39.

 卒業して、引っ越しを終えて、入社式があって、目まぐるしくバタバタと毎日を過ごしていると、最初はキツくても体がそれに順応してしまう。
 いつの間にか入社して二ヶ月が経とうとしていた。どんなに朝起きたくなくても眠い目を擦りながら顔を洗って化粧をして、足は勝手に駅に向かうし、いつの間にか混み合った電車に乗り込んでいる。これを当たり前の日常であると思えるようになってしまうのだから、人間の適応力というものはすごいと思う。
 入社したばかりの頃は毎日がてんやわんやで、朝から晩まで気を張っているせいか家に帰ると途端に電池が切れて、気を失ったかのように眠りに落ちてしまっていた。そのせいで部屋のダンボールは全く片付かず、休みの日になんとか自分で自分のおしりを叩きながらチマチマ進めて、荷ほどきという苦行を終えたのはつい最近のことだ。
 仕事の方はまだまだ先輩に助けてもらうことばかりで、それでも少しずつ自分にできることが増えて環境にも慣れてきたころ、やっと自炊を再開できた。
 ごはん作る余裕ができたよ、とメールで寿くんに報告をする。夜九時頃に送ったメールの返信はいつも日付が変わったあとだ。夜に起きていることが苦手な私は朝目覚めてからその返事を読む。名前のメシが食いてえ、という短い文章だけで少しだけ幸せな気持ちになれる。
 けれど、それと同時にやはり寿くんはとても忙しい生活を送っているのだろうということが容易に推察できた。受信の時間を見ながらこんな時間まで起きているなんて、といらない心配をしてしまう。
 本当はすこしでも声を聞けたら、と思う。ヘトヘトになって帰ってきた時とか、ちょっと失敗をして先輩から「大丈夫だよ」と言われても不甲斐なくて立ち直れない時。そんなときに寿くんの声を聞けたなら、単純な私はすぐに復活できてしまうだろう。
 私でさえこんなにもてんやわんやなのだから、彼の方はもっと大変なはずだ。何をするにも全力投球の人だから、無理してパンクしていなければいいと思う。
 お風呂から上がって明日のお弁当の準備を終え、ぼんやりと携帯を眺めてみる。寿くんの携帯番号を表示させながら、小さく首を振って息を吐く。ちゃんとごはん、食べてるかな。
 気付けばもう六月だ。桜の季節は春の陽気をゆっくりと感じる余裕もなく過ぎ、大型連休はあっという間に終わり、そんなこんなでジメジメと憂鬱な梅雨に突入してしまった。

「苗字ちゃんの彼氏って、同い年だっけ?」

 ある時、会社のランチミーティングでそんな話を振られた。自分が話しかけられたということに気づかず、すこし間を開けてから「へ?」とまぬけな声を上げてしまった。あわててすぐに頷いて「そうです」と返事をする。
 同じ部署のひとつ上の代の先輩に誘われたランチミーティングと銘打たれた女子会は、主に月初の繁忙期が落ち着いた頃に開催されている。参加するのは今月でもう三回目だ。

「大変だよねえ。学生時代から付き合ってるとさ、社会人になってお互いに生活環境とか活動時間とか交友関係ガラッと変わるじゃん。当時付き合ってた彼なんかより働いてる身近な先輩の方がカッコよく見えちゃったりしてさ」

 それで別れちゃったんだよね、と笑う先輩社員。内心「私にそんな話をされても」と思いながら苦笑いを浮かべる事しかできなかった。
 女性だけで集まると、図らずもこういう話の流れになってしまうのは仕方のないことだとは思う。初回の時に彼氏がいるのかと聞かれて正直に「います」と答えてしまったことをこっそり後悔していた。
 寿くんとは就職してから二ヶ月と少し顔を合わせていない。些細な日々の出来事を報告し合うメールは大体二日に一度のペース。電話も数えるほどしかできていない。あっちは持ち帰りの仕事に追われているかもしれないと、私の方からは電話を出来ずにいるので寿くんから掛かってきたときに少し会話をする程度だ。
 確かに、バリバリ働いている先輩はカッコよく見える。けれどそういう気持ちには全くならなかったので、彼女の言い分には同意できなかった。
 でも、とふと心に暗い不安が広がる。寿くんの方はどうなのだろう。思ってた通りになっちゃったのかな、と考えないようにしていた思いが心の中を支配していく。
 寂しいとか、会いたいとか、そういうのは私のわがままだ。もう学生じゃないし、いい大人なのにそんなことを伝えられるわけがない。忙しい彼の負担になるようなことは言いたくない。
 そう思えば思うほど、自分の気持ちを押し込めれば押し込めるほど心が苦しくなっていくということに気づきながら、どうすることも出来ずにいる。
 会いたいとか、顔を見たいとか、本当はもっともっと声を聞きたいとか、そんなことを言ってしまったら、寿くんは無理して時間をつくってくれるに違いない。ちょっと困った表情で笑う彼の顔が頭の中に浮かぶ。モヤモヤは体の中に充満していくばかりだけど、それを必死に押さえつけることに躍起になっているとすこしだけ気が紛れる。
 いつの間にか話題は「どの部署の誰さんが結婚した」だとか「あの部署の誰さんと誰さんがお付き合いしているらしい」なんていうものに変わっていた。

 帰宅して、作り置きにしていたおかずを温めて、テレビを眺めながら食事をして、入浴を済ませる。いつものルーティンをこなし、ぼーっとしていたら、あっという間にもう日付が変わってしまいそうだ。そろそろ寝なきゃ、と目を擦りながら布団に潜る。

『まだ起きてるか? 声聞きたい』

 一行だけのメールが届いたのはそんな時で、そのメールは私の意識を一気に覚醒させた。もちろん、と返信をしたら、直後に着信が入った。

「ごめんな、遅い時間なのに」

 寿くんの声を聞くのはいつぶりだろう。ぜんぜん起きてたよ、と返事をしながらついついひとりでにこにこしてしまったけれど、誰にも見られる心配がないというのはいい。
 彼は毎日があっという間に過ぎていくこと、とても充実していること、バスケ部の話なんかをぽつぽつと話してくれた。うんうんと相槌を打ちながらその話を聞く。少し声を聞くだけで元気が出てくるのだから不思議だ。

「ところでよ、急なんだけど来週末とか空いてねえか?」

 そう言われて心臓が飛び出そうなほど高鳴った。部活が休みでやっと落ち着けそうなのだと寿くんは続ける。もちろん私に「空いてます」以外の返事は無い。しかし、それよりも先に私の口からは「寿くんに会えるの、すごくうれしい」という言葉が飛び出していた。
 少しの沈黙のあとで、弾けたような笑い声と「オレも」という言葉。

「でも、そのせっかくのお休みだけど……大丈夫なの?」
「何言ってんだ、名前に会うのがいちばんリフレッシュになるに決まってんだろ」

 喉の奥から変な声が出そうになった。ああもう、明日だって仕事があるのにうれしくて眠れなくなってしまいそうだ。
 今週をがんばって、来週を乗り切ったらやっと彼に会える。それだけで、どんなに大変な仕事を振られても、どれだけへこむようなことがあっても乗り切れるような気がした。


***


 約束の時間はお昼過ぎなのに、昨日はほとんど眠れなかった。二ヶ月ぶりに会う、ただそれだけなのに、ドキドキして緊張して、そしてうれしさで目が冴えてしまっていたからだ。
 大学の頃、散々気持ちのゆるんだ部屋着やらを見られてしまっていたのに、なかなか服が決まらなかった。髪の毛をどうしようかと洗面台の前で悩みに悩み、結局家を出る時間はギリギリになってしまった。
 待ちあわせの場所へ向かう電車の中でもソワソワが止まらず、気を紛らわすために音楽を聴こうと耳にイヤホンを差したけれど、そんなことで気が紛れることはなかった。
 待ちあわせの五分前に目的地の駅に到着し、改札を抜ける。あたりを見回すと、切符売り場の横に立っている彼の姿をすぐに見つけた。なんて声を掛けようか。
 名前を呼ばれたのはそんな時だった。「名前!」という声にぱっと顔を上げると、立ち止まってしまっていた私に気付いた寿くんが手を挙げながら駆け寄ってくるところだった。
 形の良いアーモンド形の目をぱっと開けた彼は、私の前まで来るとニッと笑ってみせる。前髪を立ちあげて、ちょっと大人びて見える寿くんのその笑顔は全く変わっていない。
 ただ彼と向き合っただけで、名前を呼ばれただけで自分の中にあったモヤモヤがものすごく簡単に消えてしまった。

「ちょっと痩せたか?」

 変わらない寿くんの声。心配そうにこちらを覗き込みながら視線を合わせてくれている彼の大きな手のひらが頭の上にポンと乗せられる。春でも、夏でも、秋でも、寒い冬でもいつだって暖かくて、触れるだけで私の心までぽかぽかにしてしまう魔法の手。
 私の中で堰き止められていた何かが音を立てず静かに、しかし一瞬で崩れた。目の前にいるはずの寿くんの表情がぼやけている。「どうした!?」と慌てたような声だけが耳に届いて、胸の前でぎゅっと結んでいた自分の手の上にぼたぼたと水が落ちる感覚でやっと気づいた。

「わ、あ、あれ? なんで?」

 まるで小さな子どもみたいにぼろぼろと涙を流す自分に自分で驚いてしまう。堰を切ったように止まらなくなってしまった涙は流れ落ちるばかりで、拭っても拭っても収まらない。
 私、どこか壊れちゃったのかな。ただ「ひさしぶり」って言って「元気だった?」って聞こうとしただけなのに。それを言う前に零れだした涙のせいで、まだ挨拶すら出来ていない。
 わるかった、という静かな声が耳に届いてから、ゆっくりと体を包まれる感覚に驚いてまばたきを繰り返す。私をぎゅっと抱きしめる彼の広い胸、たくましい腕。小さい子をあやすみたいに背中を優しく撫でられていると余計に恥ずかしくなってくる。
 謝らないといけないのは私のほうなのに。顔を合わせて、声を聞いて、頭に手を置かれただけでしゃくりあげるほど泣いてしまうなんて。

「落ち着くまでこうしてるから」

 その声にこくこくと頷きながら、私は彼の胸にすがりつくことしかできなかった。これはただのわがままだから我慢なんかしてないって、そう思いこんでいただけだったんだ。
 駅を出て、ロータリーにあるベンチに座る。
 寿くんに「わるかった」なんて言わせてしまったことが申し訳なくて、いろんなことを我慢しきれなかった自分が恥ずかしくて情けなくて、彼の顔を見ることができない。
 少し落ち着いてきた頃に「どこか二人で落ち着いて話せるとこにでも入ろう」という提案をされ、私はこくんと頷いた。カフェやファミレスでのようなたくさんの人がいる場所で話す雰囲気ではないし、まだ早い時間だから個室の居酒屋も空いていない。
 彼に手を引かれて歩く私は本当に小さな子どもみたいだ。溜まっていた気持ちを吐きだすみたいに大泣きしたら大分すっきりして、ちょっとだけ体が軽く感じる。
 と、突然寿くんが足を止めた。相変わらずぐすぐすと鼻をすすりながら、どうしたのだろうと彼を見上げる。寿くんは眉間を皺を寄せ、何かを思案するような神妙な面持ちで私にちらりと視線を向けた。

「そ、その、なんつーか、他意はない、から安心しろ」

 彼が何を言っているのかわからず、私は首を傾げた。個室っていってもカラオケとかで話すのはイヤだし、人がわんさかいるとこじゃ落ち着かねえもんな、と独り言のように、そしてどこか自分に言い聞かせるようにぶつぶつと呟く寿くん。彼の眉間の皺は見る見るうちにどんどん深くなっていく。そこで気が付いた。いま私たちがどこにいて、どんな建物の前に立っているのかということに。

「え、こ、ここって」

 ひっくり返った素っ頓狂な声が出てしまって、空いた手で口を覆った。休憩がいくら、宿泊がいくらと書かれたボードが埋め込まれている華美な建物が並ぶ通り。わかる、しってる、入ったことはないけれど。

「ち、ちげーぞ! けどその、落ち着いて話出来るとこっつったら今の時間ねえだろ」

 いまからオレの部屋にいくのも、名前の部屋に行くのも時間もったいねえし、と寿くんはぼそぼそ言いながら唇を尖らせている。この照れ方、全然変わってない。久しぶりに会うといってもたった二ヶ月。今や彼は三井先生だけど、変わらずに私の好きな寿くんのままだ。
 寿くんは眉間に深い皺を刻んだまま、意を決したように私の手を強く握ったかと思うと、少しだけ辺りを気にしながらその建物へと入っていく。強引に手を引かれながら、緊張ですっかり硬直しきった私の様子は、きっと関節の錆びたロボットのようだったに違いない。

 寿くんがぱっぱと選んだ部屋に入った私は、思わず「わあ」と驚嘆の声を上げていた。
 二人で寝そべっても余裕がありそうなふかふかのベッド、そしてその前には大きなテレビ。ついさっきまで緊張でガチガチになっていた私はどこへやら、部屋の奥にあるバスルームを覗くと、白くて丸い大きな浴槽がある。なんとジャグジー機能までついているようだ。
 脱衣所がガラス張りでベッドのある部屋から丸見えなことにやっと気付いて、私はしゃいでしまった事が恥ずかしくなった。そして、ベッドのヘッドボードの上にはコンドームがこれ見よがしに用意されており思わず視線を逸らしてしまう。
 ここはそういう場所で、そういうことをするための部屋なのだということを改めて認識させられたようで、なんとかそのことを頭の中から消し去ろうと小さく首を振ってみる。
 ゆっくりお互いの話をするために入っただけだ。周りに人がいる場所で落ち着いて話なんてできないだろうから、二人で腰を据えて話せる場所としてここに来ただけ。そう自分に言い聞かせながら「さっきはごめんね」と切り出してみた。ベッドに座る寿くんの隣に腰を掛けると彼は「謝るなって」と優しく目を細めながら私の頭の上に手を置いた。

「ホントはもっと連絡取ろうとしてたんだ」

 そう思っていても、授業を終え部活を終え、帰宅して明日の準備をしているといつのまにか日付を越してしまっているのだと寿くんは続けた。

「寝てるとこ起こしたくねえし、そう思ったら連絡できなかった。オレだけの都合でこっちの時間に合わせられねえから」

 私は彼の負担になりたくなかった。だから頻繁にメールを送ることは控えたし、本当は会いたいということも、もう少し声が聞きたいということも伝えずにいた。いま、こうなってからやっとわかる。自分の気持ちを押し殺したばかりに、お互いがお互いを思いやりすぎていたからすれ違ってしまっていたのだ。

「おんなじこと思ってた」

 寿くんの眉が少しだけ上がる。本当は声を聞きたかったこと、もう少し早く会いたかったこと、それを伝えれば負担に思われるのが怖くて言葉にできなかったこと、今日をどれだけ楽しみにしていたのかということ。そして先程、久しぶりに大好きな人の体温に触れてどうしようもなく安心してしまったせいで押し込めていた感情が堰を切ってしまったこと。

「もう少し自分のわがまま、伝えあってもいいのかもしれねえな」

 きっとこうだからと、勝手に考えて勝手に想像して、自分の気持ちを抑え込んだ。そういえば前もこんなことがあった。あの時、もう二度とこんな気持ちにはなりたくないと反省したはずなのに。もう遠慮をし合う必要なんかなかったのに。

「これからはお互いに思ってることちゃんと言おうぜ」

 会社で変な男につかまってねえかとかめちゃくちゃ心配してたんだからなと、寿くんはどこか悔しそうな表情で言った。そんな心配しなくていいのに、と返すと、彼は納得のいかない様子で「おまえは自分のことわかってなさすぎ」とぼそぼそ続けた。

「で、なんつーか……早速だけど提案がある」

 寿くんはゴホン、とわざとらしく咳ばらいをすると、握った拳を自分の膝の上に乗せた。そして、かしこまった様子で真っ直ぐに私と視線を合わせる。こくんとひとつ頷いてから、私は彼の言葉を待った。

「卒論提出し終わったぐらいから、なんならならもっと前から考えてたんだ。ただまだそんな時期じゃねえと思ってたから」

 寿くんにしては珍しく歯切れの悪い切り出し方に、私は小さく首を傾げる。彼の表情は見る見るうちに険しくなっていき、そのまましばらく落ち着かない様子で目を泳がせていたかと思うと、突然意を決した様な強い視線で私を射抜いた。

「一緒に住まねえか?」

 少しの沈黙のあと、何度かまばたきを繰り返しながら「いっしょに、すむ……?」とまるでオウム返しのようにその言葉を抑揚なく繰り返した。耳を赤くした寿くんの視線がどこまでも真っ直ぐだったから、彼が至極真面目にその言葉を発したのだということはすぐにわかった。
 寿くんはこくんとひとつ頷いて、そしてボソリと「同棲しようってことだよ」と呟き、視線を一瞬斜め下へと向けてから落ち着かない様子で自分の首の後ろをさすった。三井さんと名前さんは一緒に住むもんだと思ってたんですけどね、といつかの彩子ちゃんの言葉が蘇る。

「まだ引っ越したばっかだし、すぐにとは言わねえ。けどそうしたいって、いつかそうなれたらって思ってた」

 名前がいやじゃなかったらだけど、と寿くんは続ける。それが最高な提案であることは間違いなかった。手を叩いて踊りたくなるほどうれしい気持ちを必死で抑える。
 付き合っているといえど赤の他人。他人同士が一緒に暮らすということは軽い決断ではなく、楽しいことばかりじゃなくて、想像よりも遥かに大変だろうということもちゃんとわかる。
 それでも、私は彼の言ったその言葉の意味を理解すると、間髪入れずに「私もそうしたい」と返事をしていた。断る理由なんてない、それが今の私たちにとっていちばんいい選択なのだとすぐにわかったからだ。
 瞳を大きく見開きながら「マジか!?」と弾かれた様に言った寿くんは、今度は空気が抜けたようにハァと大きく息を吐き、大きな背中を丸めて肩を落とした。びっくりしてその背中をさすったら「緊張してたから気ィ抜けちまっただけ」と目を細め、疲弊した様子で笑う。

「そういう気でいることぐらい、もっと早く言っときゃよかったな。名前はそこまで考えてねえだろと思ってうだうだしちまってた」

 確かに、人に言われるまでそんなこと考えもしなかった。今までの距離があまりにも近すぎたから、物理的な距離が離れてしまうということに鈍くなりすぎていた。彩子ちゃんにも、高校時代から仲の良かった友達にも同じことを言われたのだと伝えたら、寿くんは「オレも宮城にせっつかれてたよ」と力なく笑った。
 やっと全てを伝えあってから、お互いの近況報告をする。職場の環境はとてもいいこと、それでも月に一度程度開催される若手女子のランチミーティングが少しだけ憂鬱なことを話したら、寿くんは「女子はいろいろ大変だな」と神妙な面持ちで腕を組み頷いていた。
 彼の方はというと、毎日職場の高校まで自分の車を運転して通勤しているのでだいぶ運転技術が上達したこと、部活では副顧問兼コーチとして指導にあたっていること、そして何故か生徒からは高校時代にチームメイトのひとりから呼ばれていたのと同じあだ名で呼ばれていることなどを話してくれた。
 なんて呼ばれてたの? と問うと、寿くんは少しだけ眉間に皺を寄せてから小さな声で「ミッチー」と答えてくれた。そんな彼の様子が相変わらずだったので、思わず笑ってしまったら「なんだよ」とほっぺたを突っつかれた。その表情や照れた様子に心が安堵する。この人のそばに居られるだけで、こんなにも穏やかであたたかい気持ちになれる。
 どうしよう。私はきっともう、寿くんの隣にいることが当たり前になってしまっている。そうじゃなきゃダメになっちゃったんだ。そんなことを改めて自覚しながら、視点の定まらない視線をふらふらと泳がせる。ふかふかのベッドの上、豪華な作りのキラキラした部屋。改めて自分が今どんな場所にいるのかということを思い出したら、急に顔が熱を持ち始めた。
 胸がざわざわして、とりあえず気を紛らわそうとヘッドボードにあるテレビのリモコンに手を伸ばす。私の行動を不思議そうに眺めていた寿くんが、はっとした表情で「おい、ちょっと待て」と焦りを含んだ声を上げたのと、私が「え?」とリモコンのボタンを押したのはほぼ同時だった。
 結論から言うと、私はあまりにも迂闊で、そして考えなしだった。
 連絡を取り合えていなかった間の話をしていた二人だけの穏やかな空間に響いたのは、あられもない女性の声と肉がぶつかる音。その大きなテレビの画面には重なり合う裸体の男女。
 ここがどういう場所なのか、ちゃんとわかっていたはずなのに。熱を持っていた顔面から今度は血の気が引いていく。その場で硬直したままの私の手からリモコンを引ったくった寿くんは、そのままテレビの電源を切った。ぱた、とその音と声が止んだ部屋の中で、次に聞こえたのは彼が小さく息を吐く音だった。

「ご、ごめんなさい!」
「だから待てっつったんだよ」

 寿くんは「もうこれいじんの禁止な」と苦笑いしながらヘッドボードにリモコンを戻す。

「……じゃ、話すべきことは話せたしそろそろ出ようぜ」
「えっ、でも」
「バカ、名前と会うの久々なんだぞ。……よくねえよやっぱり」

 ちらりと私に視線を向けて、目が合うと彼はすぐに逸らしてしまう。私は知っている。寿くんが唇を尖らせてぼそぼそ言うのも、視線を合わせてくれないのも、無意識に顎の傷に触れるのも、いつだって心許なくて落ち着かない時なのだと言うことを。
 はしたないかもしれない。いま私が思っていることを伝えたら、引かれてしまうかもしれない。それでも、思っていることを言わずにいたから結局またすれ違った。言いたいことは伝えようって、さっき話したばかりだ。

「……私は寿くんの彼女で、寿くんのなの、だから」

 自分の声が羞恥で震える。なんてことを口走っているのだろう。恥ずかしくて消え入りたくなったけれど、でもこれが本心だった。彼に触れたい、触れてほしい。私のゆるすぎる涙腺がまた稼働し始めて、恥ずかしさのせいで目の前の視界が歪んだけれど、それでも彼から視線を逸らしたりはしない。思ったことを言った、それだけだ。

「……なあ、前も言ったろ。あんま煽るようなこと言うなって」

 咎めるような言葉なのに、その声はひどく優しかった。腕を掴まれ、引き寄せられると声を上げる間も与えられず彼の胸に収まってしまう。

「抱きたいに決まってる」

 その声が耳に届いてから、寿くんの唇がそっと私の額に触れる。微かなリップ音がじんわりと胸の奥に響くのを感じながら、私は返事の代わりに彼の背中に腕を回した。


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