4.

 後期の講義一週目が終わって、いつの間にか十月になっていた。
 つい最近まで半袖で過ごせていたのに、湿度も下がってほんの少し秋を感じる気候になってきた気がする。まあ、秋とか春なんて今の日本じゃあっという間に過ぎちゃうんだけど。

「なぁ」

 そろそろ夏物全部しまっちゃっても平気かな。でも涼しくなったと思ったら急に暑くなる、みたいなこともままあるしなあ。しまったあとに引っ張り出すの面倒だし。そうだ、冬物も出すだけ出しておいた方がいいかもしれない。

「おい」

 そういえば冷蔵庫の中、空っぽになりかけだったかも。帰りはスーパーに寄って帰ろう。そうだ、お茶のストックあったっけ。

「隣! いいっすか!」

 耳元で突如聞こえた声に驚き、ぼんやりしていた私はいささか大げさに飛び跳ねてしまった。心臓がばくばくしている。ばくばくが多少おさまると、今度は沸々と怒りが湧いてきた。
 私はポケットに両手を入れて意地悪そうな笑みでこちらを見下ろしている彼、三井寿を少し睨みつける。カエルみたいに飛び跳ねてしまったことが恥ずかしくて仕方なかった。

「……なんで驚かせるの」

 私はじっとりと彼を見据えつつ、座っている席から横にひとつずれる。彼は「サンキュ」と言いながら今まで私が座っていた席に腰を下ろした。
 未だ忌々しい視線が自分に向けられている事に気づいたのか、彼はこちらをチラリと見てから「何度も声かけたっつの」と言い訳のように口を尖らせながら言った。

「もっとこう、声の掛け方はいろいろあると思うんですけど」
「逆に聞くけど、普通に声かけても気づかないほど何を考えこんでたんだよ」
「衣替えのこととか、あと今日の夜ごはんは何を作ろうかなあとか」

 三井くんは一瞬キョトンとしてからプッと噴き出すように笑った。

「バカにした! 重要なことだもん!」
「いやワリィ、そっかそうだな、そら重要だわな」
「……思ってないな?」

 ケラケラと笑っている三井くんを見て思う。たぶん、いや絶対、確実にこの人適当に相槌を打っているだけだ。

「まあ確かに先週に比べて涼しくなった気ィするわ」

 タオルケットだけじゃなんか明け方寒いし、と言いながら、三井くんはリュックをゴソゴソして教科書やらルーズリーフやらを取り出す。同じくリュックの中から取り出された彼のペンケース。
 その中から出てきたのが私があげたボールペンだったので、ちょっとだけうれしい気持ちになってしまう。たかがそんなことで、驚かされた怒りなんてどこかに飛んで行ってしまった。簡単にほだされてしまう自分は何て単純なのだろう、と苦笑いする。
 先週のこの時間、この席で三井くんと初めて会話をした。
 まさかあれからこんなに顔を合わせるようになるなんて、ましてや住んでいるアパートまで一緒だなんて誰が予想出来ただろう。
 いつの間にか教授が教室に入ってきて講義が始まっていた。
 この博物館学という講義は、毎時間プリントが配られるだけで教授が延々と話し続けるだけなので、教室の雰囲気もゆったりとしている。
 そのせいか、まだ講義が始まったばかりなのに睡眠学習、否、居眠りを決め込んでいる学生がぼちぼち見受けられる。まあ、それに乗じて小声で会話をしている私たちも私たちなんだけど。

「こないだ、送ってくれて本当にありがとう。なんかお礼しなきゃって思ってて」
「別にいらねーって、結局帰り道同じだったわけだし」

 あの飲み会が金曜日で、今日が水曜日。なんやかんやで今日まで三井くんとアパートの方で顔を合わせることはなかった。
 そもそも学部が違うし、彼は部活をやっていて私もバイトがあるし、帰宅時間も取っている講義も違うので、顔を合わせる事の方が珍しいと思う。だからこそ三年になった今の今までお互いに面識がなかったのだから。
 あの時、三井くんが私の携帯に打ち込んでくれた連絡先にはまだ連絡をしていない。連絡してもいい時ってどんな時だろうと、土日はいろいろ考えてしまった。駆除できないあの虫が現れるのはいやだけど、それぐらいしか連絡する口実がないような気がする。
 肘をついて、くるくるとペンを回している三井くんのパーカーをすこし引っ張りながら小さな声で「あのね」と声をかけると「どした?」とほんの少し眉を上げた彼がこちらを向いた。

「えーと、もし会話相手が欲しくなったら連絡するかもです」
「おう、そうしろ」

 歯を見せてニッと笑う三井くん。その見事なまでの笑顔の成分には爽やかさしか含まれていない。とにかくとんでもなく眩しい。

「さっき言ってたけどよ、毎日自炊してんの?」
「うん、ほぼ。時々サボっちゃうし、作り置きが多いけど」
「へえ、スゲーな……」

 男の子は自炊なんてあんまりしないよね、と返してみる。
 そういえば同じゼミの男子もバイトして家に帰ってきてから自炊なんてとてもやる気が起きないとか、コンビニの店員に絶対顔を覚えられているだとか、そんな話をしていた。
 三井くんは考え込むように小さく唸りながら口元に手を当てていたが、しばらくして「よし決めた」とぼそりと呟いた。決めたとはいったい何のことだろう。

「送ったお礼ってヤツ、やっぱもらっていいか?」
「えっ? うん、もちろん。でも無理なことは」
「たった今、オレの今日の晩メシは苗字さんの手料理に決まった」

 私はもう一度「え?」と言った。

「でもアレだな、男を部屋に上げんのはよくねえから電話もらえたら取りにいくし」
「いや、それは別に全然かまわないんだけど」
「は!? いいのかよ、つーかそこはかまえ、そして気にしろ」
「でも、ほんとにそんなのでいいの?」

 三井くんは目を細めて眉間に皺を寄せながら「そんなんておまえなあ……」と一言ぽつりと言って、それからため息をついた。

「あのな、ひとり暮らしの男子大学生ってのはめちゃくちゃ手料理に飢えてんだよ」
「なるほど。じゃあなにか食べたいものとかある? きらいな食べ物とか」
「手料理ならなんでもいい、きらいなもんはない」

 本当はあれが食べたいとか好きな食べ物を言ってくれたら助かるんだけど、と思ったけれど口には出さないでおく。
 そういえば昔、お母さんに「夜ごはん、何が食べたい?」って聞かれた時に「なんでもいいよ」って返したことが何度もある。あれ、結構困らせちゃってたんだろうなあ、と反省した。

「三井くん、部活何時まで?」
「七時までだから、残らなきゃ早くて半とかには帰れると思う」
「わかった、じゃあそれくらいに用意しとく」

 なんか考えてたらめっちゃ腹減ってきちまった、と無邪気に笑う三井くん。
 いまは三限だからついさっきお昼が終わったばっかりなんだけどな、というツッコミはあえてしないでおく。
 私の頭の中はというと、衣替えのことはもうすっかり消え失せて、今日の献立をどうするかということでいっぱいになってしまった。


***


 夕飯の支度を七時過ぎぐらいに終えて、ぼーっとバラエティ番組を観ていた私を現実に引き戻したのは、ピンポーンというインターホンの音だった。
 はい、と出ると返ってきたのは「おう、オレだけど」という聞き覚えのある声。ドアをあけると部活終わりらしい三井くんが立っていた。髪が若干濡れているところをみると、どうやら練習後にシャワーを浴びてから来たらしい。

「いらっしゃい、はいどうぞ」
「……いや待て、どうぞって」

 あからさまに動揺しながら遠慮している様子の三井くん。
 たしかに、女子の部屋に上がるのは抵抗があるかもしれない。それでも、私は三井くんのために料理をして、どんな顔して食べてくれるのかなってたくさんたくさん想像していたし、それを楽しみにしていた。
 だから、ちょっと強引かもしれないけれど。

「いいの! せっかくなら一緒にごはん食べたいもん」

 えーいやってしまえ、という気持ちで彼の腕をグッと掴む。
 すると、彼は小さく呻いてから観念したように「……じゃあお邪魔します」と小さな声で言った。よし、どうやらこの場は私の勝利のようだ。
 鍋を温めようとコンロに火をつける私の後ろで、どこにいたらいいのかと迷っている彼の空気を感じ取り、テレビを付けっ放しにしていた隣の部屋に誘導した。室内を見回しながら、私に言われるがまま座らされた三井くんは文字通り借りてきた猫のようだ。

「間取り、オレの部屋とそんなに変わんねえんだな……」

 いつもどっしり構えているイメージの三井くんが、小さくなってキョロキョロしているのは新鮮だったのでもう少し眺めていたかったけれど、私は配膳をすべくキッチンに戻った。
 ご飯は十五分前に炊けていたし、蒸らしも充分だ。相も変わらず落ち着かない様子の彼だったが、私がキッチンから皿やらを運んでくるとあぐらをかいていたのに正座に直ったりして面白かった。

「楽にしてていいってば」

 三井くんは笑いを堪えきれなかった私を見やり、眉間に皺を寄せながら「だって女子の部屋だぞ、緊張するっつーの」と少し恥ずかしそうに言う。

「おお、すげえ……」
「実はちょっと張り切って作りすぎちゃったのです」

 手料理が食べたいというリクエストに応えるべく私が作ったのは家庭的なメニューの代表格である肉じゃが、それに鮭とキノコのバターホイル焼き、ほうれん草の梅和え、大根と油揚げのお味噌汁にごはんだった。

「特別手が込んでるのより、お家で食べるごはんみたいなのがいいのかなって思って」
「すげえ」

 すげえを連発する三井くんはうれしそうに目を輝かせている。ああ、作ってよかったな。心がぽかぽかしてくる。

「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」

 さっそく肉じゃがをひとくち頬張った三井くん。咀嚼するのもほどほどに、私の方を向くと「天才かよ」と真顔で一言。どうやら賞賛されているらしい。

「お腹減ってると思って多めに作ったからどんどん食べて」
「いやあ、染みるわ」
「味、薄くない? へいき?」
「ちょうどいい、めちゃくちゃ美味い」

 何を食べても美味いを繰り返す彼の箸は止まらず、どうやらかなりお気に召した様子だった。口に合わなかったらどうしよう、と不安だったのでほっとした。
 たくさん食べてくれて、こんなに喜んでくれるなんて、作ってよかったと心の底から思える。いつも一人の食卓が今日は二人なのもうれしい。
 結局、三井くんはごはんをおかわりして、多めに作ったおかずも全て平らげてくれた。

「ごちそうさまでした」

 礼儀正しく両手を合わせた三井くんは、私が流しへ持っていこうとした食器を「オレがやる」と持っていってくれた。

「めっちゃくちゃ満足した。マジでありがとな」
「あのね、これこないだのお礼っていったでしょ?」
「ああ、そんな事言ったなオレ」
「一緒にごはん食べられてうれしかったし楽しかったから、結局また私が得しちゃった」

 三井くんは無言だったけど、なぜかうんうんと頷きながら手を伸ばし、私の頭を二度ほどぽんぽんと軽く撫でてきた。

「オレがこんなこと言うのもおかしいけど、あんまり男をホイホイ家に上げんなよ」
「はーい、お父さん」
「お父さんじゃねえ」
「でもこの部屋に来た男の子、三井くんが初めてだよ」

 深い深いため息をついた三井くんは下を向いて頭をガシガシと掻き、しばらくフリーズしてしまった。冗談めかしてお父さん、なんて呼んでしまったのは失敗だっただろうか。

「……わかってねえ」
「なにが?」
「別になんでもねえよ」

 使った食器を洗っていたら、三井くんがそれを拭いてくれた。やっぱりお礼は返せなかった気がする。
 私が「ねえ」と声をかけるのと、彼が「なあ」と声をかけてきたのはほぼ同時だった。私は濡れた手を拭きながら先にどうぞ、のつもりで手を出して彼の言葉を待つ。

「迷惑じゃなきゃ、またメシ作ってくれねえか?」

 また一緒に食べてぇからさ。
 そう言った三井くんの頬が、心なしか少しだけ赤かった。でも彼は目を逸らさず、私の目をじっと見つめてくる。その表情を見ていたら、私にも熱が伝染してきたみたいで耳のあたりがジワーっと熱くなる。
 私も同じことを思っていた。同じことを言おうとしていた。また一緒にごはんを食べる機会があったらいい。これからも一緒のテーブルで向き合ってお話ができたらいい。

「……あのね、私もおんなじこと思ってた」

 そう言うのがやっとだった。
 マジか、と笑った彼の照れたような笑顔は、きっとしばらく忘れられそうにない。
 私はドキドキと鼓動する心臓の音にそっと蓋をして、ムズムズする不思議な気持ちには気づいていないふりをした。


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