37.

(三井視点)

 このホイッスルの音を何度聞いただろう。
 それが途切れたあと、お世辞にも心地がいいとは言えない耳鳴りにも似た不愉快な感じが反響するように残った。
 膝から下の感覚はあまりなくて、肩から指の先までが痺れるみたいに熱を持っている。心臓が鼓動して体中に血を巡らせようとする度にドクンとこめかみが痛み、吐く息と連動して肩が大きく上下する。目に入りそうな汗を手の甲で拭ってみても、それが収まることはない。
 ふう、と息を吐いてアリーナの天井を仰ぐと、眩しいライトが膜を張ったような視界の中でチカチカと暴れているような錯覚を覚えた。ゼェゼェと荒く繰り返していた呼吸が少しずつ落ち着いてきても、相も変わらず噴き出す汗は止まらない。そのまま目元をもう一度腕でグイッと拭ってみたら、鼻の奥と喉の奥がツーンと痛んだ。
 終わった。ひとりごとみたいに零れ出たのは笑ってしまいそうなほど掠れた自分の声。試合中ずっと声を張っていたから枯れてしまったようだ。歓声の木霊するフロアの中で、いとも容易く飲み込まれたその声はきっと自分以外に聞こえてはいない。
 それでも、小さな声で呟くように声に出してみたことで、何故だか少しだけ肩の荷が下りたような気がした。それでもそれ以上に感じるのはどうしようもない喪失感。
 全力でやったか? 全力以上出しちまった。そのお陰で情けないぐらいにヘトヘトだ。
 後悔はないか? 自分の実力が足りなかった、それだけ。
 整列をして、ありがとうございましたと頭を下げる。耳に届く拍手の音は相手チームを祝うものなのか、はたまたこちらのチームを労うものなのか、顔を上げるのが億劫で確認することが出来ない。
 情けない話だが、この結果を受け止めるにはいささか時間を要しそうだ。悔いを残さないように練習を積んだ。あとでああしとけば良かった、なんて思わないように走り続けた。それでも及ばなかった。相手が自分たちを上回っていた、ただそれだけだ。
 自分のためだけのバスケはいつまで続けられるのだろう。オレが選手としてコートの上で戦えるのはいつまでだろう。インカレ出場を狙った最後のリーグ戦も、インカレが始まってからも、とにかく勝ち抜いて出来るだけ長くバスケをしたい、コートに立っていられる限り立っていたい。考えるのはそのことばかりだった。最後まで勝ち進んで笑って終わるのか、それとも散って終わるのか。
 勝てばインカレベスト4。対戦相手は海南大。
 結果、去年と同じくベスト8だった。一年前の今頃、来年は今年以上の結果を残したいと思っていた。それがあっという間に今日だ。本当に自分は一年を過ごしたのだろうかと、早すぎる時間の流れを疑うほどだ。
 そういや、高校三年の夏も海南に負けたんだった。でもあの時は負けたことで逆に士気が高まった。それは、今とは違ってその後も巻き返せるリーグ戦だったからだ。一発勝負のトーナメントではない。大きな悔しさと少しだけの安堵感が混ざったような気持ちの悪さは高校のインターハイで敗退した時とも、冬の大会で敗退した時とも違う。
 ロッカールームに戻る時も、最後の監督の話でも涙は出なかった。自分のなかにぽっかりと穴が空いてしまったような妙な感覚。選手としての自分に区切りがついてしまったのだと理解をしているのに、自分の右手を眺めながらどこかもやもやした不愉快な気持ちを拭えずいた。

「っくしゅ!」

 荷物をまとめて各自現地解散するように、と言われたあと、飛び出した盛大なくしゃみでやっと現実に引き戻される。汗が引いてきたせいだろうか。
 今の自分の格好はまだユニフォームのままである。とりあえずシャワーを浴びて着替えなければ。ぶるっと鳥肌を立てながらスポーツバッグの中からタオルを乱暴に引っぱり出す。打ち上げは夜になったので少し時間が空きそうだ。

「それじゃ三井さん、またあとで」

 短くそれだけを言って去っていったのは宮城だ。一瞬だけ目が合って「おう」と簡潔に返事した。さめざめと額を寄せて、肩なんか支え合いながら「負けて悔しい」とかそんな湿っぽい会話をしないでいいのは楽だ。四年前のあの時と変わらない。違うのは、公式戦でヤツと一緒にプレーするのが本当に最後だったということぐらいだろうか。
 シャワールームに行く前に、おそらくまだ観客席のスタンドに座っているであろう彼女に向けて「もう十分だけ待っててほしい」とメールをしてから腰を上げた。


***


『わりぃ、待たせた。今ロッカー出た。どこ居る?』

 まだ残っていたチームメイトに軽く声をかけて、ロッカールームを出ながらメールを打って送信する。ジャージのポケットに手を突っ込んで、人のいるエントランスの方へ足を向けた時、背後から不意に「三井!」と自分の名前を呼ばれて足を止めた。

「……? ああ、牧か」

 振り返ると、先ほどまで同じコートで対戦していた相手チームのキャプテンである牧紳一がこちらに向かって手を挙げていた。

「とりあえずお疲れさん」

 駆け寄ってきた牧に「おう、お疲れ」と返しながら向き直る。こっちが負けたから、そっちが勝ったから気まずいなんていうのは当たり前だが一切無い。どちらも手を抜かず、真正面からぶつかった結果だからだ。

「風の噂で聞いたんだが、教師になるんだって? バスケは辞めるのか?」
「どこの噂だよ、まあ合ってっけど。つーか辞めねえぞ、教える側に回るだけだ」

 うちを負かしたんだから優勝しねえと許さねえからな、と牧の胸に拳をあてる。ヤツは口の端を少しだけあげてコクンとひとつ頷くと、簡潔に「ああ、もちろん」とだけ言って返すようにオレの胸を拳で叩く。
 海南大の去年の結果はインカレ準優勝。優勝は四年連続で不落の深体大こと深沢体育大学。そろそろその牙城を崩す頃。というか、うちのチームだってそれを崩してやるつもりで励んできた。たぶん、どこのチームだってそうに違いない。

「引き留めて悪かった」

 それじゃあまたな、と去っていく牧に軽く手を振って踵を返す。
 選手の控室付近を抜けると人の往来が増える。おそらく、今頃アリーナでは続く試合が始まっている頃だろう。ボールがコートを叩くドリブルの音、バッシュが床を擦る音、ホイッスルの音、応援の声。つい先ほどまで自分が包まれていたその空間の中で戦うことはもうない。さっきので最後だ。負けたら終わりだと、春になったら違う道を進むと選んだのは自分自身だ。
 少し先の、壁に沿うように置かれたベンチに呆けた様子で座っている彼女の姿が見える。あいつのことだからたぶん、オレが来たら何を言おうとか、どう声を掛けようとか、そんないらない心配をしているに違いない。
 少しだけ驚かしてやろうという気持ちになって、声を掛けずに静かに隣に座ってみた。彼女がこちらを気にする素振りは全くなく、揃えた膝の上で両手をきゅっと握りながら小さくため息をついたり、前を歩く人を目で追ったりしている。
 そういえば、初めて会った時もこの距離で横から彼女の顔を眺めていた。後期が始まったばかりの大教室。どこか危なげでなんとなくほっとけない、そんな印象だった。でも今は違う。実際ぼんやりとしているのだが割と頑固だし、母親みたいに口うるさいと思う時もあれば、ものすごく無邪気で無条件に言うことを聞いてしまいたくなる時もある。
 あまりにも横にいるオレに気が付かないのでそろそろ声を掛けようかと思った頃、ちらりとこちらに視線を向けた彼女はギョッとしたように目を丸くした。池にいる鯉のように間抜けに口をぱくぱくさせながら、何度かまばたきを繰り返し「え!?」と驚きの声を上げる。
 やっと気づいたか、おせーっつの。

「あ、あれ!? いつ!?」

 声掛けてくれたらよかったのに、と名前は目を細めた。こういう危機感の無さというか、ぼんやりしていると周りの様子にあまり気がつかないところは少し改めてほしいと思う。そんな所がこいつっぽいんだよな、と思ってしまう自分も自分だが。

「えーと、まずはお疲れ様でした」
「おう、観に来てくれてサンキュ。勝つとこ見せたかったんだけどな」

 ううん、と名前は小さく首を横に振る。それ以上何かを言うわけではなく、ただじっとオレに柔らかい視線を向けてくれている。すごかったとか、負けて残念だったとか、あと少しだったとか、そんな言葉が欲しいわけじゃない。会話はなくともただそこにいてくれるだけで、今はそれだけで何よりも有難い。
 彼女が初めて試合を観に来てくれた時も、同じように並んでベンチに座ったことがある。自分の中にある彼女への好意を無視できなくなってきたあの頃は今よりも距離があった。あれから一年経って、俺と彼女との関係は変わった。あの時のベンチに座った時と同じくオレの横にいる彼女が、そっと両手でオレの手を握りしめる。
 全力でやった、後悔はない。
 吐くほど練習をしたし、暇さえあればフィールドワークでスタミナをつけた。技術だって高めた。今のオレの中にある全部を出し切った。限界以上に絞り出した。だから後悔はない。心の底からそう思うのに、そう何度も頭の中で繰り返すのに、達成感よりも喪失感の方が大きいのは何故だろう。自分を納得させるためにそんな言葉を繰り返しているのだということに気付きたくはなかった。もう終わってしまったのだと、じわじわ押し寄せる現実が胸の中でどんどんどんどん大きく膨らんでゆく。
 それでも、自分で決めた道に寸分も迷いはない。決意も覚悟も揺らがない。時間は止まらない、待ってくれない。だから最後だ。情けなく涙を流すのも、悔しいと感じるのもこれが最後。それも今この場で、彼女がこうして手を握ってくれている今で終わりだ。

「ワリィ、ちょっとだけ肩貸りる」

 そう言った自分の声はあまりにも覇気がなくて、情けないほど震えていて、本当に今の声は自分の喉から出てきたのだろうかと疑うほどにか細かった。
 名前はこくんと頷いて、そっとオレの頭を自分の方へと引き寄せる。なにも言わずただ横にいて、少し冷えた手でオレの頭をそっと撫でる。何に当たったらいいのかわからないほど大きな感情は、もう流してしまう以外に発散する方法は無さそうだ。意地っ張りで負けずぎらいな自分が、彼女の前では弱さを見せることができる。
 大きな喪失感と、少しの達成感。それに何故だか妙に清々しい気持ち。こんな感情をまとめて味わえる経験なんて、たぶんこの先一生ないだろう。諦めなかったから今の自分がある。だけどこれですべてが終わるわけではないし、ここからまた始まっていく。
 相も変わらず聞こえてくるのは、いままで生活音のようにさえ感じていた試合の音。高校の時に自分の不甲斐なさで流したものとは違うそれが止まるまで、これからの自分に切り替えが出来るまで、今だけはオレよりもだいぶ小さなその手に甘えていても許されるに違いない。



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