ここ最近のゴタゴタがようやく落ち着いた異人町は、心なしか今までより静かになってしまった気がする。
 横浜流氓の総帥を降り、馬淵との件も一応は片付いた今、店で鍋を振るいながら過ごす時間は今までの人生では考えられないほどに穏やかだ。サバイバーへ顔を出せば馴染みの仲間が誰かしら居て、自然と集まっては並んで座り、腹の探り合いをするわけでも無くただただ酒を飲み交わす。
 そうすると、改めて感じるのは「やっぱり俺、総帥なんて向いてなかったんだなあ」という事実。
 嫌でも関わらなくちゃいけなかったややこしいことも、なんとか納めなくちゃいけない人間同士の揉め事も、そもそも人の上に立つことだって好きじゃ無いどころか本来避けていたい性分なのだ。我ながら、今までよくやっていたと思う。
 何かあるわけでもなく、宛てもなく歩き始めた夜の異人町は昼間とはまた趣が違う。今まではなんとなく足を伸ばし難かった中華街方面から浜北公園へ歩いていくと、その左手に見えてきたのはかの有名な観覧車。
 夜の闇の中で際立ってキラキラと輝くそれをぼんやり眺めていたら、この間春日くんが「俺、そういえば遊園地って行ったことねえんだよな」とぼそりと呟いたことを思い出した。

「あ、俺も行ったことないかも」
「そういえば私もです」

 春日くんに便乗して挙手する俺と、それに続いたハン・ジュンギ。俺たち三人を見やるナンバと足立さんの顔にはリアクションが取りにくくて仕方がない、という表情がわかりやすく浮かんでいた。

「そんじゃ、今度行ってみるか?」
「え……っと、男五人で? それってありなの?」
「確かになあ……おいサッちゃん! なに聞いてないふりしてんだ!」
「うわ、私に話振らないでよ!」

 おっさん連中の遊園地遠足に入るなんて目立ちまくっちゃうから絶対イヤ、と眉を顰めて首を振った彼女に対して「紗栄子さん、ひとつよろしいですか。私はおっさんではありません」とハン・ジュンギがどこまでも真面目な顔で言う。
 そんな何気ない、気の置けない仲間との他愛もないやりとりすら身近ではなかったせいか、普通ってことが如何に尊いものなのか、些細な事でひしひしと感じる毎日なのである。
 点灯された眩いばかりの観覧車の光に吸い寄せられるように歩いていると、いつの間にか浜北公園を抜けて馬車街道に出ていた。
 観覧車を背景にして、目の前に現れたのはどこか厳かな雰囲気を感じる白い建物。美術館のような佇まいだが、看板や案内が出ているわけでもない。まるで何かに引き寄せられるように、ほとんど無意識のうちにその階段を登り、そっと入り口の扉を開けていた。
 短い通路を抜け、拡がった視界の先に並んでいたのはシンプルなテーブルと椅子。飾り気のない空間には他にレジカウンターと小さめのショーケースが見えることから、そこがカフェであるということがようやくわかった。
 この場所が駅から離れていて、尚且つこの変な時間帯だからだろう、他に客の姿は無い。

「いらっしゃいませ」

 その声が自分に掛けられたことに気づき、無意識にレジカウンターのほうへ視線を向けると、白いシャツにエプロンを纏った店員の姿が目に入った。
 そのなんとも言えない不思議な感覚は、今でも明確に思い出すことができる。たぶん、俺と彼女はたっぷり三秒ぐらい見つめあっていたと思う。
 ゆっくりとカウンターに歩を進め、そこに手をつきながら「ここ、いい雰囲気だねえ」と話しかけてみる。
 彼女はなんとなく入ってみたカフェの店員で、たった数秒目が合っただけの存在である。それなのに、何故か無性に彼女のことが気になって仕方なくなってしまっていた。
 彼女はまつげで縁取られた丸い瞳を何度かぱちくりさせると、少しだけ間を置いてから「ありがとうございます。宜しければ、こちらメニューです」とラミネートされたメニュー表を示した。ありがとね、と返事をしてから視線でその上をなぞり、取り急ぎモカを注文した。
 少々お待ち下さいませ、と背中を向けて提供準備を始めた彼女のことを眺めながら頭の中に浮かんだのは「一目惚れって、マジであるんだなあ」という他人事のようなセリフだった。
 どこがどうとかじゃなくて、自分の好みがどうだとかも把握していなかったけれど多分おそらく、俺にとっての「好みのタイプ」というのが彼女だったに違いない。

「あの……何か?」

 あからさまに見つめすぎてしまっていた。明確に不審な者を見る視線を向けられ、慌てて「いーや、ごめんね」とはぐらかす。受け取ったトレーを持って適当な席に腰を下ろし「やっちゃったな」なんて思いながら、淹れてもらったばかりのコーヒーとにらめっこをする。
 うーん、こういう時ってどうしたらいいものなんだろう。思いっきり不審な目で見られてしまったし「ちょっとお話しようよ」と声を掛けてみても玉砕してしまうのは目に見えている。
 一口啜ったコーヒーの味は、ほどよい酸味で後味に感じる甘味もちょうどよい。雰囲気が良くて、コーヒーも美味しくて、更に店員さんまでかわいいと来た。今までこっちの方へ足を伸ばしていなかったことが心底悔やまれる。
 いつの間にかテーブル拭きに勤しみ始めた彼女が俺の座っているテーブルの横にいて、ほとんど悩むことなく半ば無意識のうちに「ここのコーヒー、美味いね」と声に出して感想を述べてしまっていた。
 突然話しかけられたことに驚いた様子の彼女は、やっぱり一瞬だけ間を置いてから「本当ですか? ありがとうございます」と柔らかく目を細め、うれしそうに笑んだ。
 いや、やっぱダメかもしれない。今この場において行動する前から諦めるってのは後悔をする方の選択肢であると直感で感じた。
 こんなこと言ったら困らせちゃうと思ってたんだけど、と前置きをしてから、不思議そうに小首を傾げている彼女を見上げる。

「お姉さん、すっごい俺の好みなんだよねえ」

 そして流れるのは予想していた通りの無言の時間。そして今度は一瞬ではなく、彼女はまるでフリーズしたかのように硬直してしまっていた。なるべく萎縮させないように伝えたつもりだったが、やはり些か唐突すぎたに違いない。
 そんな彼女に対して「お仕事って何時まで?」と畳み掛けてしまったのは更なる悪手だったかもと思いつつ、もう既に発してしまった言葉を取り消す機能なんてものが人間同士の会話に実装されているわけもなく。

「えっと、この店二十一時までなので、閉店作業とかしてからだとあと一時間ぐらい、ですかね……」

 え、と思わず声が漏れそうになってしまった。それが、ほとんど了承に近い返答で、しかも予想すらしていないものだったからだ。
 ついつい口元が緩んでしまうのを「こらこら落ち着こうね、俺」と心の中で自ら宥めすかしつつ、そのぐらいの時間にバッティングセンターの辺りで待っているということを伝える。
 こくん、と控えめに頷いた彼女の気持ちが如何様なものだったのかなんて、もちろんわかるわけがない。そもそも本当に来てくれるという確証も無いので、浮かれるには早すぎる。
 気が向かないならスルーしてね、と念を押すように精一杯の気遣いを伝え、閉店業務の邪魔にならないようにコーヒーを飲み干してから店を出た。
 ってなわけで、まあ期待半分不安半分、半信半疑というよりもほとんど疑い寄りの心持ちで腰を落ち着けたのはバッティングセンターの横にあるサッカーコート外のベンチ。
 まさかこんな風に、出会った瞬間「あ、この子だ」って思うようなことが自分の身に起きるなんて。未だにふわふわしたような気持ちで見上げた空に見えた小さな星よりも、近くにある人工的な光の方が眩しくて強い。
 上に向けていた視線を顔の高さに戻し、誰もいないのに煌々と照らされている人工芝をぼんやりと眺める。この話が転んだとしても、今度サバイバーに行った時に酒の肴になるかもしれない、なんて自虐的なことを考えてしまっている自分。
 今まで、それこそ横浜流氓の総帥に据えられていた間はこんな色恋みたいなことに気持ちを向けている余裕はなかった。
 なんとか総帥という名の付いた皮を被り、余裕でこなしているふりをする。繰り返される毎日に疲弊しながら、いつまでこんなのが続くんだろう、と考える日々。
 そこから解放されて落ち着いた今だからこそ、彼女と出会えたのかもしれない。そんなことを考えながら何の気なしに歩道へ視線を向けると、ちょうどこちらに向かって彼女が歩いてくるところだった。

「あ、来てくれたんだ」

 信じられないと思いつつそう声をかけると、彼女はぺこりと小さく頭を下げた。ちょいちょい、とこっちへ来るように呼び寄せ「お疲れさま、まあ座りなよ」と促すと、彼女は素直に着席し、じーっとこちらを見つめてきた。
 先程まで髪を纏めていた彼女はそれを下ろしており、おっとりとしてふわふわとした雰囲気が更に増しているように感じる。

「もしかしたら揶揄われてて、本当はいないかもって思ってました」

 揶揄うどころか本気と書いてマジの極限ってかんじだったよ、という前のめりにも程がありすぎる言葉を口に出すことは流石に出来ず、とりあえず無難な線でいこうと「俺もこんな風に女の子誘ったの初めてだし」と正直に白状することにした。
 そこで気づいた。なんとなく感じていたことだが、彼女はどうやら思っていることがわかりやすく顔に出てしまうタイプらしい。その証拠に、彼女の顔には「そんなわけないでしょ」っていう言葉がありありと浮かんでいて、やっぱり俺ってそんなかんじに見られちゃうんだ、と思わず苦笑をこぼしてしまう。
 信じられないって顔だ、と指摘をすると、彼女はギクリとした様子で「そりゃあ……」と言葉を濁す。つまり、彼女から見て俺の今までの行動は手慣れた軟派男のそれのようだったらしい。
 こうして今、ベンチに並んで会話をしているだけでも奇跡みたいなものを感じているのに、沸々と湧いてくるのはここで終わりにしちゃうのは嫌だな、という欲深くも明確な意識。
 何を言っても彼女から俺に対する認識は変わらないかもしれないけれど、それこそついさっき知り合ったばかりの相手には言葉にしなきゃ何にも伝わらないっていうのは揺るぎない事実で。

「……でも、さっき俺が言ったことは純度100パーセントの本心だよ」

 君のこと、すっごい好みなんだって話。と、思いの外ガチのトーンで伝えた言葉は先ほどカフェで言ったセリフとほとんど同じだったけれど、視線を逸らさずにじっとこちらを見つめたままの彼女がその小さな唇をきゅっ、と結ぶかわいらしいしぐさが見られたのでとりあえずは良しとしよう。
 ちょっぴり流れた沈黙を吹き飛ばすみたいに「そうだ、名前教えてくれる?」と軽い調子で聞いてみたら、彼女は「えっと、はい……苗字名前です」と名乗ってくれた。名前ちゃんかあ、と今聞いたばかりの彼女の名前を声に出してみる。

「もう覚えちゃった」

 噛みしめるように言いながら、そっと手を伸ばして彼女 ── もとい名前ちゃんの髪に触れる。
 その丸い後頭部を撫でながら、ほとんど無意識のうちに距離を縮めてしまっていても、驚いたことに彼女は体を引く姿勢を見せない。じっと見つめた彼女の瞳の中ではそこかしこで灯る光が映り込み反射して、瞬きをするたびにきらきらと煌めいている。
 それは衝動的で、どうしようもなく強引な行為だった筈なのに何故だろう。まるで磁石みたいに引き寄せられるがまま、抗うことのできない魅力に負けた俺は彼女の唇に自分のものを重ねていた。
 ん、と吐息混じりに漏れた名前ちゃんの小さな声がかわいくて、脳みその中心で何かがはじけそうになる。ずっとこうしていたいと思いながらも名残おしく離れた唇の先、くっつけた額から感じたのは確かにそこにあるお互いの熱。

「……やだねえ、手ぇ早い男ってさ」

 今更何に懺悔したいのかわからないような言葉を吐きながら、改めて名前ちゃんと視線を合わせると、彼女のその瞳の奥にあるものが寸分違わず自分の感情と同じであることに気づいてしまう。
 それを指摘すれば、名前ちゃんは混乱したような表情で、そして熱に浮かされたように潤んだ瞳で肯定するように頷く。あーもうどうしよう、こんなのかわいすぎるでしょ。
 それじゃあ行こっか、と差し伸べた手に乗せられた小さな手を掴む。そこでようやく把握することができた。たぶんおそらく、あのカフェで初めて視線がかち合ったあの瞬間、お互いに同じ衝撃を受けていたに違いないのだ、と。


***


「私も、お名前を聞いてもいいですか?」

 そう言われたのは、たっぷりとお互いを貪りあったあとのこと。あれ、言ってなかったっけ、と漏らすと、ベッドにうつ伏せになっている名前ちゃんがこくん、とひとつ頷いた。

「趙だよ、趙天佑。改めてよろしくね、名前ちゃん」

 そう言って名前ちゃんの頭を撫でると、彼女はうれしそうに目を細めながらか細い声で「趙天佑さん」と俺の名前を口にした。
 それはただ、好きな女の子が自分の名前を唱えただけ。たったそれだけで湧き上がってきてしまったどうしようもない愛しさと、その感情のやり場に困って彼女の頬へキスを落とす。そこから耳へ、ほんの少し布団からはみ出した白い肩へ、背中へと落として行くと、彼女はくすぐったそうにみじろいて「もう私、動けないですよ」と頬を染め、困ったように眉尻を下げる。
 いわゆる運命の出会い、ってやつがこんなところに転がっているなんて思わなかった。
 朝までホテルでゆっくりしてから、神内駅へと名前ちゃんを送る。
 改札を抜ける名前ちゃんに向かって「またね」と軽く手を振ると、彼女はうれしそうに目を細めながらこくこく、と小さく何度も頷いて手を振り返してくれる。
 骨抜きとはまさにこのことだな、なんて思いながら、ズボンのポケットから取り出したスマートフォンのメッセージアプリには、つい今朝方教えてもらったばかりの名前ちゃんの連絡先。
 それに『昨日はありがとね、気をつけて帰って』と打ちこんでから『俺は多分またすぐ会いたくなっちゃうと思うけど』という文章を続け、少しだけ悩んでから付け足した文章は削ってから送信した。
 ぐーっと伸びをしながら歩き始めたら、幸福感を感じている自分の足取りはとんでもなく軽い。うっかり鼻歌なんかまで歌いそうになってしまい、浮かれすぎていることに対して漏れてしまったのは自嘲気味な苦笑いだった。
 彼女の職場であるカフェに顔を出したり、佑天飯店で手料理を振る舞ったり、ただ浜北公園を散歩したり、堪らなくなってこれでもかってぐらい愛し合ったり。
 そんな日々を送りながら「名前ちゃん、大好き」と思うままを伝えるたび、彼女の表情が微かに曇ることに気づいたのは、ちょうど付き合い始めて一ヶ月が過ぎた頃だったように思う。
 そんな微かな違和感は些細なものだと思っていたし、意識しなければ見過ごしそうな小さなものだった。彼女が俺のことを「趙さん」と呼び、頑なに名前を呼んでくれないのも、恥ずかしがってんのかな、程度に考えていた。
 だから、珍しく普段よりもドレッシーなワンピースに身を包んだ名前ちゃんへ何の気なしに「今日はなんか普段と雰囲気違うカッコしてるね」と声を掛けたのだ。

「あ、えっと……このあと合コンに誘われてるんです。いい機会だし行ってみようかと思って」

 予想すらしていなかったその発言に、えーとつまり、なんだ、合コン? えっ、どういうこと、と頭のなかでクエスチョンマークだけが増え、そして膨らんでいった。
 合コンに誘われているからおしゃれしてますって、名前ちゃんは隠すつもりもない様子でキッパリと言い切ったのだ。

「ごめん、えーっとさあ……いい機会ってどういうこと?」

 ぶつけた言葉に、彼女への怒りはなどは微塵もない。あるのは単純な疑問と、いつの間にか自分が彼女を傷つけるような行動をしでかしていたのではないか、という不安だけで。
 眉根を寄せ、何故か今にも泣きそうな表情になっている名前ちゃんを見つめながら「ちょっと混乱してるんだけど、俺って名前ちゃんの彼氏だよね?」と問うてみる。
 すると、彼女は驚愕の表情を浮かべてその目を丸く見開き、言葉すら発することが出来ないまま桃色の唇をふるふると震わせた。

「名前ちゃん、大丈夫だからゆっくり話して」
「え、あの……でも私達ってそういうことするだけの関係じゃ」

 今度は俺が眉根を寄せる番だった。
 そういうことをするだけの関係、彼女の言うそういうことっていうのはつまり、セックスのことを指しているのだろうか。いやいや、そんな筈ないでしょ。

「セフレってこと? えー違うよ、俺いっつも名前ちゃんのこと好き好き言ってるでしょ」

 そう言ってテーブル越しに名前ちゃんを覗き込むと、彼女はその瞳を潤ませたままふるふると首を横に振って「でも、付き合おうとかそういう話は今まで一切してない……です」と言い切った。
 うっそ、と漏れたその言葉は、脳から口に直で飛び出していた。
 つまり、付き合おうという話になったことがないから彼女は自分たちの関係が彼氏彼女ではないと思っていて、だから俺が自分の気持ちを伝えるたびにその表情を曇らせていた、ということらしい。
 ようやく繋がって見えてきた近頃の違和感。ついさっきの衝撃発言により、真っ暗になっていた目の前が拓けてくる。
 今まで、一人の女の子とこうしてちゃんと向き合うなんて機会が無かったからかもしれない。まさか、初手で自分の名を名乗り忘れていたことに加えて、そんなことすら伝えていなかったなんて。
 完全なる自分の落ち度に全身の力が抜けて、吐き出した深いため息がテーブルの上に落ちる。

「俺はさ、最初に一目惚れした時よりも今の方がもっともっと名前ちゃんのこと好きだよ」

 ガッチガチの本命、と続けると、みるみるうちの名前ちゃんの目に涙が溜まっていくのがわかる。
 名前ちゃんが俺のことをどうでもいいと思っていたわけじゃなくて、同じ気持ちでいてくれていたからこそ苦しんでいたことに申し訳ないと思いつつ、その健気さに「俺、やっぱりこの子のことすんごい好きなんだな」と改めて思ってしまう。

「だから改めて名前ちゃん、俺の彼女になってくれる?」

 心が通っていたようで実はすれ違っていた三ヶ月間が、ようやくここで交わっていく。
 キャパシティを超えてしまったらしく、名前ちゃんの目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ちていく。言葉すら紡げずにしゃくりあげる彼女の目元を親指でぬぐいながら、もどかしくなって対面から隣の席へと移動する。
 小さくなって泣きじゃくる名前ちゃんの背中をさすりながら、ごめんねの気持ちをこめてぎゅっと抱きしめる。
 まるで子どもみたいな体温の彼女がすがるみたいに頭を寄せてきて、あれ、もしかして、と思い当たったことがひとつあった。

「ずっと引っかかってたんだけど、名前ちゃんが俺の名前呼んでくれないのって、そういう理由があった?」

 そう問うと、目を鼻を真っ赤にした名前ちゃんは肯定するようにこくんと頷いて「名前で呼んだりしたら好きって気持ちから戻れなくなっちゃうって思ってて」とあまりにもかわいらしい理由を白状した。
 うんうん、と頷いてから「でも、もういいよね?」と続ける。だってもうちゃんと付き合いましょってことになったんだから、名前ちゃんにも俺みたいに戻れなくなってもらわなくちゃ。これ以上の独り相撲はあまりにも寂しすぎる。

「……天佑さん」

 名前で呼ばれるのはたぶん、一番最初に体を重ねた夜に名乗って以来だったと思う。
 恥ずかしさと安心感と、それともっとたくさんの複雑な感情が混じった彼女の声音はひどく儚く、そして優しいもので。胸の中があたたかい気持ちで満たされるのを感じながら「うん、いい感じ」と彼女の頭を撫でる。
 俺はあの日の夜から名前ちゃんのことを自分の彼女だと思っていたけれど、名前ちゃんはそうではなくて体の関係だと思っていた。つまりこの三ヶ月、実際にお互いの気持ちを通わせて付き合えていたわけじゃないってことだ。
 名前ちゃんは俺の好みのドンピシャだけど、それ以上に彼女のことを知れば知るほどその中身ごと愛しくて堪らなくなった。今までそんなものあるのか、なんて思っていたけれど、身体の相性だって信じられない程にいい。
 それをそのまま伝えたら、顔を真っ赤にした名前ちゃんの反応があまりにもかわいらしかったのでついつい額を小突いてしまった。

「……ってことは、俺たち今日からちゃんと付き合い始めたってことか」

 そうひとりごとみたいに呟いたら、名前ちゃんが嬉しそうに目を細めているのがわかった。

「名前ちゃん、しってる? 付き合いはじめでラブラブなカップルのこと、蜜月っていうんだよ」

 あ、そうだ、と思い出したように人差し指を立てて「彼氏いるんだから例の合コン、行っちゃダメだからね」と言ったら、名前ちゃんはこくこくと何度も頷いて「もちろんです、行きません!」と携帯を取り出し、即座に断りの連絡を入れてくれた。

「……ね、じゃあ今日これからの時間は俺がもらってもいいってことだよね?」
「え、でもあの、お店は」
「臨時休業だよ。もう名前ちゃんのこと抱きたすぎてそれどころじゃないし」

 ダメ? と顔を近づけると、名前ちゃんは困ったように眉根を寄せていたけれど「ダメじゃない……です」とやっぱり顔を真っ赤にしたまま言った。
 いつも以上に盛り上がってしまいそうな自分の昂りを感じつつ、これから迎える時間は蜜月初日に託けてとんでもなく甘いものになるだろうことを、きっと彼女もわかっている筈だ。

--- それではここから蜜月を
(20221029)



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