epilogue.


 月曜日から蓄積された疲れのピークを一番感じるのは木曜日だと思う。
 業務がひと段落し、パソコンの画面端にちらりと視線をやれば、いつの間にやら時刻は昼に差し掛かっていた。それを視認すると、急におなかが空いていることを自覚させられてしまう。
 軽めに背中を伸ばして息を吐いた瞬間、デスクの上に置いてある私用のスマートフォン画面がぱっと明るくなる。
 この時間帯だからアパレルの広告とかそんなのでしょう、と再び視線をパソコンに戻そうとした私を引き留めるように、ぽんぽんぽん、と立て続けに連続して入る通知たち。
 さすがに気になってスマートフォンを手に取り、指で通知をタップすると、それは趣味であるプロバスケットボール観戦仲間たちからのメッセージだった。

「えっ、なに……?」

 うっすらと感じたのは嫌な予感だった。長いこと女をやっていれば、こういう時の勘がわりかし当たってしまうのだということを、そりゃあもう良く知っている。
 私の推し、もしかして怪我で故障したとかそんなんじゃないよね? オフシーズン中にハードなトレーニングしちゃったとか?
 この夏、自国開催されたバスケットボールのワールドカップ。今大会に於いて、初めてヨーロッパ勢に勝利した日本代表。それにより、自力で来年のオリンピック出場を決めた男子代表チームは大いに世間の注目を浴び、世の中にバスケットボールのブームを巻き起こすに至った。
 もともと地元の湘南にあるチームを応援していた私は、急に起こって加速していったバスケブームを喜ばしく思いつつも、ほんの少しだけモヤモヤとした感情を抱えていたりする。とはいえ、一ヶ月後に迫るシーズン開幕に向けて胸を躍らせている最中である。

『さっき公式からリリースされたやつ見た? とうとう来たなって感じ』
『私ちょっと叫んじゃったよ、在宅で仕事しててよかったわ……』
『だいじょうぶ? 生きてる?』

 同世代のブースター仲間たちと組んでいるグループメッセージ。その中で立て続けに送られてきた短い文章から感じ取った不穏な空気に、画面をスクロールしていく右手人差し指の腹が緊張によってピリピリと痺れはじめたような気さえする。
 公式、と言われ、それが何を指しているのかはすぐにわかった。
 指先を震わせながら、推しチームである湘南ソルバーンズの公式ページを開く。そしてそのトップに表示されていたのは【三井寿選手結婚のお知らせ】という、これ以上ないってぐらいわかりやすく簡潔な見出しであった。
 三井寿。彼こそ私が最も推している選手であり、ワールドカップで大活躍し、日本にバスケブームを巻き起こした立役者の一人だった。
 男らしく精悍な顔つきと、どことなく混じったガラの悪い雰囲気。しかし、性格は天然でノリが良く、上からも下からもいじられる愛されキャラというギャップ。もちろんバスケットボールのセンスはピカイチで、オールラウンダーで在りながら精度の高いスリーポイントシュートを武器としている彼は、二年ほど前から代表にも定着している。
 私がこうしてブースターをやっているのだって、たまたま連れて行かれた試合で彼の活躍を目にしたところから始まっている。
 以前はSNSの更新頻度など一ヶ月に一度あるかないかで、尚且つ使い方もめちゃくちゃ下手だったけれど、ここ数年はちまちまと自身の写真を上げてくれるようになった。なんなら、現在の私の待受はそこから拝借したシュートを放つ彼の写真だったりする。
 そんな彼が、来季もチームとの契約を更新したというニュースが入り、ほっとしていたところだった。

「マジかあ……」

 と、まあ渦巻く感情が大きく複雑すぎてそんな感想しか出てこないわけでして。
 自分が、いわゆるガチ恋とかリアコとか呼ばれるような類ではないことは胸を張って言い切れる。ミッチーが元気に楽しく、怪我なくバスケをやってくれていたらそれで良いと思っているし、常々あんな男前で面白い男に特定の相手がいないなんてことはないだろうな、と思っていた。
 けれど、いざそれを思いっきり突きつけられたこの瞬間、自分が明確にショックを受けていることが、なんなら一番の衝撃だった。
 推しであるミッチーとどうなりたいかなんて、そんなことは考えたことも望んだこともこれっぽっちだってない。だけどそうか、それでもこういう気持ちになっちゃうのか。
 前の職場で、男性のダンス&ボーカルグループを応援していた先輩が、自身の推しメンバーがどこぞのアイドルと結婚報告をしたとかで大層嘆いていたことを思い出す。先輩もガチ恋とかリアコのファンではなかったから、おそらく現在進行形で私が感じているこのなんとも言えない空虚感を抱いていたに違いない。
 推しの幸せはうれしいし、喜ばしい報告であることには違いない。けれど、これがいわゆる「ロス」というやつなのだと冷静に考察をしつつ、どっと疲れたような倦怠感によって、先ほどまで感じていた空腹は私の中から消え去ってしまっていた。
 ブースター仲間からのメッセージにリアクションをしないまま、すっと指を動かしてほとんど無意識にSNSアプリのアイコンをタップしていた。
 バスケの情報収集と交流用に作成したアカウントのフォローページに出てきたのは、数分前に更新されたばかりのチームのポスト。見慣れた──なんなら、スマートフォンの裏に貼ってあるステッカーと同じエンブレムのアイコンが、公式へのリンク付きで【三井寿選手結婚のお知らせ】を投下していた。
 うわ、これは現実ですよってめちゃくちゃ容赦なく殴ってくるじゃん。
 それでもページを目で追ってしまうのはやめられずに、繋がっているブースターたちのポストを流し見していく。

『仕事にならないので半休叩きつけた、もぐります……許せ』
『みっちゃん結婚!? びっくりしてお弁当の卵焼き落とした! お幸せに!』
『おめでとう! 推しよ、幸せになってくれー! でもちょっと寂しい……』
『宮リョとか深津さんとか、桜木くんとか流川くんにもお祝いしてもらうのかな? とにかくおめでとう、ミッチー!』
『あけすけすぎて気にしてなかったけど、もしかして動画とかでぽつぽつ言ってた同居人って、お相手だったり? リョーちんなら知ってそう』

 うんうん、と頷きながらそれらを追っていたら、ページの一番上にぽん、と新しいポストが更新されたことに気づく。
 えっ、と私がか細くも声をあげてしまったのは、それが三井寿本人のアカウントによるものであったからだ。逆光を受ける真朱色のユニフォームと、うっすら見える背番号14の数字。暗転したホームアリーナ内で撮影されたであろうアイコンは、去年のシーズン開幕と同時に更新された写真だ。
 そして、そのポストは公式の【お知らせ】を引用しながら、こう綴られていた。

『結婚しました、めっちゃ幸せです。これからは支えてくれる妻の為に、そして応援してくださる皆様の為に今まで以上に頑張っていきますので、引き続き応援よろしくお願いします』

 めっちゃ幸せです、の文字が、私の脳内では思いっきりミッチーの声で再生された。
 ああもうわかりました! もちろん応援しますよ! けどちょっとだけ浸らせてください、シーズン始まるまでにはいつも通りの湘南ソルバーンズブースターの私に戻っていることを誓いますので! 来季ももちろんミッチーの14番ユニ買って着るので!
 そんな叫びを自分の心の中で轟かせていると、その下にツリーになっているポストがあることに気がついた。

『ちなみに、オレがアップしてる写真を撮ってくれてたのが妻になってくれた人です』

 マジかあ、と先ほども声に出してしまった言葉を吐き出しながら、今度は自分の口がゆるゆると緩み始めたのを感じていた。
 ミッチーがSNSに上げてくれている写真はそりゃあもういい写真ばかりで、身内にカメラを得意としている人がいるのかなって思うぐらいだった。自然体な彼と、女性受けしそうな色合い、切り抜き方、もちろん被写体であるミッチーの表情や躍動感だとか、それがたまらなく私の好みだった。
 だからまあ、待ち受けなんかにしちゃってるわけなんですけど。
 ちなみに、いつもその写真たちにクレジットの紐付けはされていなかった。カメラマンさんって大体クレジットつけてもらうもんじゃないのかな、と不思議に思っていたことがある。そしてその答えは今日、いまこの瞬間に出たわけだ。
 そら仕方ないわ、と苦笑しながら、小さな声で「ミッチー、お幸せに」と言葉に出して吐き出した。SNSを閉じて現れたのは、私の待ち受けに設定されている大好きな写真。
 数多の最高エモーショナルフォトを撮影した方が嫁だってんなら、そんなのもう祝うしかない。だって私は、いつの間にか被写体だけでなく撮影者のファンにもなってしまっていたのだから。

「あー、っつってもロスはロス……」
「……あの、大丈夫?」
「へっ!? あ、ハイ!」

 掛けられた声に振り返ると、同じ部署の先輩が心配そうに私を見下ろしていた。取り繕うように「あっ、いえ……! ええと」と些か高くなってしまった声をどもらせながら、手のひらにあるスマートフォンをぎゅっと握り締め、視線を逡巡させる。

「なんかあった? お昼いく?」

 私でよければ話聞くよ、と眉尻を下げながらこちらを伺ってくれる先輩の優しさにじん、としつつも、おなかのほうは、相も変わらずぜんぜん全くすいていない。
 けれど、相反するようにもうめちゃくちゃに何かを食べたいと思っていた。このヤケクソのような気持ちを感じるのは、数年前に元彼に振られた時ぶりだ。……って、なんでこんな時にイヤなことを思い出してんだ、私!

「推しが数分前に結婚報告しまして。……うれしいのに、なんなんですかねこれ」
「あー、気持ちわかる! 私も好きだった俳優が結婚した時、なんかわからないけどショックだったなあ……。よおし、今日は豪勢なランチにしよ! ね!」
「……はい! 行きます!」

 窓の外に見える外は夏の日差しが眩しくて「ミッチーが結婚報告する日に合いすぎてるでしょ……」という感慨深いような、感傷的のようなグチャグチャな気持ちになった。それを振り払うように財布とスマートフォンを引っ掴み、自席から立ち上がる。
 ミッチーおめでとう! でもごめん、やっぱりちょっとだけ言わせて。

「ロスってこんな気持ちになるんですね、なるほどな……」

 私がぼそりと呟いた言葉に「まあまあ、生きてる人間のこと応援してるなら誰しもが通る道さ」と言った先輩が、軽い調子で明るく肩を叩いてくれた。


(end.)


...Thank you for a lot of love.
And, thanks a lot to all of you.


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