本来なら一日で済むはずだった依頼が、まさか三日にも及ぶ張り込みになるとは思ってもいなかった。 気を張り続けていたせいか、身体だけでなく心も疲弊しているのを感じる。肩は重く首は痛み、まるで体の節々に錘を付けられているかのような錯覚を覚える。しかし、それ以上に感じるのはもう圧倒的なまでに足りない癒しである。 それを満たす為にはどうすれば良いのか。頭の中に同棲中である愛しい彼女の顔を思い浮かべながら、ひとつ吐き出したため息は思いの外深いものになってしまった。 神内駅の改札を抜けると、ほとんど無意識に足がイセザキロード方面へ向かうのはきっともう、この異人町が僕にとってのホームになったからに違いない。 イセザキロードの大通り。ちょうど青に変わった十字路の信号を渡った先のビルに入り、エレベーターのボタンを押す。 そのビルの二階に構えられているのが僕が調査員として働いている横浜九十九課の本拠地、つまり事務所である。 「九十九くん、お疲れさま」 その奥でいつものようにパソコンの画面に向き合っている相棒である九十九くんの背中にそう声を掛けると、彼は「おや!?」と少しばかり驚いたような声を上げてこちらを振り向いた。 「今日はお疲れでしょうし直帰して下さいとお伝えしたはずですが……!?」 「うん、けど調査書後回しにしたら面倒だからさ。それだけやってからにしようと思って」 せっかく気遣ってくれたのにごめんね、と言いながらノートパソコンを手に取ると、九十九くんは眉尻を下げて困ったように笑みながら「真面目なのもいいですが、無理は禁物ですぞ」と穏やかに言った。 「これ終わったらすぐ帰るよ。それに九十九くんだってずっと補助してくれてたでしょ、ありがと」 「いやいや、杉浦氏には体を張っていただいているのですから当然ですよ」 そんな九十九くんに笑いかける。ありがたいことに明日は休みを貰っているが、調査書の作成を後回しにして休み明けに作成するとなると折角の休みを心の底から満喫できない気がしたのだ。 応接用を兼ねたソファーに腰を下ろし、テーブルの上に置いたノートパソコンを開いたら、喉の奥からは無意識に堪えきれないほどの欠伸が飛び出してきてしまった。 だめだ、あんまり長い時間ここに座ってたらたぶん立てなくなってしまう。そんな予感がして、急いで調査書のフォーマットを立ち上げる。 いま出てきてしまった欠伸が九十九くんに気づかれていなければいいな、と思いながらそっと背後に視線を向ける。すると彼は作業に没頭しており、こちらの様子には気を向けていないであろうことがわかって安心した。 キーボードに指を走らせながら、重い瞼が降りてきそうになるのをなんとか堪える。うっかり何度か意識が飛びかけて船を漕いでしまっていたような気がするけれど、なんとか調査書を仕上げ、保存してノートパソコンを閉じた。 「よし、じゃあデータ入れといたから確認お願いしまーす」 「本当にお疲れ様でした。どうぞ良き休日をお過ごしくだされ」 「九十九くんもちゃんと休んでね。じゃ、お疲れ様」 そう言って立ち上がったら急に目が覚めてきた。眠い時のソファーとかベッドって、腰掛けるだけで残りの体力を吸い取る機能なんかが搭載されているんじゃないだろうか。 そんなことを考えながら、ついさっき歩いてきたばかりの道をなぞるように駅へと向かう。家まではここから電車で三十分ほど。車だったらドア・ツー・ドアだけど、時間はもっとかかってしまう。 一刻も早く彼女の待つ家に帰りたい。たった三日、しかし今の僕にとってはされど三日。おかえりなさい、って笑顔で出迎えてくれるであろう彼女を抱きしめて、そのまま白い首筋に顔を埋めて胸いっぱいに息を吸いたい。 神内駅の改札を通り抜けながら、その想像だけでうっかり上がってしまった口角を隠すように手のひらで口元を覆った。 *** 同棲しているアパートに辿り着き、鍵を開けて玄関へ入る。 ただいま、と声を掛けると、奥から顔を出した名前さんはその表情をぱっと明るくして「おかえりなさい!」とこちらへ駆け寄ってくる。 その様子がまるで飼い主の帰宅を待ちわびていた子犬や子猫のようで、ついうっかり口元を緩ませてしまう。 「はあ、ほんっと疲れた……」 「お疲れさま、ごはん今あっためるね」 そう言ってリビングの方へ踵を返す名前さんの手首を咄嗟に掴むと、彼女は「うわあ!」と驚いた様子で声を上げた。それに構わずぐいっと引き寄せて抱きすくめ、その首筋に顔を埋める。 ああ、名前さんのにおいがする。あったかくてあまくて、こうしているだけでジリ貧で真っ赤になっていたヒットポイントが見る見るうちに回復していくのがわかる。 「もう……ごはん食べないの?」 おなか空いてるでしょ、と咎めるようなニュアンスを含んだ言葉を発しつつも、まるで小さいこどもをあやすみたいに僕の頭をよしよしと優しく撫でてくれる名前さんの優しさを、その手のひらの温もりから感じ取ることが出来る。 「あのさ、僕こういう場面で言われてみたかったセリフがあるんだよね」 「えー、なに?」 「"ごはん? お風呂? それとも私?"ってやつ。はい、言ってみて」 「うわあ……」 あからさまに嫌そうな声を上げる名前さんの様子を確認すると、目を細めながら渋るような表情をしている。 しかし、僕はこの人がちょっと心配になるぐらい押しに弱いということを既に知っているのだ。 「あーあ、僕三日も張り込み頑張ったのになー! しかも帰りにちゃーんと事務所寄って調査書だって作ってきたのになー! 早く帰りたかったけど後にすると面倒だから船漕ぎながら頑張ってパソコンに向き合ったのになー!」 もうひと押しで済んだところを、これでもかと押して押して押しまくる。すると、葛藤するように寄せられていた名前さんの眉間の皺が少しずつ緩んでいくのがわかった。 「ね? ……名前さん、お願い」 これが最後のとどめだった。 名前さんを抱きしめている腕をほんの少し緩め、彼女と視線を合わせながら小首を傾げて見せる。我ながら小賢しいな、と思いつつも疲弊しているということでここはひとつ許して頂きたい。 名前さんは観念したかのように小さく息を吐き出すと、ゴホン! と畏まった様子で咳払いをした。 「……では、いきますよ」 「うん、どうぞ」 「文也くん、ご、ごはんと、おふろ……それとも私に、」 「名前さんにする! はい連行しまーす」 それを言い終えるのさえ待てなかった僕は、彼女を抱き上げたその瞬間にはもう目的地を寝室と定めていた。 「え、ちょっと……! 疲れてるんじゃなかったの!?」 「疲れてるよ、だから最初に名前さん食べて一緒にお風呂入ってごはん食べるの、最高の流れでしょ」 「えええええ……!」 抱き上げられたまま動揺とほんの少しの抵抗の言葉を口にする名前さんを運びながら、その先の展開を想像するだけで自分がどんどん復活していくのを感じていた。 僕もう名前さんがいなきゃダメみたい、とついつい口にしてしまったら、彼女は「もう……」と恥ずかしそうに言いながらも僕の頭をぎゅう、と抱きしめてくれた。 ああもうかわいすぎる、こんなのたまらないに決まってるじゃん。ごはんよりお風呂より名前さんをいちばん最初にして正解だ。 そう思いながらベッドの上に彼女をおろして「それじゃあいただきます」と手を合わせた。 --- |