( 幼馴染の岸本くん )

「おい、待っとけ言うたよな?」

 下駄箱からローファーを取り出したタイミングで目の前に現れたそいつの声に、私は思わず顔を顰めていた。
 どのツラ下げて「待っとけ言うたよな?」なんていう偉そうな言葉を発しているのだろうか。どのツラ下げて、とか言いつつもその顔を長く拝んでいたくはなかったので、私はヤツの存在を無視して下駄箱に入っているローファーと今脱いだばかりの上履きを交換する。

「おいコラ無視すなや!」
「あのー、周りの迷惑になるのでバカみたいな大声出さないでいただけます?」
「おまえがシカトするからやろ!」

 この男のことは幼馴染というよりも、最早腐れ縁と言った方がいいかもしれない。バカでかい上にバカみたいなモジャモジャ頭のバカ男、もとい岸本実理をキッと睨みつけながら、私は乱暴にローファーのかかとを直す。
 そもそもはコイツが悪いのだ。
 昼休み、いつもの如く横柄な態度でうちのクラスに入って来たかと思えば「今日一緒に帰るから教室で待っとれ」なんて言って出て行ってしまった。
 そして帰りのホームルームが終わった放課後、律儀に教室で待っていたけれど待てども待てどもヤツは現れない。
 痺れを切らして様子を見ようと廊下に顔を出してみたら、なんとまあ他の女子と楽しそうにくっちゃべっている始末。
 いい加減にしなさいよバカ男、と小声で吐き捨てる。アイツのことはもちろんムカついていた。けれど、実際はそれ以上にそんな光景を見ながらムッとしてしまった自分に腹が立っていた。
 そういうわけで、私はそちらに背を向けてさっさと帰宅すべく昇降口へと向かったというわけだ。

「待ってろ言うたやろ」
「へえー、私のこと待たせてるくせに他の女子と楽しそうにおしゃべりしてたので帰っていいのかと思いましたあ」
「なんやそのキショい敬語、頭打ったんか?」
「う……るっさいこのモジャモジャ頭! 私の時間をあんたの都合で浪費すな言いたいんじゃ私は!」

 自分の中でプツンと何かが切れる音がして、そう怒鳴ってしまっていた。
 下校していく生徒たちからこちらに向けられている視線には「おっ、いつものやつが始まったぞ」みたいなニュアンスが大いに含まれているのを感じる。きっと彼らにとって私たちのこんなやりとりはいつもと変わらない日常風景のように捉えられているに違いない。
 と、頭の中では客観的なことを冷静に述べている私こそ、その騒がしい日常風景の当事者であったりするのだが。

「うるっさいんはおまえら二人ともや、往来ある下駄箱で何しとんねん」

 聞き慣れた気怠げなその声は、そんな私達の間に唯一入ってくることができる男のものだった。
 その男こと南烈は超至近距離でにらみ合っていた岸本と私を引き剥がし、ハァと小さく息を吐いた。
 周りの生徒たちに「ごめんなあ、騒がしくして」なんて気を配る配慮まで忘れない。さすが豊玉高校において岸本の飼い主と呼ばれているだけある。バカアホの岸本は知らないだろうけど。

「南はカンケーあらへんやろ、オレはこいつと話してただけで」
「私はこの知らんモジャモジャヤンキーが急に絡んで来たから困ってたとこ」
「モジャモジャておまえそればっかやな、語彙力死んどんのか? つーかこれはパーマや!」
「へえー、ていうか別にどうでもいいです、この世でいちばん興味ないんで」

 私がそのままその場を去ろうとすると「まあ待ちや」と南に手首を引っ掴まれる。
 もう散々他の生徒たちの注目の的になってしまったあとだが、さっさとこの場から居なくなりたくてたまらないのに。
 私は眉間にシワを寄せ、目を細めながら「もう帰らせてほしいんやけど」と南の方を振り返る。すると、南の背後にいる岸本も私とおんなじような表情をしているのが見て取れた。
 むかつく、なんでアンタまで不機嫌そうな顔してんの。アンタのせいなのに。私は言われたとおりにちゃんと約束守って教室で待ってたのに。
 そんな風に思ってしまうことにも、さっきの光景に怒りだけじゃなくて悲しみなんかまで覚えてしまったことにもどうしようもなくイライラする。
 けれど、一番腹が立つのは、いつだって売り言葉に買い言葉でトゲのある態度しかとることが出来ない素直じゃない自分だ。

「あんなあ、おまえもコイツとは長い付き合いやろ? 岸本はガキやねん、小学生男子やねん。そこらへん理解しいや」
「知ってるよ、バカでアホでデリカシー皆無なのに態度だけデカくて困ってる」
「そうや、バカでアホでデリカシー皆無のガキやから好いてる女の子にはツンケンしてしまうんや。な? 岸本」

 その言葉を聞いた私は、眉間に寄せたシワを更に深くした。小さく首を傾げて見せると、南はこくんとひとつ頷いてみせた。
 頭の上にいくつものクエスチョンマークを浮かべながら、その向こう側にいる岸本をちらりと見遣ると、ヤツはぽかんと口を開けたまま呆けた表情で硬直してしまっていた。
 今、私の頭の中では衝撃と放心が追いかけっこみたいにぐるぐると走り回っている。思わず口から漏れ出て来てしまった「は……?」という声は、言葉というよりも吐き出した呼吸のようなものに近かったと思う。

「な、は、ハァ!? おま、おまえ南ィ! なに、なにを勘違いしとんねん! オレがこんな可愛げのない女を、な、なんやて!?」
「可愛げのない女を?」

 いつものように表情筋をほとんど動かさないまま、南が岸本の言葉をそのまま繰り返す。
 未だかつて聞いたことのないどもりっぷりを披露して忙しなく腕をバタバタさせている岸本をぼんやり眺めながら、私はなんだか気が遠くなっていくような、その場から魂だけが遠ざかっていくような不思議な感覚を味わっていた。
 目の前の二人のやりとりが自分のことを言っているのだと理解していても、その言葉の真の意味までは把握しようにも出来ずにいる。

「えー、あー、まあ、か、可愛げは……ないけども、なんちゅーかその……悪ないとは思う」

 岸本は相変わらずどもっていたし、そのくせいつもの如く偉そうな態度だったけれど、泳がせまくっていた視線をちらりとこちらに向けながらそう言った。
 なにコイツ、顔真っ赤じゃん。

「……もう、なんでいっつも上から目線なん」

 そんな言葉を発しながら、思わず自分が噴き出してしまっていた事に気づかなかった。
 おなかの中がむずむずして、恥ずかしくて可笑しいのに、さっきまで怒っていた気持ちなんて頭の中からすっかりいなくなってしまっている。
 しきりに頬の横をかいている岸本のことをじっと見つめていたら、ヤツはそんな私の視線に気がついたらしく「何やねん、あんま見んな」と顔を逸らされてしまった。
 パチパチ、という音が聞こえて来たのはそんな時で、岸本と私は訝しげな表情でほぼ同時に顔を見合わせていた。
 そう、ここは人の往来がある下駄箱で、しかも今は放課後で、部活に行く生徒や帰宅する生徒らがわんさかいる時間帯で。
 ついでに私たちを見ている周りの生徒たちは日常的に繰り広げられる口喧嘩を見慣れていた上に、つい今さっきのやりとりを一部始終見ていたのである。
 誰かが発した「うわーすげえ、これって公開告白じゃん」という言葉が耳に届いた瞬間、私は熱で顔面が発火したような錯覚さえ覚えた。

「……あー、クソ! おまえちょっと来い!」
「は!? え、なに!? は、はやいって!」

 私の手を引っ掴んだ岸本はあっという間に駆け出していて、私は半ば引きずられるようにその場から離脱させられていた。
 こっちに気を配る様子なんて全くないこの男に着いていくのが必死で、苦しくてたまらないのに愉快で笑えてきてしまったのは、きっと私の手を掴んでいる岸本が上履きのまま駆け出していたからという理由だけではないはずだ。

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