「杉浦さん」

 彼女の声に呼びかけられて、閉じていた瞼をゆっくりと開ける。
 僕はどうやらソファーの上で横になって眠ってしまっていたらしかった。その横で中腰になっている名前さんがふんわりと柔らかく笑んだので、思わずつられて目を細める。

「あれ、ここ……」

 どこだっけ、とひとりごとみたいに呟いてから、まだ寝ぼけていてすっきりしない視界に目を凝らす。
 部屋の中を見回してからもう一度名前さんに視線を移すと、彼女の姿がなんと大きめの白いシャツを羽織っただけであることに気づいた。あまりの衝撃にそこでようやくぼんやりしたままだった脳みそが稼働をし始め、横になっていたソファーから弾かれたように飛び起きる。
 なにこれ、っていうか名前さんはどうしてそんな格好をしているのだろう。
 目のやり場に困りつつ、カッコ悪くもしどろもどろになりながら「名前さん、なんで」と小さい声で問いかけてみても、彼女は軽く首を傾げながら僕に向かってにっこりと笑顔を向けるだけ。
 謎に聖母のような笑みを浮かべている名前さんの顔から何気なく下の方へ視線を下げると、羽織ったシャツから伸びた白い脚が剥き出しなことに気づいた。
 これがなんと呼ばれているものなのか、知らない男はきっとこの世にいない。それは男のロマン、いわゆる彼シャツってやつだ。まさか本物を、しかも好きな人のその姿をこうして拝めるなんて。……じゃないって!
 だからなんでこんな状況になっているのだろうか。こうなってしまった過程を一切思い出せず、深呼吸をしながら額に手を当てる。

「気持ちよさそうに寝てましたよ。疲れてたんですね」
「あ、うん。ええとそれで、その格好だけど……」

 名前さんはそんな僕の言葉にきょとんとした表情で「杉浦さんは、こういうのきらいですか?」と、どこまでも無邪気に返してくる始末。
 嫌いなわけないです、正直言ってたまらないです。
 僕がそう、正直にハッキリ言ってしまえるキャラであったならどんなに楽だったろう。っていうかたぶん、いやおそらく彼シャツが嫌いな男なんてこの世にいるわけがない。ああもう、わかっててわざと聞いてるのかな、この人。
 そんな悶々とした感情を無理やり封じ込める為、ゴホンと小さく咳払いをしてなんとかこの妙な空気を変えようと努める。うっかり視線を下げると彼女の柔らかそうなふとももが目に入ってしまうので、顔が不自然に上がってしまっているだろうけれど、もうこれは仕方ないものと思ってもらうしかない。
 好きな子のこんな姿を見て、まともでいようと必死になっている僕ってなんて偉いんだろう。八神さんとか海藤さんが今の僕の状況になっていたとしたら、そのままいただきまーすって方向に持っていってしまうに違いない。

「嫌とかそういうんじゃなくて、嫌いってことももちろんなくて、でもなんていうか」

 どうしよう困った、全然言葉が出てこない。ついでに、嫌じゃない上にものすごく眼福ですって思ってしまっている自分がいるから否定できないところもなかなかにつらいわけで。
 そんな僕の言葉に「本当ですか? それならよかったぁ」とほっとした様子の名前さんはやっぱりどこまでも無垢に笑んでいる。
 いや、僕は全然「それならよかったぁ」って感じではないのですが。情けないことに、混乱しっぱなしの脳みそはいつまで経っても落ち着く気配すら無い。

「それじゃあ……杉浦さん、見ててくださいね」

 そう言うと、名前さんは心もとなく止められていたワイシャツのボタンにその指を掛ける。
 僕がまさか、と思い口をあんぐり開けてしまったのと、彼女の指先がそのボタンをひとつ外したのはほぼ同時だった。

「見ててって……え!? うわ、ちょっと!」

 動揺を口にしながらも、僕の視線は暴かれていく彼女の肌に縫いとめられてしまったみたいに釘付けになっていた。
 どうやらこれが悲しき男の性っていうやつらしい、なんて客観的かつ冷静に考察をしている自分と、思わず小さく喉を鳴らしてしまう自分。そんな相反するふたつの感情の間で板挟みになっている僕の目の前で、名前さんはほんのりと頬を染めながら羽織ったシャツをゆっくりと肌蹴させる。
 露わになった白い肩、艶めかしく浮かんだ鎖骨、淡い色の下着に覆われている柔らかそうな白いふくらみ。その魔力にも似た魅力に抗うことなんか出来るはずもなく、僕の視線は普段隠されている彼女の肢体に吸い寄せられてしまう。
 名前さんて、服着てるとわからないけど意外とあるんだな、なんて不埒なことを考えてしまい、最早まともな理性などほとんど残っていないことがわかる。
 だってしょうがないじゃん。好きな女の子のこんな姿を見て、こんな風に迫られて、まともでいられるほうがおかしいに決まってる。
 けど、だからってやっぱりこんなのは。

「……っ、名前さん! ちょっと待って!」

 なけなしの理性の尻を思いっきり叩いてそう叫ぶと、次の瞬間、目の前の場面が突然切り替わった。
 肩を上下させて荒い呼吸を繰り返しながら、大げさに顔を動かして周りの状況を確認すると、この場所が勝手知ったる八神探偵事務所であることがわかった。
 なぜならば、いつもの所長椅子に座っている八神さんが笑いを堪えるみたいに顔を覆ってぷるぷると震えていたからだ。

「あれ……?」
「あー、堪えんのキッツ……で、杉浦くんは名前ちゃんの出てくるどんな夢見ちゃったの?」

 この八神さんに話してみなよ、とニヤニヤしている八神さんの表情を見て察する。僕は、今のしょうもない夢を見ながら彼女の名前を思いっきり呼んでしまっていたらしい。
 途端に顔がカッと熱くなって項垂れるみたいに顔を覆うと、八神さんはいよいよ堪えきれずに笑い出してしまった。最悪だ、このネタでしばらくいじられるのが確定してしまった。

「……お騒がせしました、僕帰る」
「疲れてんならもっと休んでけば?」
「もうじゅーぶん休んだから」
「でもそれ、落ち着いてからのがいいんじゃない?」

 言われて、そこでようやく自分の中心にある違和感に気づく。自分の体のことだ、視線をやらなくてもわかる。生理現象なのだから仕方ないとはいえど、この場所にいない彼女への罪悪感に思わず深いため息が口から飛び出してしまう。
 天井を見上げ、吸って吐いて深呼吸。煩悩よ消えろ、雑念よ吹き飛べ、名前さん本当にごめんなさい、と念じながらそれが落ち着くのを待つ。

「……お邪魔しました、それじゃ」

 立ち上がり、普段より大股で八神探偵事務所、と書かれた扉に向かう。
 この空間からさっさと逃げ出して、あんな夢を見たことも綺麗さっぱり忘れてしまおう。なによりも名前さんに申し訳無さすぎる。次に顔合わせたとき、一体どういう顔をすればいいんだろう。
 ドアノブに手を掛けようとして視線を上げた瞬間、僕は「うわ」と言って伸ばしていた手を咄嗟に引っ込めてしまった。もちろん、その行動には理由がある。

「あれ? 杉浦さん」

 お疲れ様です、と八神探偵事務所へ入ってきたのはこともあろうか名前さんその人だったのだ。

「うそでしょ、マジか……」

 名前さんの姿を認めた八神さんは、僕の背後でいよいよ笑いが止まらなくなってしまっている。さっきは堪えてたくせに、弾かれたように笑う姿を見るにもう我慢の限界だったようだ。

「え? なんですか、会うなりその反応」

 さすがに傷つくんですけど、とムッとした表情で眉根を寄せながら目を細める名前さん。
 途端に、僕の脳内には先ほどの名前さんの姿が浮かんできてしまった。夢に出てきた彼女の誘うような甘い雰囲気と、白い肌やらやわらかそうな何やらを思い出して意図せず生唾を飲み込んでしまう。

「いや、ええとその……あーもう無理! 今日は無理! 名前さんごめん!」

 そう言ってその場から逃げ出し、階段を駆け下りる。その背中に「もう、なんなんですか!」と珍しく憤慨した様子の名前さんの声が投げかけられたけれど、足を止めることはしなかった。
 あとでちゃんと謝罪しなきゃと思いつつ、それに加えて今逃げ出してしまった理由をどう取り繕うべきか考えなくちゃいけないことに気づき、まだ火照ったままの頬を軽くピシャリと叩いた。

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(20220818)



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