はぁ、と吐き出したため息はこれでもかって位に重たくなっていて、最早地面に落ちる音すら聞こえそうな程だった。
 チェーンのコーヒーショップでテイクアウトしたホットティーで冷えた手を温めていると、携帯の画面が着信の通知で光る。

「……ん、もしもし。聞いちゃった?」

 冗談めかしてわざとらしく軽い調子で返事をすると、電話の向こう側から聞こえてきたのは「聞いちゃったー? じゃないわよ!」という同じ会社に勤める同僚兼友人の怒鳴り声。その勢いに思わず顔を顰めつつも「ごめんって、でももう我慢できなかったし」と返す。同じ会社というか、彼女と私はついさっき元同僚って関係になっちゃったんだけど。
 元々折り合いの悪かったお局様と、とうとう面と向かってやりあってしまったのは数時間前のこと。
 新卒で入社して五年、お局のおばさんという存在以外はほとんど問題のない職場でなんとかやってきていたけれど、その我慢は遂に臨界点へ達した。散々言い合った後で「それじゃあ辞めますね!」と高らかに退職宣言をした私は、そのまま会社を飛び出していた。
 社会人として有るまじき行為であった自覚はしている。頭を冷やして冷静になった今、誇張無しに顔から火が出そうなほど恥ずかしいが、逆に清々しくもあるわけで。
 これからどうしようという不安はあるけれど、まあなんとかなるでしょ、というお気楽な気持ちで都合の悪い方向は見ない事を決め込む。大丈夫、一応蓄えはあるし数ヶ月ぐらいならプー太郎でも平気。……たぶん、きっと。
 自分で言うのもなんだが、元来私は真面目側の人間であると思う。そのせいか、いまこの瞬間にも自分が無職であるということを思い出すと妙にソワソワとして落ち着かない。

「ずっと我慢してたの知ってるけどさあ……。名前、他からは結構評価されてたのに勿体なくない?」
「でも思いっきり啖呵切っちゃったし、言いたいことぶちまけちゃったからさ……。戻ろうって気も無いし、まったり転職先探すつもり」
「軽く言ってるけど、自己都合退職って再就職にかなり響くよ」

 そんなのわかってるって、と返事をしながら思わず唇が尖ってしまう。気が立っているせいか、堪えていないと「うっさいなあ、ほっといて!」というストレートすぎる言葉が今にも口から飛び出してきそうだ。
 彼女が私を心配してくれているのはわかっているが、今だけはどうしようもないぐらいに鬱陶しい。これ以上会話をしていたら、ただでさえすり減ってしまった精神が極限まで抉られることは容易に想像出来る。
 申し訳ないとは思いつつも「ちょっと他にも返さなきゃだから切るね、また連絡する」と、ほとんど一方的に通話を切る。
 その勢いで携帯の電源ごと落としたあと、こぼれたため息は先程のものよりもさらに重たくなっていた。

「すまんのう、立ち聞きさせてもろたわ」

 横から掛けられた声にハッとして顔を上げると、長身の男がこちらを見下ろしていた。いつからそこに居たのだろう、全く気が付かなかった。そして、その男のパンチが効きすぎた派手で奇抜な見てくれに、私は絶句してしまっていた。
 綺麗に切り揃えられた黒髪と、左目を覆う眼帯。普通の人間には着こなす事などとても不可能に思えるパイソン柄のジャケットは、なんと素肌にそのまま着用しているようだ。この寒空の中、裸ジャケット姿の男の胸には鮮やかな和柄の彫り物が施されている。
 ほぼ間違いなくヤクザの類であろうその男は「隣、座るで」と言って私の了承を得るつもりなど元々なかった様子で座り込むと、ニィ、と歯を見せて不気味に笑った。

「ネエちゃん、うちで働かんか?」
「はあ……?」

 立ち聞きしていたと、その男は先程言っていた。つまり、私が仕事を辞めたばかりであることを知って声を掛けてきたらしい。
 ヤクザのシノギについてはあんまり詳しくないけれど、水商売とか風俗店の用心棒、世間的に言えばケツモチと呼ばれているそれが主らしい。
 ははあなるほど、おそらく「うちで働かんか?」というのはケツモチをしている店への勧誘に違いない。
 最早キャバクラでもなんでもいいからとりあえず働いた方がいいような気もするが、それを決断してしまうには時期尚早すぎる。だって、私が無職になったのはつい何時間か前のことだからだ。
 というか、そんな事よりもこんな怖そうな見てくれの人にどう断りを入れたらいいのだろう。やりません、と切り捨ててしまったらその直後には文字通り私が切り捨てられるであろうことは容易に想像出来る。
 私がそんな思考を巡らせているうちに、ジャケットの裏側やらポケットやらに手を突っ込んでゴソゴソやっていたその人が「確かここに……おお、有ったわ」と言いながら取り出したのは一枚の名刺。差し出されたそれをとりあえず受け取り、まじまじと眺めてみる。
 上段には株式会社真島建設、中段には代表取締役社長真島吾朗と書かれた名刺。そこから、いつの間にか煙草をふかし始めていたその人へと視線を移す。それを二往復ほど繰り返してから「建設会社……?」と思わずこぼしてしまっていた。

「おう。そんでな、いまこれ作っとんねん」

 その男が親指で示したのは、背後にある工事現場。神室町で働く者ならばきっとみんな知っている。柵で覆われたその場所には、神室町ヒルズという巨大な複合型施設が出来る予定になっているのだ。

「これって……神室町ヒルズ!?」
「建設っちゅうんはネットで調べられても、経理やらなんやらごちゃごちゃした細々しいモンまで手ェ回らんでのお」

 神室町ヒルズはネットで調べた知識で作られている、という衝撃の事実に私は言葉を失っていた。
 いや、たぶん今のはそういうギャグなんだ、そうに違いない。しかし「やだおもしろーい、それって持ちネタですか?」というツッコミを入れる度胸はさすがの私にも無い。

「で、ネエちゃん聞くところに寄ると事務やっとったらしいやないか」

 しかもごっついオバちゃんとやりあって辞めたばっかりやってな、とその人はどこか楽し気に笑っている。
 ごっついオバちゃんなんて言ってないけど、と思いつつ、大筋は間違っていないのでこくんと頷いてみせる。

「気ィ強い女は大歓迎やで! ……ちゅうわけでどや、やってみんか?」
「……あの、今の話って本当の話です?」
「ああ? こない周りくどいナンパするかいな」

 腕を組みながら至極真面目な表情で「俺はのう、女口説くんは正面ドストレートて決めとんねん」と言ったその人に唖然としてしまう。
 そうじゃなくて、水商売とか風俗の仕事じゃないんですかって意味だったんだけど。

「……お話、聞かせてもらいたいです」

 いつの間にか、そう答えてしまっていた。
 ついさっきまでどう断ろうか悩んでいたのに、隣に座る異様なオーラと見てくれのその人が嘘をついているわけではないことを、何故だかハッキリとわかったからだ。

「おお、ホンマか!? ダメ元でも声かけてみるもんやな!」

 三白眼をぱあっと見開いたその人は、パチンと手を打って立ち上がると「ほな、善は急げや! 行くで」と顎で私にも立ち上がるよう促してくる。
 かくして、レザーパンツのポケットに手を突っ込んでふてぶてしく歩き始めた派手なジャケットの背中は、私を先導しながらさも当然のように工事現場の扉を潜ったのだ。


***


 そんなこんなであれよあれよという間に私の転職先は決まり、働き始めた真島建設。
 社長がこんな成りなので予想はしていたが、従業員の皆さんもそりゃあもう派手というか、見渡す限り強面ばかり。もしかしてやっぱりその道の人たちなのでは、と思い始めたのは働き始めてすぐのこと。
 真島さんに対して「社長」と呼びかける人間は私以外に居らず、従業員はみんな口を揃えて「親父!」と呼びかけているのだ。それってつまり、と控えめに問うてみたら、真島さんは取り繕う素振りも見せずに「元、な。今は足洗うて見ての通り堅気の建設会社や」と言った。
 堅気の建設会社、という可笑しなワードを咀嚼するために鸚鵡返しのように呟くと、真島さんは「せや」と満足そうに大きく頷いた。
 社長を筆頭に強面揃いの真島建設だが「名前ちゃんに迷惑掛けたらその月の給料は無し」という謎の厳しすぎる掟が制定されているらしく、そのせいなのかわからないがどの従業員さんも優しく朗らかに接してくれる。
 前の会社ではお局とのピリピリもあって精神をすり減らしながら働いていたせいか、自分を大切にしてくれるこの職場がいつの間にか大好きになっていた。ほぼ一人で事務仕事を回しているのでとんでもなく忙しいが、周りの人々の気遣いには間違いなく救われている。
 ある時「苗字さんのこと、姐さんって呼ぶべきですか?」と若い従業員に問われたことがあった。姐さん、という聞きなれない響きに首を傾げていると、突然彼の背後から現れた真島さんが「そんなアホなこと聞いとらんで仕事せえ」と聊か強めに彼のドカヘルを叩いた 。
 以前と変わらず神室町へ通っているので、毎日の生活がほとんど変わらないのもありがたかった。前職を勢いで辞めてしまって後悔が無かったわけでもないけれど、今となっては運が良かったと思うし、あの時の選択は間違ってなかったのだと思える。
 そんなことを考えながらいつものように朝の電車に揺られていると、視線を落とした携帯に真島さんからの通知が入っていることに気が付いた。

『スマンけど、駅のコーヒー屋で注文しといたモン受け取って来てほしいねん。俺の名前言うたらええから』

 それが改札を抜けた先にあるコーヒーショップであることはすぐに分かった。
 以前、そこのスコーンがすごく美味しいんです、という話をしたら「スコーンてアレやろ、口ん中モッサモサになるやつな」というしょうもない返事が返ってきたことを思い出す。
 そのメールに『おはようございます、承知しました』と返信をすると、電車はちょうど新宿駅に到着した。
 指定された店はちょうど改札から出口までの通りにある。店に入り「真島という名前で注文してるんですけど」と伝えると、即座にペーパーバッグを手渡された。
 なんかこれ、怪しいやりとりの仲介してるみたい、と思いながら何気なくその袋の中へ視線を落とすと、当たり前だか怪しい物など入っているわけもなく、ただ飲み物の入ったカップと、真島さんの朝ごはんになるらしい小さな紙の包み入っているだけだったので「そりゃそうだ」と苦笑いをしてしまった。 
 次のミッションは冷めないうちにこれを真島さんへ届ける、というものになった。神室町の端に位置するヒルズの建設現場までいつもより早足で歩きながら、ご所望の品を無事届けることに意識を集中させる。
 現場に入り、既に出勤していた従業員達と朝の挨拶を交わしながら、プレハブの事務所をノックして「おはようございます」と入室する。

「これ、受け取ってきました」

 今にもずり落ちてしまいそうな腰座りで書類を眺めていた真島さんに「お待たせしました」と言いながら近づくと、その人は「おう、手間かけたのう」と小さく手を上げて立ち上がり、その手を私の肩に乗せた。

「ほな、それやるわ」
「え? ……でもこれ、真島さんの朝ごはんじゃ」
「名前ちゃん、最近遅くまで残業しとるやろ。無理さしてスマンな」
「いえ、それは私の仕事が遅いからで……!」
「あ? 何言うとんねん」

 真島さんは私の肩に置いていた手を今度は頭に乗せ「俺はな、ホンマにエエ拾いもんしたと思うとるんやで」と言うと事務所を出て行く。
 呆けながら、ぶら下げたままだったペーパーバッグの中をそっと覗く。いそいそと中身を確認すると、それは注文できる中で一番大きいサイズのホットティーで、中身がわからなかった小さな紙袋の中はスコーンだった。ヒーティングされているらしく、まだほんのりと温かい。
 私が紅茶派なことも、何気なく話した些細な会話もちゃんと覚えているなんて。
 胸がぎゅう、となってしまい、その気持ちを落ち着けるためにその場でしゃがみこんで膝を抱え込む。
 どうしよう、これは困った。だって私、いまきっと人に見せられない顔しちゃってる。
 あの人は何の気なしにスマートに、こういうことをしれっとこなしてしまう人なのだ。自由で剽軽で横暴で、だけど実は想像できないぐらい頭が切れて、人を惹きつける強烈な魅力すら持ち得ている。
 そんなあの人の下で、どんな扱いを受けたって皆が必死になって働く気持ちが今ならばよくわかる。だって、私も彼に惹きつけられてしまったひとりなのだから。

「苗字さん、こないだ発注かけてもらった資材の納期についてなんだけど……」

 そう言いながら事務所に入ってきたのは西田さん。彼は真島建設において所謂古株であり、それこそ真島組立ち上げの頃から真島さんの元にいるらしい。言うなれば側近ともいえる人物である。
 しゃがみ込んで膝を抱えたまま、顔だけを上げて「あ、西田さんおはようございます」と挨拶をした私に視線を留めた西田さんは、その円らな瞳をこれ以上ないってぐらいにかっ開いた。

「苗字さんどうしたの!? 具合悪い!?」
「あ、大丈夫です! ちょっと胸が苦しいかなーって感じで……でも別に」
「な、ななな、胸が苦しいだって!? お、親父ー! 苗字さんがー!」
「ああああちがうの、ごめんなさい! 大丈夫です、大げさにしないで……!」

 慌て始める西田さんを落ち着かせようと宥めるが、彼は心底心配そうな表情で「もし苗字さんに何かあったらうちの会社は終わりだ」なんて滅相もない事を口にしながらその表情を歪ませている。
 確かにこの会社には私以外そういう細々した仕事を得意としている人間はいないが、彼の取り乱しっぷりと言ったらこちらにまで伝染してきてしまうような鬼気迫るものである。しかし、私とて胸がぎゅうっとなった理由を正直に白状するわけにはいかない。
 そんな風に二人であたふたしていると「おどれは朝っぱらから何を騒いどんねん!」と真島さんがドロップキックで派手に再登場する始末。
 思いっきりお尻にキックを食らった西田さんが吹っ飛んで、べしゃりと地面に着地する。あんなに綺麗なドロップキックは初めて見たかもしれない。そして、その威力たるや。弊社社長、真島吾朗の辞書に「容赦」という二文字はないのである。
 賑やかで忙しなくて、そしてどうしようもなく愛おしい。こんな日々は、一体いつまで続くのだろう。ふとそんなことを考えながら、振り払うように小さく首を振る。

「で、名前ちゃんがどうしたんや!」
「そうなんです! 苗字さん具合が」
「なんでもないです、とっても絶好調です! 私は全っ然大丈夫ですから、真島さんも西田さんもお仕事頑張ってくださいね!」

 二人の背中をぐいぐいと押し、半ば無理やり事務所から締め出す。色々面倒なことになる前にバタン、と扉を閉めたら、再び静まり返ったプレハブの事務所には私の盛大なため息だけが響く。
 困ったなあ、と先ほどと同じ感想を持ちながら、そっと自分の胸に手を当てる。そうだ、あの人が私の為に用意してくれた紅茶とスコーン、ちゃんと温かいうちに食べないと。
 パチン、と軽めに自分の両頬を叩き「それじゃあ今日も頑張りますか!」と半ば無理矢理に気合を入れた。

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(20221127)



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