お昼食べにおいでよ、と誘われ訪れたのはいつもの佑天飯店。この店を初めて訪れたのはそう、三ヶ月ほど前だった。
 鉄鍋を振るいながら機嫌良く歌う彼の鼻歌が心地よくて、思わず「それ、なんていう曲ですか?」と聞くと「夢見た姿へ、って曲だよ。友達がよく歌うから覚えちゃった」と教えてくれたことをふと思い出す。
 目の前に出される大皿に盛られた料理はいつだって食べきれないほどで、申し訳なく思いつつもそれを伝えるたびに彼は「残っても食うやついるし、気にしないでいいよ」と笑うのだ。

「あれー? 名前ちゃん、今日はなんか普段と雰囲気違うカッコしてるね」
「あ、えっと……このあと合コンに誘われてるんです」

 いい機会だし行ってみようかと思って、と続けると、対面に座っている彼 ── もとい、趙天佑のサングラスの向こう側にうっすら透けている瞳が丸く見開かれた。
 そのあとに訪れたのは無言の時間。換気扇が回るウォンウォンという音だけがやけに大きく聞こえてくるなんとも言えない微妙な空気感。
 いつも物事にあまり動じることのないマイペースな彼が見せた表情は、明らかな驚愕であった。予想すら出来なかったそのリアクションにちいさく首を傾げた私から視線を外さないまま、彼は「ごめん、えーっとさあ……」と静かに口を開く。

「……いい機会ってどういうこと?」

 彼はどこか落ち着かない様子で丁寧に撫で付けられた髪に触れながら「もしかして俺、無意識のうちに名前ちゃんのこと怒らせるようなことしちゃってた?」と続けた。
 その言葉も反応も、私が想像していたものとは全く異なっている。いつもの調子で「あー、そうなんだあ」とか「気をつけて楽しんどいで」とか「飲みすぎないようにね」とか、そういう言葉が返ってくるものだと思いこんでいた。
 私でも察してしまうほど隠しきれない動揺の感情が、なぜ彼の表情と言葉に滲んだのか。そんなの、わかるわけがない。
 だって、私たちはお付き合いをしているわけではなく、彼氏だとか彼女だとか、そのような甘い関係ではないのだ。


***


 浜風街道から馬車街道に出て左手にある建物。その一階にあるカフェブレイブが私の職場である。
 もうあと一時間足らずで閉店となる夜の二十時過ぎ。店の扉がギィ、と開く音がして、入店した客の姿をみとめてから「いらっしゃいませ」と特に意識もせずに声を掛ける。まるでロボットみたいに、そうプログラミングされているかのように自然と口から出てくるその言葉。
 しかし、ちょうど今入ってきた男の妙な存在感とそのいでたちに私の視線は縫い止められてしまっていた。
 じっと見つめてしまっていたせいか、店内を観察する様にゆっくり視線を巡らせる彼とバチンと目が合ってしまい、慌てて小さく会釈をする。

「雰囲気いいねえ、ここ」

 レジカウンターにやってきたインパクトしかない見てくれの彼は、腰をかがめながら人懐こい笑みを口元に浮かべ、柔らかい口調でそう話しかけてきた。
 個性的なレザーのライダースジャケットと、派手な柄のシャツ。撫で付けられたツーブロックの黒髪。ブラックのネイルが施されたその指は、存在感のある指輪で飾られている。そして、サングラスの奥に透けている瞳はアンバランスなほど人懐こそうに見えた。

「ありがとうございます。宜しければ、こちらメニューです」

 そんな定型の台詞を発することに、ほんの少しだけ時間が掛かってしまった。カウンターに置かれているラミネートされたメニュー表を示すと、彼は「ああ、ありがとね」といってそちらに視線を落とす。

「えーと……あ、じゃあモカもらおうかな」
「畏まりました」

 少々お待ちください、と背中を向け、業務用のコーヒーメーカーを操作する。店内に他の客はおらず、今この空間にいるのは彼と私の二人だけだ。
 コーヒーメーカーを操作しながら、私は背中に貼り付いている視線に気づいていた。最早不躾の域であるそれはあからさますぎるもので、俄かに体が緊張してしまう。

「あの……何か?」

 淹れたてのモカコーヒーの入っているカップをソーサーに乗せ、更にそれをトレーの上へと移しながら思わずそう問うてしまっていた。
 すると、彼は悪びれる様子もなくニコッと笑い「いーや、ごめんね」とはぐらかす様にヒラヒラと軽く手を振ってからトレーを受け取った。
 カウンターから少し離れた席に着いた彼の背中をぼんやりと眺めながら、思わず「ふしぎなひとだなあ」と小さな声で呟いてしまう。
 本来ならば不快に感じるであろう不躾な視線を向けられていたのに、たったそれだけの感想で済んでしまった自分に対しても些か疑問だ。まあでもいっか、もうあとちょっとでお店終わりだし。
 カウンター内にひっそりと置かれている時計へ無意識に目をやりながら、ひとつ息を吐く。この時間帯はいつも暇だ。平日の夜に、駅からそこそこ離れているこのカフェを訪れる人間は少ない。ラスト一時間の業務は閉店作業のレジ締めや軽い掃除ばかりで、今日のように客の対応をすることは珍しい。
 固く絞ったテーブル用の布巾を手に持ってカウンターを抜け、近くの席からテーブルを拭き上げていく。ほとんど暇つぶしに近いその作業に勤しみながら、今日はゆっくり湯船に浸かりたいなあ、なんてぼんやりと考える。

「コーヒー、美味いよ」
「本当ですか? ありがとうございます」

 彼の座っている横のテーブルを拭き始めた時、そう声を掛けられた。手に持ったコーヒーカップにもう一度口をつけた彼は、それをソーサーの上に置くと満足気に笑む。
 こんなにも奇抜で、視界に入れたら目で追わずにはいられないほど目立つのに、彼が纏う雰囲気も口調も表情もとても柔らかい。私の様な普通の人間とは違うものを感じつつも、無意識のうちにうっかり心を許してしまいそうな不思議な穏やかさすらある。
 彼は「俺、異人町歴結構長いんだけど、あんまりこっちまで足伸ばしたことってなくてさ」と続け、テーブル布巾を手に持ったままの私に視線を向けると、その目を柔らかく細めて見せた。

「……こんなこと言ったら困らせちゃうだろうなって思ってはいたんだけど」

 お姉さん、すっごい俺の好みなんだよねえ。
 脈絡無く告げられた言葉に、私はリアクションを取ることが出来なかった。それどころか、ポカンと口を開けたまま固まってしまった私の姿は、彼の瞳にはさぞ滑稽に映ったことだろう。
 そんな私の様子を伺いつつ、苦笑いを交えながら眉尻を下げた彼は「お仕事って何時まで?」と言葉を続けた。
 すみません、そういうのはちょっと。
 と、そう言ってしまえばこのやりとりは済むに違いない。なんとなくだけど、目の前にいるその人は強引そうには見えないし、私を困らせるつもりはなかった、という前置きも嘘ではないことがわかる。
 カフェという場所柄、似たようなニュアンスの言葉を掛けられたことが全く無いわけではない。しかし、今まではそれを中々上手いこと躱してきていた。同じような言葉を言われたら「ありがとうございます」と苦笑いをしてから穏やかに断り、連絡先を渡されても連絡はしない。
 しかし、何度か経験があるのにそうするための言葉が出てこようとしないのだ。

「えっと、この店二十一時までなので、閉店作業とかしてからだとあと一時間ぐらい、ですかね……」

 その返答がほとんど了承であったことを、おそらく彼は察したに違いない。それがわかったのは、彼のサングラスの奥の瞳がうれしそうに揺れたのが見えてしまったからだった。
 ふう、と小さく息を吐き出した彼の視線は未だに私に留められている。

「ん……じゃあさ、もしちょーっとでも俺に時間割いてもいいなって思ったら、向かいのバッセンのあたりで待ってるから」

 少し話し相手になってよ、という言葉に、うっかりその場で頷きそうになってしまった。彼のその奇抜で目立つ格好も、隠しきれていないオーラも、本来ならばあまり関わりたくないと思わせるようなものである。
 もちろん気が向かないならスルーしてね、と気遣うセリフ。普段なら間違いなく「困ったなあ」と思う誘いに違いないのに。
 目の前で穏やかに微笑む彼に、たった何言か会話を交わしただけで強烈に惹かれてしまっているという事実に、駆け抜けていくその初めての感覚に、私の気持ちはまだ追いついてすらいなかった。


***


 慣れた閉店作業に勤しみながらも、どうしてもふわふわしてしまう気持ちを認めざるを得なかった。
 ただ目が合っただけ、ほんの少し会話を交わしただけ。それなのにどうしてだろう、湯船にゆっくり浸かりたいって思っていた筈なのに、私の気持ちはもう店の近くで待っているであろうその人の方へと向いてしまっていた。
 店の明かりを消し、ロッカールームで仕事着を脱ぎながら頭の中に浮かんだのは「本当に待っているのだろうか」という疑問。ううん、今更だけどその可能性の方が大いに有り得る。
 ここを出たらさらりと周りの様子を見て、あの人の姿が無かったら何事も無かったかの様に駅へ向かって湯船にお湯を張ってゆっくり入浴すればいい。なにも変わることはないのだから。
 施錠をし、店を出る。ちょっと確認するだけだから、と自分で自分に言い聞かせる様に心の中で唱えながら、ちょうど緑に点灯している店の前の信号を渡る。バッティングセンターの方向へと歩みを進めながら、自分の心臓の鼓動が大きくなっていくのを感じていた。

「あ、来てくれたんだ」

 そう声を掛けられたのはバッティングセンターの少し手前、昼間は賑やかなサッカーコート周りに設置されたベンチの方向からだった。
 ベンチから立ち上がったその人は「お疲れさま、まあ座りなよ」と私に向かってちょいちょい、と手招きをしている。なんというか、このいやなかんじのしないフレンドリーさだとか、その個性的な見た目の割に穏やかな口調とか、そんなところに不思議な魅力を感じてしまう。
 促されるままその隣に腰を下ろすと、彼がにっこりと笑みながらこちらを覗き込んでいることに気づき、つい顔ごと背けてしまった。

「いやぁ、言ってみるもんだねえ」

 なんと言葉を返して良いかわからず、ぱちくりと瞬きを繰り返していると「あはは、かーわいい!」とその人は楽しそうに声を上げて笑った。

「もしかしたら揶揄われてて、本当はいないかもって思ってました」

 ちょっと確認して居なければそのまま帰ろうって思ってて、と続けると、彼は腕を組みながら神妙な面持ちでうんうんと頷き「そりゃそうだよね、俺もこんな風に女の子誘ったの初めてだし」ととても信じられないような言葉を述べた。
 あんなにスマートに、すごく慣れた感じで声掛けできちゃう人がナンパしたの初めてって、そんなのそのまま飲み込んで「へえ、そうなんですね」なんて返せるわけがない。
 そんな私の気持ちは隣に座る彼に伝わってしまったらしく、彼は苦笑いを浮かべながらこめかみの辺りを指で撫でさすった。

「ありゃ、信じらんないって顔だ」
「そりゃあ……」
「まあいいけどね。……でも、さっき俺が言ったことは純度100パーセントの本心だよ」

 君のこと、すっごい好みなんだって話。
 カフェの中で言われた言葉をもう一度、念を押すみたいに繰り返されて、思わず喉の奥がこくんと鳴ってしまった。

「そうだ、名前教えてくれる?」
「えっと、はい……苗字名前です」
「ふんふん、名前ちゃんかあ」

 もう覚えちゃった、と笑いながら回された手のひらで後頭部を撫でられる。
 目の前に居るのは、ついさっき出会ったばかりの人。店内で少し会話をして、今だってほんの少し自己紹介の様な当たり障りのない会話を交わしただけ。それなのにどうしてだろう、触れられることが嫌じゃなくて、胸の奥がざわざわと揺れてしまう。
 人に惹かれるのって、その人のことを知っていく過程でそうなっていくものだと思っていた。だから、この状況みたいなことは初めてで、動揺してどうしたらいいかわからなくなっている自分と、もうそのまま身を任せてしまうことが正解なのだとハッキリ言い切れる自分が相反して体の中で鬩ぎ合っている。
 後頭部に添えられた手はそのままに、真っ直ぐ見つめてくる彼の瞳から視線を逸らすことなどもう出来なかった。彼が今、その瞳の向こう側で何を考えていて、このあとにどうなるのか。私だって、それがわからないほど子どもではない。
 強引な筈なのに、抵抗する気なんてもはや私の中には微塵も存在していなかった。
 ぐい、と顔を寄せられた瞬間、唇が重なる。あ、やっぱり、と思ったのは一瞬で、掠め取られる様に奪われたそれはたぶん、そんなに長い時間では無かったと思う。
 唇が離れて、額をくっ付けながら吐息を交換できるほどの距離で余韻に浸る。彼のレンズを隔てた向こう側に見えるその瞳の奥が、情欲に揺れているのに気づいてしまった私は思わず視線を外してしまう。

「……やだねえ、手ぇ早い男ってさ」

 そんな風に、まるで他人事の様に自分を称した彼は「でも、名前ちゃんもまんざらでもないって顔しちゃってるね?」とどこか悪戯っぽく言う。きっと、私の目の奥にも彼と同じ色のものが浮かんでしまっているに違いない。
 気づけば、私はそれを肯定するようにこくん、と頷いてしまっていた。


***


 彼が趙天佑という名前であると知ることが出来たのは、事が済んだ後だった。
 名前ちゃんのことは聞いといて自分は名乗りそびれてんだからいっぱいいっぱいだったってことだよ、と趙さんはほんの少し照れた様に笑いながら、やっぱり優しく私の頭を撫でてくれた。
 この伊勢佐木異人町は、その名の通り多種多様な国籍の人間で溢れている。名前からして、おそらく彼も日本人ではないのだろうということがわかる。
 そんな趙さんとの関係は何度か続いて、体を重ねることだけじゃなくて、デートみたいなことだってした。料理人を生業としているらしい彼の経営する佑天飯店で初めてお手製の料理を振舞われた時、その美味しさのあまり言葉が出なくなってしまったほどだ。

「ねえ名前ちゃん。このあと時間、ある?」

 ブレイブを訪れた彼がカウンター越しに声を潜めながらそう誘ってくるたびに、私の胸はうるさいほどに高鳴った。しかし、それと同時にどうしようもなくやるせなくて苦しい気持ちを覚えるようになったのは、出会ってから一ヶ月が経過した頃だった。
 私たちはお付き合いをしているわけではなくて、ただ時々会ってそういう行為に及んだり、気まぐれに出かけたり、たったそれだけの関係だった。それがわかっているのに、切なくて苦しくてどうしようもない気持ちは会うたびに募っていく。
 へばってしまった私の横で「こんなに気持ちいいと、もう名前ちゃんしか抱けないよ」と私の頭を優しく撫でながら言われた言葉。うれしいのに、それを素直に受け取れないことが泣きそうになるぐらい悔しくて悲しい。
 趙さんと会うたび、交わるたび、彼のことを麻薬みたいなひとだ、と思うようになっていた。いつだってほしい言葉をくれて、私のことをずぶずぶに甘やかして。一緒に過ごせば過ごすほど気持ちは募るばかりなのに、それ以上の関係にはなれないことがわかっている。
 人と体を重ねることがこんなにきもちいいなんて知らなかった。側にいるだけでたのしくてうれしくて幸せな気持ちになるなんて知らなかった。
 しかし、こんなに好きな人ができても自分が「その他大勢のうちのひとり」なのだという事実を思い出すたびに、じんわりと目の奥が熱くなって泣きそうになるのを堪えなくてはいけなくなった。

「苗字さん、最近よく見るツーブロでサングラスの派手な人って彼氏さんですか?」

 そう問うてきたのは、年下の後輩だった。早番で出勤した私は、同じく早番の彼女と一緒に開店準備に勤しんでいた。
 彼女の発した「派手な人」というのが趙さんのことであるとすぐに思い至る。
 彼氏さんですか、という問いに胸の奥がズキン、と鈍く痛んだのを感じつつ、とっさに首を振って無理矢理に作った笑顔を顔に貼り付ける。

「……ううん、違うよ! ただの知り合い」
「本当ですか!? こないだ職場飲みしたじゃないですか、あの時の写真見た友達が苗字さんすっごいタイプらしくて」

 合コンセッティングしてって頼まれちゃって、と彼女は続ける。
 普段ならば「ごめん、そういうのはちょっと」とすぐに断っていたけれど、ここで私の脳裏に浮かんだのは彼氏ではない「彼」のこと。
 趙さんと一緒にいると幸せだけど、それを感じるたびにその関係性の矛盾に心が痛む事が増してきていた。これ以上気持ちを募らせても辛いだけだと思う様になっていた。
 だから、これは気持ちを振り切るいいタイミングなのかもしれない。

「……うん、行く」
「やったー! また都合聞きますね!」

 きっと、ちゃんと「彼氏」って相手が出来たりすれば、趙さんとの関係は断ち切る事が出来る。無理矢理にでもそうしなければ、幸せを感じるたびに増す胸の痛みにこれ以上堪え続けることはおそらくもう難しい。
 そして、その合コンは今日の夜。ちょうど微妙な時間帯の今、佑天飯店の表には「準備中」の札が下げられており、誰かが入ってくることはない。

「あのさあ、ちょっと混乱してるんだけど、俺って名前ちゃんの彼氏だよね?」

 目の前に座る趙さんの口から飛び出してきたその言葉が、私には聞き間違いとしか思えなかった。咄嗟に出てくる言葉もなく、どこか気が遠くなるような感覚すら覚える。

「え、あの……でも私たちってそういうことするだけの関係じゃ」
「セフレってこと? えー違うよ、俺いっつも名前ちゃんのこと好き好き言ってるじゃん」
「でも、付き合おうとかそういう話は今まで一切してない……です」
「へ? ……うそ、そうだっけ?」

 趙さんは眉根を寄せながら思案する様にその手を顎に当てる。私がこくんと頷くと、彼は「あー、なるほどねえ」と言いながら力が抜けた様に小さく首を振り、自嘲気味に小さく笑った。

「俺はさ、最初に一目惚れした時よりも今の方がもっともっと名前ちゃんのこと好きなんだよ。ガッチガチの本命」

 その言葉だけで、今まで重たい石みたいに居座っていた苦しいだけの何かが一気に融けていくのを感じる。
 今までもらった優しい言葉も楽しい気持ちも、ぜんぶぜんぶ不毛なものではなかったのだとしたら。目の前にいる彼のことを好きだという気持ちを、もう抑えなくてもいいのだろうか。
 今まで感じていた張り裂けそうな痛みではなく、泣きそうになるぐらいの熱い感情が胸の奥から溢れ噴き出して、一気に涙として溜まっていくのを感じていた。

「だから改めて名前ちゃん、俺の彼女になってくれる?」

 頷くよりも、はい、と返事をするよりも、堰を切った様に涙がこぼれていくほうが早かった。
 あらあらあら、と言いながら、手を伸ばして私の目元を拭ってくれる趙さんの指があたたかくて愛おしい。ボロボロになっていた心が、そのたったひとことで修復されてしまったのがわかる。
 なんかテーブル越しだともどかしいね、と柔らかく笑んだ趙さんは、立ち上がって私の隣の席に移動してくると、私の背中をとんとん、と優しく叩きながら抱きしめてくれた。

「さっき、名前ちゃんが合コン行くって言った時は一瞬意識飛んだよ」

 冗談めかして言いながら、私の頭を撫でてくれるその手のひらのあたたかさはいつもと同じだ。それを素直に受け取って享受できることがこんなに幸せに思えるなんて。

「ずっと引っかかってたんだけど、名前ちゃんが俺の名前呼んでくれないのって、そういう理由があった?」

 既に極限にまで大きくなってしまった気持ちを抑えるために、名前で呼ぶことは避けなくてはいけないと思っていた。そんなことをしたらきっと、私の頭も体も勘違いをしてしまうことがわかっていたからだ。

「だって、名前で呼んだりしたら好きって気持ちから戻れなくなっちゃうって思ってて」
「うんうん。でも、もういいよね?」

 名前ちゃんも戻れなくなってほしいな、俺だけじゃ寂しいよ。
 そう伝えられた言葉もその声音も気が遠くなるほど甘くて、例えられないほどやさしくて、私は再びじんわりと目の奥が熱くなるのを感じる。本当はずっと、彼のことを「趙さん」ではなく「天佑さん」って呼びたかった。
 何の柵もなく彼の名前を呼んで、何も後ろめたい気持ちもなくただただ「好き」という気持ちを大切に抱きしめていられたらいいのにと、何度そう思っただろう。

「……天佑さん」
「うん、いい感じ」

 よく出来ました、と私と視線を合わせる彼の目が、サングラスの向こう側でうれしそうに細められる。

「最初にも言ったけど名前ちゃん俺の好みドンピシャだし、中身だってかわいいし、エッチするとすんごい気持ちいいし、そんなの離せるわけないでしょ」

 さすがに頷くことが出来ず、顔が発火するみたいに熱を持つのを感じながら視線を泳がせていると、天佑さんは「あはは、真っ赤」と楽しそうに笑いながら私の額を軽くちょん、と指先で小突いた。

「……ってことは、俺たち今日からちゃんと付き合い始めたってことか」

 天井を仰いだ天佑さんは、私の肩を抱きながらひとりごとみたいに呟く。一緒にいても、同じ方向を向いていなかった矢印がようやく並んだらしい。彼から向けられた言葉や気持ちが不毛なものではなく、どこまでも真っ直ぐで純粋なものであったことがどうしようもなく嬉しい。

「名前ちゃん、しってる? 付き合いはじめでラブラブなカップルのこと、蜜月っていうんだよ」

 楽しいねえ、と口角を上げる彼の表情を眺めながら屈託なく頷く。
 あ、そうだ、と天佑さんは思い出した様に人差し指を立て、私を見下ろしながら「彼氏いるんだから例の合コン、行っちゃダメだからね」と神妙な面持ちで言った。

--- お気に召すまま蜜月を
(20221015)



- ナノ -