35.

 前期が終わって夏休みに入る直前に、本命の会社から内定が出たことで心に余裕が出来ていた。卒論のことは少しだけ忘れて、お盆のすこし前から二週間ほど実家に戻り、思いつく限りのぐうたら生活をした。
 大学に入って実家を離れひとり暮らしを始めてから気づいたことは、自分が料理をするのも掃除をするのも買い出しに行くのだって嫌いじゃないし、むしろ好きで、楽しいと思えるということだった。お得な性格だなあとのんきに思っていたけれど、実家で散々甘やかされて、猫と遊んだり、リビングの床の上でそのままお昼寝しちゃったり、そんな生活をたった二週間しただけで脳みそがぶよぶよにふやけてしまったみたいだ。
 ひとり暮らしの部屋に帰ってきたら、一瞬自分はこの三年半をひとりでどうやって生活してきたんだっけ? と呆けてしまう始末。部屋にある体重計に乗ったら悲鳴を上げそうになったし、アイスを少し控えなきゃと悲しい気持ちになった。この暑い夏が終わったら、私もランニングに取り組むことを検討したほうがいいかもしれない。
 そんなこんなで長いような短いような、学生生活最後の夏休みが終わった。
 四年に上がった頃、すでに卒業に必要な単位は足りていたので今期は講義は取っておらず、登校しても教授の研究室を訪れるだけで図書館とカフェスペースぐらいしか利用しなくなっていた。大学に入学した時にものすごく計算して単位取得計画を練った甲斐があったというものだ。自分がぼーっとしているという自覚はあるけれど、ビビりで心配性な部分があって良かったと初めて思った。
 そんな今はもう十月。初週の金曜日、私たちは十時に発表となる神奈川県教員採用試験の結果を見るべくカフェスペースに集まり、開いたノートパソコンを囲んでいた。

「……じゃあ見んぞ」

 寿くんの意を決した声。私は彼の背後で中腰になりながら小さく頷く。
 ゴクリと息をのむ音が聞こえそうなぐらい、緊張感が漂っているのは私たちのいるこの半径一メートルのみ。相変わらずカフェスペースは少しだけざわついているけれど、食堂よりかは幾分ましだ。そんな中で私たちだけは眉間に皺を寄せ、場にそぐわない神妙な面持ちでパソコンの画面を覗き込んでいる。

「あのさあ」

 その声に、寿くんと私はビクリといささか大げさに肩を揺らした。パソコンの画面を食い入るように覗き込んでいた寿くんは、ぐるりと振り向いてその声を発した宮城くんを鋭い視線でにらみつける。

「なんだよ! いきなり声掛けんな!」
「そもそもこういうのってひとりで見るべきなんじゃないの? オレとか名前さんが見てる前で落ちてたらカッコつかなくない?」

 丸いテーブルの上、寿くんの横に座って頬杖をついている宮城くんはそんなことをサラリと言ってのけた。

「落ちてねーよ! つーかもし万が一、いや億が一落とされてたとしても全力でやった結果がそれならオレぁ悔いはねえ」

 おお、言い切った。なんかカッコいいぞ。でもこめかみに脂汗が浮いているのがちょっと残念だ。見なかったことにしておこう。

「ふーん、へえ、そうね」
「大体オメーは勝手についてきたんだろ! つーか講義どうしたんだよ!」
「上手いことやってるから大丈夫ですって」
「ストップ、二人とも声大きすぎ」

 さすがにボリュームが大きくなってきた二人のいつも通りといえばいつも通りのやり取りを牽制すべく、たまらなくなって口を挟む。二人はハッとした表情でお互いを見ると、それから周りを見回し、小さな声で「スミマセン」と私に向かって小さく頭を下げてくる。

「よろしい。もう、私だってドキドキしてるんだからね!」

 本当のことを言うならば、正直いって立ち会いたくなんてなかった。もし落ちてしまっていたら、掛ける言葉なんか咄嗟に出てくるわけがない。
 おつかれさま? 違うでしょ。じゃあ、来年があるさ、とか? なんて適当なんだろう。寿くんが頑張ってたの知ってるよ、なんていうのも、だからどうしたという感想しか出てこない。もし何かを言ったとして、あとから「あんな言葉言うべきじゃなかった!」って頭を抱える自分が容易に想像できる。
 そんなことを考えながら、相も変わらずネガティブな方向へ物事を考えてしまっている自分に嫌気が差してきた。寿くんがそっちに向かって頑張るって決めてから、その努力する姿をずっと見てきたんだもん、大丈夫に決まっている。だって、私の目の前にいるこの人は一度やると決めたらがむしゃらにぶつかっていって、そして有言実行しちゃうすごい人だってことを私はちゃんと知っているのだ。

「ところで、三井さん受験番号いくつ?」
「ああ、えーと0261だな」
「よーし、んじゃぱっぱと確認しちゃいましょうや」

 ぺろりと舌を出しながらそういうと、宮城くんは寿くんからワイヤレスのマウスをひったくり、ぐいっとノートパソコンごと自分の方へと向けてしまった。

「うわ、おまえ勝手にスクロールすんなって! こういうのはじわじわと」
「ビビってたってもう結果出てんスよ、三井さん男気なさすぎ。……ん? いや、あれ?」

 宮城くんがマウスのホイールを回す手をピタリと止める。彼は整った形をした眉を顰め、口をきゅっと結ぶとうんうんと二度ほど頷く。そしてマウスから手を離した。

「あー、そっか……ウン、なるほど。お疲れ三井さん」
「な!? は!? テメー勝手に……!」

 目頭を抑えて寿くんの肩をポンと叩き、ノートパソコンを元の位置に戻す宮城くん。口を半開きにしたままの寿くんが「マジかよ」と小さな声で呟いて、深く、そして盛大に息を吐く。

「ねえ、ちょっとまって、ちゃんと見ないと!」

 すっかり暗いオーラを背負ってしまっている寿くんを横目に、今度は私がマウスをひったくってパソコンの画面を覗きこんだ。200番台、210番、220番、230番、240番…。

「ある、あるよ、0261番!」

 沢山の数字が飛び飛びで並ぶ画面の中で、0261の数字は確かに存在していた。
 見間違いではない。何度も画面と寿くんを交互に見ながら「ほら!」と彼の背中を叩く。興奮のあまり結構な力で叩いてしまったらしく、寿くんが「いてえ!」と小さく悲鳴を上げた。

「は……? いや、だってコイツが」

 混乱した様子で目を泳がせる寿くんの首根っこを乱暴に引っ掴み、無理やり画面の方に向ける。横で宮城くんが「うおっ、名前さん豪快だね」なんて茶化しつつ、すこしだけ驚いたような声音で言っていたけれどそんなことは最早気にしてはいられなかった。

「あれ? おい、あるぞ……? あるぞ!?」
「番号ないとは言ってないじゃん。お疲れって言っただけだし」

 そういうよくないイタズラは金輪際やめてほしい。っていうかこんなに心臓によくないドキドキ自体、もうしばらくは体験したくない。自分の携帯に本命の会社から電話がかかってきた時よりもハラハラしてしまった。

「クソ……なんだよ、怒る気失せた」

 いつもなら「テメー宮城! 一発殴らせろ!」とか言いかねないはずなのに、寿くんはテーブルに突っ伏して覇気のない声でそう言うだけだった。

「三井先生、ここに爆誕だね。高校時代はぶっ潰してやる! とか言ってたのに」
「それ出してくんのズリーだろ、つーかもうとっくに改心したのオレは!」
「過去も今も三井さんは三井さんってことで」
「いい話っぽく締めてんじゃねえよ」

 またいつもの調子で言い合いを始めてしまった二人を眺めながら、今度は注意なんかする気なんて微塵も起こらなかった。とんでもない疲弊感を感じて脱力してしまっていたからだ。自分のことじゃないのにものすごく、ものすごーく緊張していたのだと気づく。
 去年の十二月、クリスマスイブの夜に寿くんから進路の話をされてから十ヶ月ぐらい。どれも捨てられないから自分はすべて全力でやると言い切った彼の真っすぐな、いつもよりさらに意志の強い瞳を見つめながら思った。きっとこの人はやり遂げちゃうんだって。その通りだった。私が好きになった人は、間違いなくカッコよくてすごい人だ。

「寿くん、おめでとう」

 そんな言葉しか出てこない自分の口下手さが歯がゆいけれど、でもそれ以上に付け足す言葉は必要ないと思った。

「おう、ありがとな。名前にはすげー助けられたし、感謝してる」

 ニッと歯を見せて笑う寿くんの少年みたいに無邪気なその笑顔がものすごく好きで、それについついつられてしまう。

「なんか実感ねえけど、これでやっとバスケのことだけ考えられるぜ」

 そう言ってぐぐぐ、と縮こまった背中を伸ばすように寿くんは伸びをした。何よりも苦しめられて、それでも何より夢中になれるバスケをやっている時のキラキラしている彼の姿を見られる回数はきっともう、そんなに多くない。試合、あと何回あるんだろう。
 選手としてバスケをするのは今年で最後だと、そう話した彼の表情に迷いは無くて、未来をしっかり見据えたその堂々とした様子には「敵わないなあ」と思ってしまう。何もかも、そしていつだって私はこの人に敵わないのだ。

「ていうかアンタ、完全に頭から卒論のこと抜けてるっしょ。卒業できなかったら全部パーのプータローだよ」
「宮城くん、水を差すようで悪いけどって最初に言わないと」
「あ、そっか。三井さん、水を差すようで悪いけどアンタ卒論は」
「だーもう! うるっせえんだよ!」

 相変わらずの彼と、そして何度も目にしたやり取りを眺めながら、私は声を出して笑ってしまっていた。


 ***
 

(宮城視点)

 簡単だけど、三井さんの教員採用試験合格のお祝いとして久々に三人で鍋を囲んだ。もう少し寒くなったほうが鍋の季節って感じがするけれど、そういえば去年のこの時期に初めてこうして集まって鍋会をやったんだった。

「あの時さ、食堂で三井さんが女の人と楽しそうにしてんの見かけてマジでビックリしたよ」

 いつも「オレにはバスケする時間しかねー」とか「カノジョなんてめんどくせー」しか言わなかった三井さんがってめちゃくちゃ驚いたし、同時にちょっとコノヤロウ! って思ったりもした。三井さんのほうを見やると、頬杖をついてあらぬ方向を向きながら「うるせえ」と唇を尖らせている。

「名前さん寝ちゃったね」
「こいつもこいつで毎日卒論頑張ってっからな」

 そう言って三井さんは名前さんのほっぺを人差し指で軽くつついた。名前さんは少しだけ眉をしかめたけれど、またすやすやと穏やかな表情に戻る。さっきまでにこにこと会話に参加していた名前さんが、珍しく机に突っ伏して寝落ちてしまったのだ。たぶん、自分のこともそうだけど三井さんのあれそれで結構、いやかなり緊張していたんだと思う。
 それにしても三井さんべた惚れすぎるでしょ。いっつも不機嫌そうに眉間に皺寄せてるし、こっちにはニヤッてムカつく笑みしか向けてこないくせに、好きな女の子の寝顔はそんな優しい表情で眺めちゃうなんて。なんかオレ、見ちゃいけないもん見ちゃった気がする。こっそり写真撮っといてアヤちゃんに見せよう。ああ、だめだなんか背中カユくなってきた。

「そういうナチュラルイチャイチャやめてくれませんかね」
「見てるオメーが悪い」

 そういうと、三井さんはすうすうと穏やかな寝息を立てている名前さんを軽く担ぎあげ、横にあるベッドに寝かせた。

「あのよ、宮城」

 そう声を掛けられて「ん?」と返事をする。時計を見ると、気づけばもう二十三時過ぎだ。明日の講義は午後からだけどそろそろお暇しようとぼんやりと考えていたオレは、どこか真剣な表情でこちらを見据えている三井さんにやっと気がついた。

「もう二ヶ月とかしかねえけどよ、よろしく頼む」

 何の話なのかはすぐに分かった。リーグ戦がそろそろ終わって、インカレに出場できるかどうかが決まって、インカレに行けて勝ち続けたとしても、三井さんとバスケをやれるのは長くてももう十二月の頭までだ。
 そっか、なんやかんやでこの人とは結構長いこと一緒に同じチームでバスケをやっていたことになる。いちいち突っかかって来てうるさいし、単細胞で口悪いし、先輩風吹かしてるくせにそれっぽい感じ全然しないし。
 高校時代、あの事件のあと。あれから三日経った日にオレのクラスを訪れたこの人の長かった髪はバッサリ切り落とされ、野球部かってぐらい短く切りそろえられていた。
 ボッコボコに腫れたまま青アザの目立つ顔。その人の初めて見せたすまなそうな表情に思わず「えっ、誰……?」と声を漏らしたら「三井だよ」とボソリと呟いて不愉快に眉根を寄せていたけれど、オレから視線を逸らすことはなかった。
 三井さんは「あん時は悪かった」と深々と頭を下げると、バスケ部に戻りたいと思っているということを伝えてきた。いんじゃないスか、と軽く答えたら「そんなんでいいのか! もっと考えろ!」と意味わからないキレられ方をした。なんだ、この人案外ちゃんとしてんだ、と思った記憶がある。あの時、多分ひとりひとりに頭下げて歩いたんだろうなと、ふとそんな前の事を思い出した。それがもう五年以上も前だ。

「やめてよ、余計カユくなっちゃうじゃん」

 もう二度と言わねぇから安心しろよ、と言って笑った三井さんは、オレの肩を強めに二回叩いて立ち上がると「便所」と一言だけ言った。いやそんな報告いらねえよ、とこみあげてくる笑いは抑えられなくて、悔しいが少しだけ笑ってしまった。



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