません!そんなの全然わかりません!
 ふわふわとした感覚はいったいぜんたいどこへやら、酔いなんてこの人からの突然の爆撃ですっかりさっぱり消え失せてしまった。こんなことなら理解できないぐらい、なんにもわからないぐらいさっさと酔っぱらっちゃってればよかった。
 だって、憧れの先輩の口からこぼれたその言葉はマイナスな感情ではなくて、間違いなくプラスの感情で、そして間違いなく好意だったのだから。

「す、すけこまし! 三井さんのすけこまし!」
「はあ!? なに言ってんだ! でけー声でンなこと叫ぶな!」
「三井さんのほうが声大きいですもん! いたいけな後輩からかって何がたのしいんですか! いじわる!」

 カオがいいだけじゃなくて営業成績もよくて面倒見もよくて、背が高くて足も長くて、腹が立つぐらいにいいところばっかりで、あえて言うならちょっと子どもっぽいところと乱暴な口調が玉にキズだったりするけれど。でもそんなところもいいなあなんて思っていたりして。デリカシーがないところは大幅に減点だけど。
 ひそかに憧れていたその先輩の口から出てきた言葉の意味なんか、まともに受け止められるわけないしすぐに理解できるはずがない。

「苗字、おまえオレにここまで言わせてまだわかんねーとか言うのかよ」

 テーブルに置いている私の右手の小指を、三井さんの指がツンと弾く。ただ指が触れ合っただけなのに、どきんと胸が鳴る。三井さんの顔を見ることができなくて、私は左手で顔を隠したまま下を向く。

「オレ、めちゃくちゃ諦め悪いししつこいからな」

 逃がさねえから覚悟しとけよ。そういった三井さんは私の小指をきゅっと握って、それからその大きな手を重ねてくる。破裂しそうな胸の鼓動を正常に戻すことに集中しないと、きっと私は今すぐにでもこの人に息の根を止められてしまうだろう。
 ヤボ用ってのはおまえの様子見に来ることだったんだぜ、というトドメの一発。
 くやしい。くやしくてくやしくて仕方ないけれど、自分から仕掛けていったくせに最初っからもう負けてしまっていたのだから仕方ない。
 負けを認めてこくんと頷くその前に「明日熱が出たら三井さんのせいですからね!」いう言葉を吐いて最後の抵抗をしてみる。小さく笑った三井さんは「おーおーそうしろよ」と勝ち誇った顔で私のほっぺたを引っ張った。

>後編


--- ハート・オン・ビート!前編
(20200225)



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