1.

 残暑が厳しい九月末。
 蝉の声は多少聞こえなくなってきたけれど、葉が紅葉するのにはもう少しかかりそうだ。
 必修ではないけれど取らなくてはいけない選択講義、この博物館学という講義を選んでみたのは本当にただなんとなく、興味が一ミリもないものよりは少しだけそそられるようなもののほうがいいかな、という単純な思考からだった。特に芸術に関して興味があるわけじゃないけれど、美術館や博物館の静かで落ち着いた雰囲気は好きだ。
 広い大教室の一番前の教卓で、マイクを持ちながら話をしている教授はいわゆるおじいちゃん先生である。彼は細身でひょろっとしており、白髪を丁寧に撫で付けた髪型に温和そうな表情を浮かべている。
 選択講義とあって、いろんな学科の学生が入り混じり人数がとても多い。ざわついたこの雰囲気は、必修の間のちょっとした息抜きという感じかもしれない。かくいう私もそんなゆるい気持ちだったりするわけで。

「わりぃ、そこ空いてる?」

 頬杖をつきながらぼんやりと教授の方を見つつ、話を右から左へとやっていた私の耳に入ってきたのはそんな声だった。席の端っこに座っていた私の左側に、息を切らしながら肩を上下させている男子学生が中腰で立っている。

「あ、ごめんなさい。空いてます」

 私は席を立ち、声を掛けてきた彼を奥へ通す。彼は「ありがとな」と言うと、目立たないようにその大きな背中をかがめながら私の隣の席へ座った。
 背も高いしガッシリしてるなあ、と横目でその姿を眺める。黒い短髪に太い眉。あれ、この人知ってるかも。どこかで見たことがあるような気がするけれど誰だっけ。隣に座った彼は背負っていたリュックを下ろし、その中をゴソゴソやりながら取り出したペットボトルのお茶を口に含む。

「では受講票を配ります。名簿を作成しますので、今期にこの講義を受講する学生は記入して提出してください」

 講義の概要を説明し終えたらしい教授が言う。前の人から受講票の紙が回ってきたので、私も他の人にならい自分の紙を取ってから隣の席の彼に一枚手渡した。彼は「サンキュ」とこちらに小さく頭を下げる。私は「いえいえ」と簡潔に返事をしながら、ちらりと横目で彼を観察してみた。男らしい、いかにもスポーツマンですという顔つきをした彼の目を見たとき、ふと高校三年の夏を思い出した。
 バスケットボール部が有名らしいうちの大学に、推薦入学で入った高校のインターハイ出場選手。たびたび学内誌や広報誌に写真が載っていて、その横に神奈川県立湘北高校出身という文字が添えられているのを見かけた覚えがある。どうりで見覚えある顔だと思ったが、でもそれだけじゃない。
 私の母校である陵南高校の男子バスケットボール部は、神奈川県内でもそこそこの強豪だったらしい。しかし私が高校三年の時、惜しくもベスト4でインターハイ出場を逃していた。その時の相手校、二枠あるインターハイ出場のうち一枠を勝ち取ったのが湘北高校で、たしかそのバスケ部にいたのが、いま隣に座っている彼だった。
 三年間同じクラスだった同級生が最上級生となってから主将をやっていたことと、応援の人数を増やすために半ば無理やり連れていかれた神奈川県代表決定戦の決勝リーグ。気づけばもう三年も前のことだ。
 同じ学年で同じ大学生なのに、有名人に出会ったような不思議な気持ちになった。彼の名前は思い出せないし、バスケに詳しいわけでもないので、どんなプレイヤーだったかなんて記憶にあるはずもない。だけど、あの時の試合が素人目にみても面白かったこと、そして母校が負けて悔しかったことはかなり鮮明に覚えている。
 受講票にペンを走らせ、学部、学籍番号、名前を記入する。それを書き終えて、教卓にいる教授に提出して終わり。学期はじめ最初の講義はどれもこんな感じだ。
 ボールペンをくるくるいじりながらふと右隣に目をやると、彼は相変わらずリュックの中をゴソゴソとやっていた。そして「マジかよ」と独り言。なんだか落ち着かない人だな。そんなことを思ってからはっとした、もしかして。少しだけ躊躇したけれど、私は「あの……」と小声で話しかけてみる。彼は焦ったような表情でこちらを振り向いた。

「もしかして、ペンない?」

 よかったらどうぞ、と今まで使っていたボールペンを差し出す。どうやら当たりだったらしい。彼は目を見開くと、少し照れくさそうにしながら「助かる、ありがとな」と私の差し出したボールペンを受け取った。

「ていうか、このあとも講義ありますよね?」

 それ、あげます。私がそう言うと、彼はさっきの驚きとは違う表情で眉間に皺を寄せ、いやいやと顔の前で手を横に振った。

「それはさすがに悪いって」
「たいしたものじゃないし、安物だけど無いと困るでしょ。私、まだペンあるから」
「……すまん、じゃあお言葉に甘えて」

 両手を合わせて「頭あがんねえわ、ありがとな」と私に頭を下げる彼。あるある、筆記用具忘れて困ること。私も一度やらかしてから、常にカバンの中にボールペンを一本入れておくようにしている。
 受講票にボールペンを走らせる彼。失礼だがなんとも見た目に似つかない、少しかわいらしい感じの字でサラサラと書かれた「三井寿」という名前。そうだ、そういえばそんな名前だった気がする。三井くん。名前はたぶん、ことぶきと書いてひさしと読むのだろう。いいことがたくさんありそうな素敵な名前だ。
 いつの間にかチラホラと学生たちが席を立ちはじめ、受講票を教授の元へ提出しに行っている。彼とやり取りをしている間に講義が終わっていたらしい。次の講義は空きだが、友人とカフェスペースで待ち合わせる約束をしていたことを思い出し、私は急いで荷物をまとめて立ち上がった。

「それじゃあお先に」
「おう、またな」

 彼こと三井くんはぴょこと軽く手を挙げてそう言った。私も「うん、また講義で」と返事をして教室を後にした。



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