21.

「うおっなんだこれ、すげえな」

 試合が終わって帰ってきた三井くんは玄関先でさっさと靴を脱ぐと、ひたすら唐揚げを揚げる私の手元をスポーツバッグを下げたまま興味深げに覗き込んできた。ゴウゴウと動いている換気扇と、カラカラ弾ける油の音が室内に響いている。

「すごい山もりの唐揚げ食べたい気分になっちゃって」
「いや、名前はそんなに食わねーだろ」

 こりゃ宮城でも引っ張ってくるべきだったな、と言いながら軽く笑った三井くんの表情は思っていたよりも柔らかくて安心した。でも、さっきの今で完全に気持ちを切り替えられているということはない筈だ。意地っ張りな彼のことだから、きっと平気なふりをしているのだろう。
 手を洗っている三井くんのことを眺めていたら「ん? どしたよ」と怪訝そうな顔をした彼と目が合う。ううんなんでも、と簡潔に返して良い色になった唐揚げを油から上げる。

「なあ、それくれ」

 そう言いながらキッチンペーパーの上に盛られた揚げたての唐揚げに手を伸ばす三井くん。その手の甲をぺしっと叩いて「つまみぐい禁止」と一言。不満そうにムスッとした彼の眉間に寄った皺に気づき、私はそこに人差し指を当てた。

「なんだよ」
「いつも眉間に皺寄せてるよね」
「んー、そうか? あんま自覚ねえ」

 そう言いながらも「もう待てねえ」と大きく口を開けて自らの要求を諦めない三井くん。ここで「ダメです」と強く突っぱねられたらいいのに、残念ながら私は彼にとても弱い。仕方ないなあなんて言いながら、最初の方に揚げて少しだけ粗熱の取れていそうなものを菜箸で掴んで彼の口に放り込む。

「……うっめ! なんだこれ、天才か?」

 そのセリフ、知り合ったばかりの頃にも言われた気がする。まだ中が熱かったらしく、口を抑えながら咀嚼している三井くんはまるで小さい子みたいだ。
 あのさ、と声を掛けられ振り向こうとしたら、後ろにいた三井くんが私の肩にとんと額を預けてきた。色々ありがとな、と小さい声で言った彼は、私からすっと離れると「手伝うことあったら言えよ」とテレビをつけっぱなしにしていた居間にあるテーブルの前に座った。そのありがとうの意味がなんとなくわかって、やっぱり無理をしているのだと気付かされる。
 ほとんどいつも通りに見える三井くんがどうして平気なふりをしているのか。それが私に気を使わせないためであろうことは容易にわかった。だから今、私がすべき事はそれに気づいていないふりをして、パチパチ弾ける油と唐揚げの様子に集中することだけなのだ。


***


「あー食った食った、ごちそうさん」

 お粗末さまでした、と言いながらお皿を片付けようとしたら、いいから座っとけと言った三井くんがぱぱっとお皿をまとめて流しへ持っていってくれた。

「つーか気になってたんだけどよ、なんでスーツ出てんだ?」

 戻ってきた三井くんはよいしょと座りながら、私が日中着ていたリクルートスーツを指さして言った。今日の企業説明会で着用したスーツだ。
 学内で企業説明会あったことを伝えると「ああもうそんな時期か」なんて言っている三井くんの口調はどことなく他人事のようだった。その様子をみて、やはり彼が私を含む同学年の大多数の様に就職活動をするわけではないのだということを察する。
 私の頭の中はいつだって不安だらけで、何かが落ち着いたと思ったら今度はまた違う不安でいっぱいになる。なるべく早く内定をもらえたらいいけれど、ちゃんと自分に合った会社かどうかも見極めないといけない。考えれば考えるほど長引きそうな予感しかしない就職活動に憂鬱な気持ちが止まらない。
 楽しみなはずのクリスマスだって、年始に実家に帰って家族とゆっくり過ごしているときだって、頭の中のすみっこにあるであろうそのモヤモヤの存在に気づくたび重たい気持ちになるのだと思ったら逃げ出したくてたまらなくなった。来年の今頃には就職が決まって、晴れやかな気持ちでこの時期を迎えられていますように、と心の中で強く念じてみる。
 大学に入学した頃は四年間をものすごく長いものだと思っていたけれど、気づけば残り一年とすこし。今期で単位を取り終える予定なので、来年度はもうほとんど講義もない。それでも、きっと就活と卒論に追われて今まで以上にあっという間だろう。
 もう少し早く三井くんと出会えていたらよかったのにな。お互いがこんなにドタバタしている時期じゃなくて、余裕があるときに知り合えていたらどうなっていたのだろう。たとえば私が陵南じゃなくて湘北に通っていたとしても、三井くんとこんな風になれていたのかな。

「また間抜けなツラしてんぞ」
「失礼な、考えごとしてただけです!」

 湘北に通っていた頃の三井くんはどんなかんじだったのだろう。いまみたいにバスケに夢中だったのかな。そのことが頭の中に浮かぶのは初めてではない。というか、実は何度も想像してみたことがある。
 一年生の時からバスケで活躍してたのかなとか、外見だってかっこいいし背も高いしきっと女の子にモテてたんだろうなとか、それこそ今の私みたいな相手もいたのかな、とか。
 そこまで考えて、いつもちょっといやな気持ちになってしまうのでそれ以上は考えることをやめていた。だから三井くん本人にも宮城くんや彩子ちゃんにだって聞いてみたことはない。私はきっと、自分で思っている以上にめんどくさい女なのだ。

「なあ、名前」
「へ!? え、はい!」

 自分の名前を呼ばれていることに気づかなかった。素っ頓狂な声を挙げた私を見ながら「いっつもぼーっとしてるよな、おまえは」困ったようにくしゃっと笑う三井くんの表情はとてもやわらかくて優しい。だけど、やっぱりいつもとどこかがちがう気がするのだ。 

「ヘンなこと聞くけど、おまえオレのことどう思ってる?」

 私が彼のことをどう思っているかなんて、そんなの決まっている、とってもとっても大切なひとだ。でも改めてそれを口に出そうとすると、喉の奥で二の足を踏んで出てきてくれない。しかし、それを伝えることでほんの少し自信を消失してしまっているのかもしれない三井くんの気持ちが上を向くのならば。

「え、えーっと……す、すごくすきです、けど……」
「いや、あの、ちげーよ! うれしいけどそうじゃなくて……でも、ありがとな」

 三井くんは照れくさそうに頭を掻いたあと、困ったように目尻を下げると私の頭をぽんぽんと撫でた。本当はもっとちゃんとどれだけ好きなのか具体的に伝えられたらいいのに。口下手ですぐに照れが出てきてしまう自分が情けない。

「その、名前から見たオレってどういうヤツなんかなって」

 意志が強くて真っすぐで、いつだってまぶしいぐらい自信に満ち満ちていて。それを視認出来るオーラのように発している三井くん。そんな彼の表情のなかに、ゆらゆらと不安そうに揺らぐものが見えることがあった。いつもはいわゆる俺様っぽさがある彼が自らそんなことを言うなんてすごく珍しい。
 私から見た三井くん。初対面の時は落ち着かない人だなあと思っていた。そのあとおしゃべりしてみたら意外と気さくで面白くて、それからすごくやさしくて照れ屋さんだってことを知った。いつだってまっすぐな彼のバスケをする姿を見て、ああ私はこの人のことが好きになんだって自覚した。そして、ありがたいことにバスケと同じくらい私にも真正面から向き合ってくれて、大切にしてくれていることを日々ひしひしと感じている。

「いつもまっすぐ前を見ていて、ちゃんと努力ができる人、かな」

 ちょっと頑固で、猪突猛進すぎるところもあるけれど、それさえも彼の魅力だと思える。

「……あのよ、オレがホントはおまえが言ってくれたような奴じゃなかったらどうする?」

 その言葉の意味がよくわからなかった。三井くんらしくない、はっきりとしなくて何かを濁したような言い方に私は思わず首をかしげる。

「どういういみ?」
「名前が言ったようなヤツじゃなくても、オレのこと好きでいてくれんのかなって」

 ふと思ってよ、と続ける三井くん。彼がどういう意図でそんなことを言っているのかはわからないが、それでも私は三井くんのことをきらいになったり、幻滅してしまったりする自分を想像できなかった。
 だって、私の目の前にいる三井寿という人物のことを、どこまでも実直で努力家で素敵なひとだと心の底から思うからだ。胸を張って言い切れる。

「よくわからないけど、今の私は三井くんが居てくれなきゃ困っちゃう、かも」

 と、言ってみて思った。もしかして、これはひとりで恥ずかしいことを言わされているだけなのではないだろうか。その考えに至ったら、照れを通り越して悔しくなってきた。三井くんの言っている意味が一向にわからないことが重なって、ムッとしながら彼を見たら「なに怒ってんだよ」と三井くんはガシガシと頭を掻いた。

「だーもう! ちょっとこっち来い」

 ちょいちょいと手招きされて隣に寄ると、三井くんは「そこじゃねえよ」と小さく笑った。こっちだこっち、と彼の足の間に座るように促される。どうしようかと悩んでいる間に手を引かれて、強引に座らされてしまった。背後にいる三井くんの腕が私のおなかに回されて、もう片方の手が膝に置いていた手の上に重ねられる。私の肩に顎を乗せてきた彼の短い髪の毛が首筋に触れてすこしだけくすぐったい。

「いつも思ってんだけどよ、名前の手って冷てえよな」
「末端冷え症で足の指とかもつめたいの」
「なるほど、他はあったけーもんな」

 背中に感じる子どもみたいに体温が高い三井くんのぬくもりが心地いい。ちょっとおかしな様子の彼だけど、深くは聞かない様にしよう。そう思いながら私のおなかに回された腕に触れたら、彼の手が無遠慮に私の服の裾から入り込んできたので慌ててその手を引っ掴む。

「ちょっと!」

 なんだよ、と不満そうに漏らすその声は全く悪びれた様子がない。彼の意図を察して首を振りながら止めるように表情で訴えてみるが、どうやら止めるつもりはないらしい。

「待ってってば……!」
「待たねえ」

 私の言葉を遮るようにそう言った三井くんは、ぐいっと私の顎を持ち上げると後ろから噛みつくように唇を食んだ。無理な体制に加えて突然のキスにくぐもった声が漏れて、思わず彼の服をぎゅっと掴む。私の力が緩んだ隙に、するすると服の中へ侵入してきた三井くんの指先が脇腹を滑って、思わずびくりと体を反応させてしまう。
 いつもより強引なキスに翻弄されながら、酸欠になりかけの脳みそはどんどん雰囲気に流されていく。咥内へ侵入してきた舌が上顎をなぞるたび、背中をぞくぞくとした感覚が走る。
 おなかや脇腹をたどっていた彼の指がするすると上がってくる。それを阻止するために少しだけ抵抗を試みたけれど、そもそも力で敵うはずもなくするりと躱されてしまう。いつまでも慣れずに薄れてくれない羞恥心が、必死にこのあとの行為に抵抗しようともがく。
 頑張っている彼のために私ができることは応援をすることしかない。けれどもしかしたら、今この瞬間に出来ることがあるとすれば彼を受け止めてあげることなのかもしれない。そんなことを考えながら、やっぱり私は三井くんに甘いなあと思う。これがいわゆる惚れた弱みというやつなのだろう。
 いつの間にか向き合う形になっていた。まだ続けられている長くて深くて底なしに求められているかのような口づけに応えるように、意を決して控えめに自分の舌を絡ませてみたら、三井くんは驚いたように一瞬動きを止めた。視線が合わさって、私はひとつまばたきをする。

「名前」

 熱いまなざしに射抜かれながら、そんなにも愛おしげに名前を呼ばれてしまったら胸がくるしくてたまらなくなる。そっと彼の頬に触れたら小さな声で謝るような言葉が聞こえたような気がしたけれど、飲まれていく思考の中で霞んでいった。
 私が三井くんに助けてもらった時みたいに、彼が辛いときには私が支えてあげたい。意地っ張りで強がりな三井くんが弱みを見せることができて、甘えられる存在でありたいと思うと同時に、大好きな人に求められることがこんなにも嬉しいと思ってしまうのだ。


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