13.


 スマートフォンの画面に映っている「杉浦さん」という文字。彼が私に電話を掛けてくる理由に皆目見当が付かず、動揺のあまり行動も思考も停止してしまう。
 凛子さんが「早く出なさい」と促すように頷いたので、意を決して通話マークをタップする。
 震える手でスマートフォンを耳に当て「はい」と応答したことを伝えると、電波に乗って聞こえて来たのは「いきなり電話してごめん、いま大丈夫?」といういつもと変わらない杉浦さんの声だった。

「っていうか普通に掛けてから気づいちゃったんだけど、まだ仕事中だったよね?」
「いえ、ええと……今日は家にいたので」

 そこで一瞬会話が途切れる。その沈黙がつらく感じても、自分から発する言葉が見つからなくてただたただ心許なく視線を泳がせる。
 対面しているわけでもないのにどこかぎこちない雰囲気の中、脳裏にフラッシュバックするのは昨日の出来事。いつの間にか彼に抱いてしまっていた自分の気持ち。それをしっかり心のうちに仕舞い込めていたら、あの時の自分を制することが出来ていたら。
 しかし、今更そんなたらればの話をしてもどうしようもないわけで。後悔や反省や懺悔の類は、昨日の夜から凛子さんが来てくれたつい先ほどまで、もうしつこい程に繰り返ししていた。

「もしかして、具合悪かったりする?」

 聞こえてきたのは心配するような声音で発された静かな言葉。考え過ぎによる自業自得の寝不足ではあるけれど、それ以外は別に問題は無く、特段体調不良というわけではない。
 しかし、今日は職場に着くなりさおりさんに回れ右で帰され、その理由がひどく疲れた様子であったからだと正直に白状出来る訳も無く。

「ぜんぜん元気です! 最近立て込んでたから今日は休んでって言われちゃっただけで」
「……名前さんて、ホント嘘つくの下手だよね」

 間髪入れずに返された鋭すぎるレスポンスに「え……」と漏らした私の声はほとんど呼吸のようなものだったように思う。
 二の句が継げずにいると、通話口の方から聞こえてきたのは「ごめん、また意地悪なこと言っちゃった」という彼の声。それに返す言葉が見つからず、再び口篭ってしまう。

「少しでいいから話せる時間、もらえないかなって思って電話したんだ」

 いっそ何事も無かったことになってしまえば、なんて不誠実なことを考えてしまっていた自分が恥ずかしくて、増していく自己嫌悪で視界が歪むのを感じる。
 私だって面と向かって謝りたい。ごめんなさいって言って、今まで通りとはいかなくても、これからも仲良くしてくださいって伝えたい。
 それが都合の良すぎることだって理解していても、杉浦さんとの関係が切れてしまうぐらいなら自分の浅ましい感情を切り捨てることぐらい、きっと出来る。

「私も、杉浦さんとちゃんとお話したいです。でも今は……その」

 続く言葉を紡ごうとした次の瞬間、耳元に当てていたスマートフォンは凛子さんによって引ったくられていた。
 彼女は首を横に振りながら親指をグッと立て、手中に納めた私のスマートフォンを耳に当てると「アタシ、少し前に例の地下で助けてもらったメイド喫茶のキャストです、お久しぶりです」と通話を再開する。

「今この子の部屋にお邪魔してたんですけど、もう帰るところなので是非来てやってください」

 出来ればマッハ5でお願いします、なんて冗談なのか本気なのかわからない言葉を平淡な調子で付け足して、あっという間に通話を終わらせた凛子さんは「はい、返す」とスマートフォンを私の手のひらに乗せてくる。
 気持ちが追いついていかないまま、自分の手の中に戻ってきたスマートフォンと、帰り支度を始めた凛子さんとを交互に見る。ものの数秒の間に、彼女と杉浦さんとの間でどのようなやりとりがなされたのだろう。ほとんど凛子さんのペースというか、半ばまくし立てるような感じだったように感じたけれど。

「それじゃ、アタシは帰るね」

 そう言いながら「よいしょ」と立ち上がった凛子さんの袖を咄嗟に掴んで「す、ストップ!」と縋るように引き留めると、彼女は不思議そうに首を傾げた。いや、首を傾げたいのは寧ろ私の方なのですが。

「ちょっとじゃなくて全然わかんないんだけど、ええとつまり、杉浦さんが今からここに来るってこと……?」
「わかってんじゃん、そういうことだよ。ここまでお膳立てしたんだから、あとは二人で何とかしなよ?」

 凛子さんは「もちろんいい方向にね」と口を端を上げてどこか悪戯っぽく笑う。
 杉浦さんが、今からここに来る。昨日の今日でゴタゴタが解決出来るかもしれないのはうれしいことだし、ちゃんと面と向かって謝りたいというのも本心だ。けれど、唐突すぎて心の準備はこれっぽっちも出来ていない。

「そんじゃあね、報告待ってるから」

 さっさと靴を履いて出て行ってしまった凛子さん。先ほどまで女子会のような雰囲気だった空間は、あっという間にいつもと変わらない私一人の部屋になってしまった。
 力が抜けたようにしゃがみこんで、未だにスマートフォンを握りしめたまま「ええと……」と小さくこぼし、頭の中を整理すべく宛ても無く視線を泳がせる。
 画面に彼の名前が表示された時、いちばん最初はギョッとした。それから、感情よりも早く目の奥がじわりと熱くなった。
 その理由が、今ならばわかる。まだ彼が私と会話をしようとしてくれていることが嬉しくて、そして安堵してしまったからだ。
 私がいま抱えている気持ちを、彼も同じように抱いているのだとしたら。
 そこまで考えてから、あるわけがない、と首を振ってその考えを頭から離す。此の期に及んでまだそんな都合のいいことを考えてしまうなんて。漏れた小さなため息がひとりきりの部屋に重く落ちる。
 そんな私的な感情よりも、誠心誠意謝ることだけに集中しよう。私の気持ちの行く先なんかどこだってよくて、今はただ杉浦さんとの繋がりを断たれてしまうことが何よりもこわくて、そしてつらくてかなしい。
 私は一体どのぐらいの時間そうしていたのだろうか。よし、と小さく呟いて拳を握った瞬間、インターホンが鳴った。
 おずおずと立ち上がりドアホンを確認すると、画面の向こう側に見えたのは間違いなく杉浦さんの姿で。
 ほんとにマッハ5だ、と間抜けなひとりごとをこぼしてから、通話ボタンを押して「いま開けますね」と伝える。うん、と頷いた杉浦さんを確認してから、胸に手を当てて深呼吸。
 たぶん今はちゃんと普通の声で喋ることが出来ていた筈だ、大丈夫。平常心、平常心。

「マッハ5って言われたから急いじゃった」

 扉を開けると、拍子抜けするほどいつも通りの杉浦さんがそこに立っていた。まさかそれを本気にしていたなんて、と呆気に取られて言葉を失ってしまう。つい今さっき、その到着の速さに同じことを思っていたのだ。
 ただただ瞬きを繰り返しながら固まってしまった私を覗き込んだ杉浦さんが「空回ったこと言っちゃったね」と申し訳なさそうに眉尻を下げたので、慌てながら「そんなことは!」と胸の前で手をパタパタさせる。

「わざわざ来ていただいてすみません」
「ううん、僕こそいきなりごめん」
「あの……ここだと寒いですし、よかったら中どうぞ」

 すると、今度は杉浦さんがぱちくり、と驚いたように目を丸くする番だった。その後で一瞬だけ逡巡するように落ち着かなく視線を揺らがせた彼が「でも、それは」と些かボリュームの抑えられた声で遠慮がちに言う。
 その表情と言葉の意味はよく分かっていた。彼はやはり、気を遣って何事も無かったかのように振る舞ってくれているだけなのだ。あんなことがあった後で、その相手の部屋に上がるという行為に抵抗感があるに違いない。
 しかし、これは玄関先で「ごめんなさい」「これからもよろしくお願いします」で済ませていい話ではない。ちゃんと謝らせてほしいという意味を込めて小さく首を振って見せると、杉浦さんは微かに口元を歪ませてから「それじゃあ、お邪魔します」と折れてくれた。
 私の部屋の玄関でしゃがみ込んでハイカットのスニーカーを脱いでいる杉浦さんの姿が不思議で、しばらくボーッと眺めてしまっていたが、ハッとして食器棚からマグカップをひとつ取り出す。
 部屋に通してから「紅茶でもいいですか?」と問うと、杉浦さんはやっぱりどこか申し訳なさげに苦笑してから「お構いなく……って言いたいけど、ご厚意に甘えようかな」と返事をしてくれた。
 そういえば、彼は一度この部屋を訪れた事があるのだ。それは私がすっかり酔い潰れてしまっていた時のことで、記憶なんて一切ないけれど。それを思い出してから、私はやはり彼に迷惑を掛けてばかりで、出会った頃から変わらずに厄介ごとに関わらせてばかりいることを再確認してしまう。
 ティーバッグを入れたマグカップに、電気ケトルで沸かしたお湯を注ぎながら、ぐるぐると胸の中を巡るのは認めてしまった浅ましい自分の気持ち。
 それを抽出するたった数分間が、気持ちを整理して言語化させるための最後の時間だった。

「名前さん、昨日は本当にごめん」

 ローテーブルの上にマグカップを置くと、間髪入れずに掛けられた言葉がそれだった。
 ごめん、という謝罪の言葉に感じた違和感は、ほとんど脳内で精査されることもなく「なんで杉浦さんが謝るんですか……?」という疑問となって私の口から飛び出していた。

「え、なんでって」
「だって、昨日のあれは私が」

 そこで一瞬言葉を止めてしまう。喉まで出てきているそのワードが、吐き出されるのを拒んでいる。否、そうしているのは私自身なのだが。

「キス、しちゃったからで……」

 ハッキリと事実を口にしただけなのに、声が震えてしまった。だから、と言葉を紡ごうとした瞬間、それを制するように「違うよ」と杉浦さんの人差し指が私の口元に当てられる。
 何も言えず、ただただキョトンと彼のことを見つめていると、彼はどこか物憂げにその眉根を寄せながら一瞬だけ視線を落とし、そのアーモンド型の綺麗な目を切なくなるほど柔らかく細めた。

「あの時僕が君にキスしたのは、そうしたかったからだよ」

 その言葉の意味がわからず、ただただ瞬きを繰り返す。
 杉浦さんは目の前にいるのに、こうして向き合って会話をしているのに、まるでその声は遥か遠くから聞こえてくるようだ。彼の発したそのセリフを上手く咀嚼することが出来ずに狼狽する私は、さぞ滑稽に写っている事だろう。

「名前さんがあの人にキスされたって聞いてモヤモヤして、気づいたらあんなことしちゃってた」

 あの人、というのが元彼のことであることはすぐにわかった。
 しかし、暴力で押さえつけるためだけに施された強引で自己満足なそれと、目の前にいる杉浦さんと交わしたものは全く違うものだ。だって、私はその瞬間にとんでもない多幸感を感じてしまっていたのだから。
 そこまで考えて、キャパシティを超えてしまった脳みそはガクンと処理能力を落とす。
 もしかして、これからも今までどおりの関係を続けられるのではないだろうか。一緒にご飯を食べたり、他愛もない会話をしたり、そんな風に過ごせたら。そう思ったら、緊張していた気持ちが緩んで視界がじわっと滲むのがわかった。

「私こそ、すみませんでした。こんなこと言うの、おかしいってわかってるんですけど、でもこれからも今までみたいに仲良くできたらって」

 情けなくも私の声はずっと震えていて、それはそれはか細いものだったけれど、今日一日、なんなら昨日の晩から考え続けて辿り着いた気持ちだけはなんとか伝えることが出来たと思う。
 しかし、杉浦さんは私の言葉を遮る様にふるふると首を振った。

「やだ」
「え、や、やだって……」

 間髪入れずに返されたのは、簡潔でわかりやすい否定の言葉。
 じっとこちらを見据えてくる彼の瞳は最早揺らいでおらず、私の動揺は見透かされてしまっているに違いなかった。

「今までみたいに、なんて僕はいやだって言ったの」

 それって、と声を漏らすが、そこから先の言葉が出てこない。
 やはり、あんなことがあった後で何も無かったかの様に元の状態には戻れない。そうはっきり言われたのだと理解すると、再び心の奥底が冷えてくるのがわかる。

「僕が名前さんに会いに来た理由はね、もちろん謝ることが最優先だったけど、そのためだけじゃないんだ」

 杉浦さんの発する言葉もそれを発する彼の声も、耳に届いているのにそれを上手く理解することが出来ない。ちゃんと聞かなきゃと思う気持ちはこれ以上ないってぐらいにあるのに、どうしても頭がそれを受け入れることを拒んでしまう。
 だって、おそらくこれから彼が紡ごうとしている言葉は、単純に「絶対にありえないこと」であると思い込んでいたからだ。

「いつの間にかそばに居たいとか、名前さんの隣にいるのは僕がいいとか、そんなことを考えるようになってた」

 ねえ、この意味わかる?
 私がふるふると小さく首を振ってしまったのは、決して「わからない」という意味ではなかった。信じられない気持ちが先行して体が勝手に動いてしまったのだ。
 とんでもなく鈍い人間にだってきっとわかる。彼がこれから言おうとしていることは、私が先ほど心の奥底に閉じ込めようと決意したばかりのそれと同じであると。
 口を半開きにしたまま微動だに出来ない私に向けた真っ直ぐな視線を不意に緩めた杉浦さんは、切れ長の瞳を泣きたくなるほど優しく細め、苦笑するみたいにその口元を歪ませた。
 そして、杉浦さんの発したそれは間違いなく私が彼に抱いている想いと寸分違わず変わらないものだったのだ。

「僕は、名前さんのことが好き」

 思い出すのは、昨日の車内での会話。
 大切な人を失くすのはもう嫌だと。そういう存在が出来ることに臆病になっていたと。その会話の中で引っかかっていたことがあった。そう、それが過去形だったことだ。

「絶対誰にも渡したくない。そんな風に思うの、初めてなんだ」

 私だってそうだ。最初に手を引かれて神室町を駆け抜けたあの瞬間、もうきっと私の運命はこの気持ちに向かって走り出していた。
 再会して、名前を知って、それから彼を知って。抱きしめられる度、ドキドキしながらも何故か心が安らいで「このまま離れないでほしい」なんていうわがままでどうしようもない気持ちが湧き上がっていたのだ。

「なんで……」
「え?」
「私だって……私だって、杉浦さんのこと大好きです!」

 今度は、ずっと硬直していた私に変わって杉浦さんが固まってしまう番だった。

「あんなにたくさん助けてもらって、たくさん楽しい気持ちをもらって、そんなの、そんなの好きになっちゃうに決まってるじゃないですか……!」

 封じようとしていた気持ちは、一気にこじ開けられたせいか前衛的すぎる形で飛び出してきてしまっていた。
 勝手に涙がぼろぼろとこぼれて、それを堪えようと顔に力がを入れたら今度は喉が詰まって嗚咽が漏れる。
 ポカン、と呆気に取られてしまっていた杉浦さんが「うわ、なんで泣くの!?」と慌てた様子で白いフーディーの袖口を私の目元に押し付けてくる。普段ならば「汚れちゃうからやめてください!」と言えた筈なのに、そんなことにすら気を配れなくなった私は差し出された彼の腕を両手でぐっと掴み、しゃくりあげる喉をなんとか落ち着かせようと躍起になる。
 ああもう、という声がすぐそばで聞こえたかと思うと、次の瞬間には杉浦さんの胸に顔を押し付けられていた。私の後頭部を撫でる彼の手のひらのあたたかさで、自分が抱き寄せられたことに気づく。

「私、本当はキス……しちゃったとき、すごくしあわせって思っちゃってたんです」
「僕もだよ、そのあとは情けないぐらい頭真っ白になっちゃったけど」

 もう、今までどおり名前さんと心地いい関係ではいられなくなっちゃうのが怖かった。
 彼の吐露した昨日の心境は、私とまるきり同じものだった。あの時からついさっきまで、お互いに全く同じことを考えて、そして悩んでいたなんて誰が想像出来ただろうか。だって私は、この人にとって「巻き込まれ体質の厄介者」以外の何者でもないと今の今まで思っていたのだ。
 杉浦さんの心臓の音が聞こえる。やさしくて、あたたかくて、そしてどうしようもなく愛おしい。
 小さい子をあやすみたいに私の頭を撫でていた彼の手がピタリと止まって「ねえ、名前さん」と名前を呼ばれる。顔を離して見上げると、杉浦さんはほんのすこしだけいつもより硬い表情でこちらを見下ろしていた。

「僕は君のそばにずっと居たいし、そばに居てほしいって思ってるんだけど」
「私で、いいんですか……?」
「名前さんじゃなきゃダメ」

 だからさ、僕のものになってくれる?
 そんなの、答えはひとつしかない。悩む必要すらなくて、至近距離で視線を交わしたままこくんと頷いて見せれば、杉浦さんはまるで子どもみたいに「やった!」と嬉しそうに笑んだ。
 飄々としていて頭の回転が早くて口が達者で、それなのに時々見せる少年ぽさがかわいらしくて。そんなところをひどく愛しいと、それこそずっと前から感じていた。
 彼に抱きしめられていると、思い出すのはいちばん最初に逃げ込んだ路地裏でかいだ香り。その時と変わらない私を落ち着かせる香りに包まれながら、この状況は夢なんじゃないかと急に不安になってきてしまう。とん、と杉浦さんの胸に頭を預けると、ちゃんと彼はそこにいることがわかって、そしてその体温を感じることが出来る。

「……ちゃんと杉浦さんのにおいがする」
「え、僕におってる!?」
「そうじゃなくて、大好きな人のにおいって安心するの。そこにちゃんといてくれるんだなって」
「ああ、そういうことか。……それなら、僕もだよ」

 ぎゅう、ともう一度私の体を抱きしめた杉浦さんが、うずくまるみたいに私の首元に顔を埋めてすう、と息を吸い込む。くすぐったくて身をよじろうと試みるが、ガッチリとホールドされてしまっていてはそれすらも難しい。
 くるしいです、と彼の背中をぽんぽんと叩くと、杉浦さんが「ふふ」といたずらっぽく息を漏らして笑ったのがわかった。

「……ねえ。昨日のやり直し、してもいい?」

 ようやく体を離した杉浦さんが、私と視線を合わせてから発したその言葉。
 彼の言う「昨日のやり直し」が何を指しているのかはすぐに思い当たったが、面映ゆい気持ちになって思わず視線を逡巡させてしまう。
 私を見つめる彼の視線を感じながら、落ち着かなくまばたきを繰り返して息を吐き出す。もちろん、断る理由なんてどこにもない。ちいさくひとつ、頷くのが精一杯だった。
 きっと、体をぴったりくっ付けているせいで私の心臓がどうしようもなくうるさく騒いでいることは杉浦さんにバレてしまっているだろう。
 優しく私の頬に触れた手のひらから彼の熱が伝わってくる。親指で下唇をなぞられて背中がぞくりと粟立ったのは、まるでその仕草が「今からここにキスするんだよ」って教えられたみたいだったからだ。
 恥ずかしくなって杉浦さんの表情を伺うと、そんな私を見下ろしながら彼の口元が満足げに弧を描く瞬間を見た。
 ぐっと腰を引き寄せられて、顎に添えられた彼の手によりほんの少し上を向かされる。昨日とは違う「やり直し」はしっかりと予告された行為だった筈なのに、唇が重なった瞬間、胸の中で何かがぶわっと膨らんで、私の体の中は杉浦さんでいっぱいになってしまった。ついさっき引っ込んだばかりの涙が、湧き上がる幸福感で再び滲みそうになる。
 啄ばむようなそれが繰り返される度、勝手に漏れてしまうのは鼻にかかったような吐息。大好きな人と心を通わせたあとにするキスってこんなに幸せで気持ちいいんだな、とぼんやりとする脳みそで考えながら、優しい雨のように降り注ぐ愛情表現に必死に応えながら彼を感じる。
 自分たちの中にある箍を外してしまえば、すぐにでも深いものに変えることが出来てしまうであろうその行為に、私たちはどのぐらいの時間耽っていたのだろう。
 ただ体を寄せて、抱き合って、そして唇を重ねただけ。それなのにどうしようもなく満たされて、本当はずっとずっとこうしたかったのだということに気づかされる。
 しかし人間というのは欲深いもので、じゃあその次は、と勝手に先へ進んで行きそうな意識をなんとか押さえ込み、荒れた呼吸を整える。
 キス、しちゃったんだ。まだ落ち着かない気持ちをなんとかする為に、そっと自分の胸に手を当てる。杉浦さんの表情を伺うと、色っぽく眉根を寄せながらこちらに視線を落とす彼と視線が絡まって、どきんと大きく胸が鳴ってしまった。

「あ、あの!」

 意を決して声を掛けると、杉浦さんはぱちんとひとつまばたきをしてから「なに?」と首を傾げる。

「私も、杉浦さんのこと名前で呼んでいいですか?」

 杉浦文也というのは偽名で、寺沢文也というのが本名なのだと聞いたのは昨日の話。最早杉浦と呼ばれることのほうが自然になったと彼は話していたけれど、私が呼びたいのは「文也」という彼の名前だった。
 そういえば、彼は最初から私のことを自然と名前で呼んでくれていて「名前さん」と声を掛けられるたび、呼びかけられるたび、その自然なあざとさに悔しさすら覚えていたことを知らないだろう。

「うん、もちろん」

 っていうか寧ろ大歓迎だよ、といつもの調子で笑んだ彼。文也さん、だとなんかお見合いみたいだし、呼び捨てって感じでもない。それじゃあ、とわざとらしく咳払いをしてみる。

「文也くん。……ふふ、なんか照れるかも」
「……名前さんて、ホントずるいよね」

 何がですか、の意味を込めてじっと彼の目を見つめてみたが、杉浦さん ── もとい文也くんは綺麗に整えられた形のいい眉を寄せて「こっちの話」と言葉を濁してしまった。

「あんまりこうしてるのもって感じだし、今日はもう帰るよ」

 これ以上名前さんと一緒にいたらたぶん、我慢とか出来ないから。
 そう言った文也くんの瞳の奥に見えたそれが、そしてその言葉が示す意味がなんなのかすぐに辿り着けたのは、キスを交わしているうちに同じような気持ちを私も抱えてしまっていたからだ。
 彼のことを意識し始めたのはきっと、あの偽カップル作戦の時だったと思う。それから会うたびに思いを募らせて、いつの間にかそれが恋愛感情であることに気づいて。抑え込まなきゃって頑張ろうとしたけれど結局出来なくて。
 積もりに積もった彼への気持ちははしたない欲望となって、きっとそういう風に触れられたら愚直すぎるくらい素直に、そして簡単に堕ちていってしまえるだろう。
 名前さんも疲れてるみたいだし、と欲を滲ませていた色をそっと隠し、文也くんは私の目の下をつん、とつつく。やはり、悩みすぎで生じてしまっていた濃い隈には気づかれてしまっていたようだ。

「我慢、しなくてもいいんじゃないかなあ」
「え……?」
「な、なーんちゃって……」

 文也くんの顔に浮かんだあからさまなまでの「何言ってんだコイツ」という表情に気圧され、冗談めかして濁してみてももう遅いわけで。

「……それさ、意味わかって言ってる?」
「わ、わかってます! あ、でも……」
「ん?」
「その……ゴム、なくて」

 ごめんなさい、と頭を下げてからきゅっと唇を結ぶ。私、何言っちゃってるんだろう。急に恥ずかしくなって、膝の上に乗せた両手をぎゅっと握りしめる。想いを確かめ合っただけで、もうそれだけで充分なのに。
 私の言葉を聞いた文也くんは、なんとも言えない表情で視線を泳がせるとほんの少し腰を浮かせ、自らのボトムス背部にあるポケットへと手を突っ込んだ。

「……これ、実はさっき外で名前さんの友達に握らされたんだ」

 そう言った文也くんの手のひらの上には、私がこの部屋にはそれがないと伝えた例のものが三つ、連なって乗っかっていた。
 友達、というのが凛子さんのことなのはすぐにわかった。つまり、私には帰ったフリをしてすぐ傍で文也くんを待ち伏せしていた凛子さんが彼にそれを手渡したらしい。きっと「はいこれ、使うと思うので。それじゃ」なんて言って強引に手渡したに違いない。その光景を容易に想像することが出来る。
 文也くんの手のひらの上にあるそれと、恥ずかしさと気まずさを混ぜ合わせたような珍しい表情をしている彼とを交互に見やる。

「っふふ、お節介……!」
「間違いなく今までの人生でいちばん下世話なお節介だと思うよ」

 お腹がぶるぶる震えて、堪えきれなくなった私たちは一瞬だけ顔を見合わせ、弾けたように笑い合う。
 この部屋を出て行く時に「ここまでお膳立てしたんだから、あとは二人で何とかしなよ?」と言っていた凛子さんは、こうなることを見越して彼にそれを手渡したのだろうか。もしかしたら、彼女には千里眼か何かが備わっているのかもしれない。そして「ここまで」なんていうのがとんでもないウソであったことが今わかってしまった。
 お腹が痛くなるほどひとしきり笑ったあと、文也くんが「けど、今は感謝って感じかも」と小さな声で独り言のように呟く。

「それで、この部屋にそれが無くて安心してる」
「え……?」
「あれ、言ってなかったっけ? 僕ってすんごい嫉妬深いんだよね」

 そう言ってニヤリと口の端を上げた文也くんの表情は早くも色っぽいものに変わっており。その視線に射抜かれるだけで、私の中にある「はやくこの人のものになりたい」というはしたない気持ちがどんどん膨らんでいく。
 名前さん、ととろけるほどに甘い声で名前を呼ばれたら、魔法にかけられたみたいに頭がぼうっとしてしまった。
 ふ、と目を細めた文也くんの整った顔が近づいてくるのを見ながら、優しく押しつぶすように施された二度目のキスが深くなっていくのにはきっともう、ほとんど時間は掛からないだろう。


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