23. (三井視点) 湘北高校を卒業するその日、式の後でオレたちの代とその他の部員たちは全員体育館に集合した。その時に恩師から言われた「三井くんは教えることが上手ですからね」という言葉は、あの時のオレには意味がわからず、ただキョトンとするだけだった。 大学でも活躍を期待していますよ、という嬉しい言葉を賜ったのに、唐突に示されたその道が衝撃的過ぎて霞んでしまうほどだった。オレの中に全く無かった選択肢。それなのになぜか既に自分の中でとてもしっくりきていた気がする。 そして大学三年になった今、なんとか必要な授業の単位を所得して来年度の教育実習にいけるところまで漕ぎつけられた。 「安西先生お久しぶりです。突然お電話してすみません」 お会いしてご相談したいことがあるんです、と電話で伝えたのがつい三日前のこと。三井くん久しぶりだね、と久々に聞いた恩師の声は相変わらず落ち着くトーンだった。 桜木や流川の世代が湘北を卒業するのと同時に監督を辞した電話の向こうの安西先生は「お客さんが来てくれるのはとてもうれしいんですよ、いつも家で暇をしているから」と朗らかに笑っていた。 そんなわけで、いまオレは恩師である安西先生の神奈川にある邸宅にてこうして先生と向き合っている。全てを吐き出してしまいたくなるような、それでいて威圧感ではない独特の雰囲気はあの頃と変わらない。そして、未だにこの人と一対一で向き合う度、無意識に緊張してしまう自分がいる。いつも通りの穏やかな表情を浮かべている安西先生に「お時間を作っていただきありがとうございます」と深く頭を下げる。 「インカレお疲れ様でした、すっかりチームの中核になったみたいだね」 それに関しては本当に不甲斐ない結果だったと思う。多少吹っ切れたとはいえど、やはり自分やチームが目指している到達点へは遠く至らなかったことに対しての悔しさは残っている。自分の力が足りなくて及ばなかった事はちゃんと理解していた。なぜ負けたのか、それもしっかり把握出来ている。 バスケが好きだ。これ以上ないってぐらいに好きだ。小学校でミニバスを始めて、中学の時も、そして湘北バスケ部に復帰してからも、オレからバスケを取ったら何が残るんだとさえ思っていた。自分にはそれしかなくて、その道しかないと思っていた。 これからもプレイヤーとしてバスケを続けていくならば、教職を目指すことなんて出来ないだろう。三年になってから空き時間にチマチマと図書館に通って勉強をしているが、明らかに時間が足りない。だからといって、バスケに充てる時間を割くわけにもいかない。 どっちつかずでいる時間が長ければ長いほど、それだけどちらも中途半端になる。それが何よりも嫌だった。そして、柄にもなくうじうじと悩む自分にもほとほと嫌気がさしている。 そもそも、荒れていた時代のある自分が目指してもいい道なのだろうか。あの時、安西先生の言った言葉が、その意図が気まぐれだったのではとさえ思ってしまっていた。 今の私は三井くんが居てくれなきゃ困っちゃうかも。そう照れたように視線を逸らしながら彼女が言った言葉。自分で選んだ道を誇れる男でいたいと思う。そうでなきゃ、そこまで言ってくれたあいつの隣に並んでちゃいけない気がした。 「来年、教育実習にいけることになりました」 まずは報告。安西先生は穏やかな表情を崩さずに「そうですか」と一言。 「それで、三井くんはこれからもバスケット選手としての道を選ぶか、それとも教職に就いて教える道を選ぶか悩んでいる、ということかな」 オレはポカンと口を開けたまま、温和な笑みを浮かべる恩師の表情をじっと見つめた。なんですぐわかっちまうんだこの人は。 即座に見抜かれたことに羞恥を覚えながら「はい」と小さく返事をする。いざはっきりと言葉にされてしまうと、自分のこともまともに決められない気概のない男であるという事実に情けなくなってきた。 「どちらも選べないなら、どちらも手放さないでいい道を選んだらいいのではないかな」 その言葉を咀嚼しようと試みるも、即座に処理が出来ない。 「どっちも手放さないでいい道……?」 思わず繰り返すように、そして噛みしめるようにその言葉を声に出していた。ゆっくりとひとつ頷いた安西先生は変わらず柔らかい表情で笑みながら「君はもう二度と自分の進むべき道を間違えることはない。だから安心して悩みなさい」と言った。 もう二度と喧嘩はしない。この人の前でそう誓ったのはもう三年も前の事だ。その誓いにはただ人と諍いを起こさないということだけでなく、誤った行いをしないという意味もこもっている。自分という人間を貶めるようなことはもうしない。そして妥協することも諦めることもしないと、あの時そう決めた。 そうだった。オレは諦めを知らない男である。何度も何度も自分に言い聞かせてはそうやって己を奮い立たせてきたじゃないか。 「……いま、幸せにしたい人がいるんです」 そいつの為にも頑張りたい。気づいたらそんな言葉が口から飛び出していた。 安西先生は朗らかに笑い、オレの肩を二度ほど叩いた。「いい顔だ、そしていい男になったね」と、真っ直ぐにオレの目を見据えて言う。その言葉に思わず口元が緩んでしまった。気恥ずかしくなって「はあ、ありがとうございます」と曖昧に返事をしてしまう。名前の存在と、恩師の言葉。もう迷いはない。 「これだ、という道を選んだのなら、それは絶対に間違いではないよ」 三井くんの思うままに選んで進んでください、今の君なら大丈夫。そう言ってもう一度、オレの肩をポンと叩いた安西先生の手はあの時代と変わらない。 腹の奥がムズムズとするような不思議な感覚は違和感には違いなかった。それでも決していやな感じはしなかった。オレはこの感覚を知っている。バスケ部に戻ると決めた時。大学でもバスケを続けるため、冬の選抜まで残ると決めた時。 今までだって知らず知らずのうちに自分で未来を決めて、そして掴みとってきた。 「どっちも、か」 安西先生の家を出て、駅までの道をひとり歩きながら呟く。 やるしかねえ。そうだ、諦めるなんて言葉は昔っからオレの中には無かった。いつだって、そして今だってそうだ。選べないのなら、どちらも捨てずに掴める道を選ぶ。そう決意したらいつの間にか胸につかえていたものはすっかり溶けてなくなっていた。 本当は、もうとっくにオレの中でも決まっていた。そうするべきだということも、そうしなきゃ自分が納得できないことも。柄にもなく悩みすぎてしまったと自嘲気味に苦笑いする。最初からどうするべきかなんてわかっていたくせに何をウダウダしていたのだろう。 やるぜ、なんてったってオレは三井寿だからな。 自分を奮い立たせようと心の中でそう唱えながら、ぐっと握った拳を掲げて伸びをする。深呼吸をすると冷たい冬の空気が肺に入って新鮮な酸素が体を巡る。それが妙に心地よかった。 気づけば自然と高校時代の通学路を辿っていた。三年間、毎日とは言えないが何度も往復した道。土曜日だから学生の姿はないが、地元に戻ってくる度に懐かしい気持ちになる。 未だにあの頃の自分を思い出すと頭を抱えたくなるが、もう過ぎてしまったことなので仕方がない。それでももし、こないだやってた映画みたいにタイムリープだとかそんなことがができるのなら、腐ってた自分の顔面にパンチの一発ぐらいはお見舞いしてやりたいと思う。 まあそれで目が覚めるわけはないのだが。自分の頑固さは自分が一番よく知っている。そして自分の愚かさと本当の気持ちを認められるのは、あの時あの瞬間、そしてあの場所でしかありえなかったんだってことも。 「なんで髪、あんなに伸ばしてたんだっけな……」 苦笑いと一緒にこぼれる独り言。それとほぼ同時にオレの耳に届いてきたのはボールが地面を叩く聞き慣れた音だった。毎日聞いているドリブルの音、もはや生活音といってもいいその音を聞き間違えるはずがない。 ふと目をやると母校である湘北高校の近く、バスケットゴールが一基あるだけの広場まで歩いてきていたようだ。そしてそのコートの中に一人、軽くドリブルをしながらレイアップシュートを決める男の姿。 癖のない黒髪。相変わらず髪型には無頓着な様で全く変わっていない。同性からみても悔しいほど端正なその顔立ちは高校時代に女子生徒から騒がれていたのも頷ける。もう自分が卒業してから三年も経ったというのに、こうして後輩の姿を見ると少しだけあの時代に戻ったような気持ちになった。 「おい流川!」 汗をぬぐうその男、もとい湘北時代の後輩である流川楓に声をかける。 「……? センパイ?」 「おまえ、戻ってきてたのかよ!」 こくんと小さく頷いた渡米しているはずだった流川の背中をバシンと叩くと、奴は顔をしかめながら「いてーっす」と無愛想に言った。 隣に並んでみると、流川はまた少し背が伸びたようだ。たった九ヶ月本国のバスケットボールに揉まれてきただけの筈なのに、空港で見送った時とは明らかに顔つきが違っている。 当時から何を考えているのか全くわからない、というかほとんどバスケのことしか考えていなかったであろうヤツの頭の中にはずっとアメリカでバスケを学ぶこと、プレーすることが目標としてあったのだろう。自分にはこれしかない。そんな道を選択して歩んでいる。 「おいルカワ! なに休んでやがる! もっかいだ、もっかい!」 その声と一緒に、どすどすと大きく足を踏み鳴らしながらやってきたのは、こちらも変わらずに大柄な体と赤い頭。うるせーのがもどってきた、とため息混じりに小声でぼやく流川。 「なんだとこのキツネ! ……ぬ? そこにいるのはもしやミッチー!?」 「よう桜木、オメーも相変わらずだな」 「ミッチー久しぶりだなあ! 相変わらず体力はジリ貧かね?」 オレの背中をバシバシと遠慮なく叩いてくるのは、流川と同じく湘北を卒業後に渡米したデカくて生意気な後輩その二、桜木花道だった。バカやろう、痛てーよ! とヤツの手を振り払いながらニッと笑って見せる。 「こっそり戻ってきて驚かしてやろうと思ってたんだけどな、バレちまったか!」 ゴリとかメガネくんには言うんじゃねーぞ、リョーちんにもな! と笑う桜木。当時は短絡的で思慮の浅そうな顔つきだったこの男も、今やどこからどうみてもスポーツマンだとわかるようなオーラをガンガンに出していやがる。なんて、オレにゃ言われたかねーか。 「で、おめーらアメリカはどうよ」 そう問いただすと、一瞬顔をしかめた流川が「たいしたことねー」と目を合わせずにボールを回しながら言った。なるほど、こりゃかなり厳しくシゴかれてんな。この様子を見ると本場は思っていた以上にレベルが高かったようだ。 「エーゴ喋れなくていつも泣いてるもんな! ルカワは!」 「そりゃおめーだろ、このどあほう」 そんな懐かしくも感じるやりとりを聞きながら、オレは思わず笑うのを堪えきれなくなってしまった。ム? と不思議そうな表情でこちらに視線を投げてくる二人。 こう思ってしまうのは癪だがこいつらこそまさに、というか文字通り「真っすぐ」っていうやつだと思う。なんだよ、どいつもこいつもどんどん先に進んでってるじゃねえか。負けてはいられないという気持ちは自分の中で沸々と、そして確かに熱を持ち始めていた。 またすぐ戻んだろ、と声を掛けると「年明けたら」と流川が簡潔に答える。 「おし、じゃあおまえらがどんだけあっちでシゴかれて成長したのか、この三井先輩様が直々に見定めてやるよ」 「ほう? 日本のミッチーがこのアメリカの天才、桜木の相手になりますかな?」 おめーも日本人だろ、という流川の小さい声を耳ざとく聞きつけて律儀に拾った桜木が「なにィ!?」と突っかかっていく。どんなに顔つきと体格が変わってもこういう所は変わらないんだな、こいつら。 ほらやんぞ! と流川が手に持っていたボールを奪い、そこからそのまま何度も繰り返した動作で放つ。それは弧を描き、小切れ良い音を立ててゴールを抜けた。 [*前] | [次#] |