6.

 なんだか心がざわざわする。ざわざわというか、ソワソワというか、心許なくてずーっと落ち着かない、違和感しかないこの感じ。
 仕事が相変わらず忙しかったから気が紛れてまだ良かったけれど、やっと対面のスケジュールが済んだから事務仕事に向き合いますか、とパソコンの画面に向かった途端に集中力が切れて、鳩尾のあたりがモヤモヤとし始めた。
 風邪や生理前特有の時期的なものでもない。日常生活を送る上で支障はないのに、どうしてかここ一週間ほど気持ちが落ち着かないのだ。
 あの、苦痛でしかなかった社内運動会から一週間。あの日は顔見知りの社員から「あれ、苗字さんがいるなんて珍しいね!」と声を掛けられる度、こんな面倒くさいイベントなんて二度と出てやるものか! と心の中で呪詛を吐きながら、それを押し留めて「人数合わせなんです、運動会ってすごく盛り上がるんですね」といつも通りの調子で思ってもいないペラペラなセリフを述べ、営業スマイルを浮かべる自分がいた。我ながら感心してしまうレベルだった。
 それはそれとして、もう終わったイベントである。そんなことよりも、だ。
 私は先程飛んできたチャットの文章を眺めながら、これでもかというほど眉間に皺を寄せて目を細めている。きっと、傍から見たら絶対に話しかけてはいけない人間の顔をしているに違いない。

『おつかれ。来週結構と会社にいられるんだけど、都合つくならまた昼メシ行こうぜ』

 なんですか、このとても軽いノリは。
 思わず画面に向かって深く深いため息をついてしまったことに気づき、誰かに見られているわけでもないのに慌てて手のひらで口元を塞ぐ。最近、というかこの人と知り合ってから、ため息ばかりついている気がする。ため息をつくと老けていくっていうから、気をつけなきゃって思っているのに。
 そんな文章を飛ばしてきた三井さんは、まだ最初のこと気にしているのだろうか。この間の運動会の時だってそうだった。会社モードを振り撒きすぎて疲れ果てていた私なんか放っておけばいいのに、お疲れ様会なんていって連れ出してくれちゃってさ。苦手な人に絡まれてた時、助けてくれたこともあったっけ。
 例えば、あんな最悪な出会い方をしていなかったとして、それでもあの人は私のことを気にかけてくれたのだろうか。そんな考えがふと浮かぶ。うーん、ないな。ないない、ありえない。だって、そうなると気にかける理由が無いんだもん。
 悲しい自問自答のあとで、再び漏れ出そうになったため息をなんとか堪え、デスク横に置いていたマグカップを手に取り冷め切ったコーヒーを啜る。
 もっとちゃんと、何か違うきっかけで知り合えていたらよかったのに。頬杖をついて、意味もなくただただぼんやりと斜め上あたりを眺めながらはっとした。
 なんで私、こんなことを考えてるんだろう。
 まだ返事をしていない、たった二行足らずのチャットの文章を何度も何度も読み返す。そうしているうちに、脳みそが茹だりそうな気配を感じて「ううう……」と声にならない低い唸りを上げ、思わずデスクに突っ伏した。
 ランチに行きたくないわけじゃないけれど、なんていうか三井さんという人のペースに乗せられていることが無性に落ち着かない。話していると楽しいから、どうしてもいつも通りに会社の人用の対応が出来なくなっていることに不安を覚えてしまう。
 それにあの人、無意識にドキドキさせるようなこと言ったりしてくるし。またそれが、彼にとっては何の気無しにやっていることだろうから余計にタチが悪い。
 枯れかけの心がうっかり勘違いをしちゃったとして、このままズルズルと気持ちを引っ張られていってしまうのがとてつもなく怖い。こんな調子であの人と交流をして、もっともっと仲良くなっちゃったら、きっと私は。
 そこまで考えて、私の頭頂部から飛び出してぷかぷか浮かんだ見えるわけがないそのあとの言葉を慌てて両手で払い、ぶんぶんと首を振る。うん、気のせい気のせい。ああもう勘違いしちゃっていやになる、全部あの人のせいだ。
 そうだ、気分転換をしよう。デスクの端に置いてあった社員証を手に取って首から下げ、カバンの中を漁って小銭入れを引っ掴むと、脱いでいたパンプスを履き直して席を立った。


***


 弊社ビルからものの100メートルほど歩いた先に、コーヒーショップのチェーン店がある。その店でうちの会社の名刺を提示すると、カップのサイズを無料でワンサイズ大きいものに変えることができるので、こうして煮詰まってしまった時にはよく利用している。
 この店が駅と会社の間にあったら朝も利用したいのになあ、と考えながらヒールを鳴らし、夕方になりかけた道を闊歩する。まだ十六時過ぎだというのに、この時期になると日が落ちるのがとても早い。もうそろそろ街灯が点き始める頃だろう。
 コーヒーショップの前にたどり着くと自動ドアが開き、店内から「いらっしゃいませー」とすこし間延びした声が掛けられる。

「おっ、奇遇だな」

 いつもならカフェラテ一択なんだけど、今日は甘いのにしちゃおうかな、なんてことを頭の中で巡らせていた私は、目の前に人が立っていることに気づかなかった。

「……げっ」

 頭の上から掛けられた声に顔を上げ、その人のことを認識してから飛び出してきたその言葉は、そりゃあもう失礼極まりないものに違いない。けれど、こればっかりはどうしようもなかったということにしておいてほしい。だって、こんなタイミングってある?
 みるみるうちにその人、もとい三井さんの眉間に深いシワが寄って、目力のある瞳が細められる。うっわヤバ、と思いながら今更手で口元をおさえても意味は無く、三井さんは「おまえなあ、人の顔見るなりその反応はねえだろ」とわかりやすく不機嫌な表情かつ声音で言った。

「あ、あー大変! えっと私、お財布忘れてきちゃったので戻ります!」
「ほー、そうかそうか、じゃあその右手に持ってるのはなんだ?」
「……小銭入れですね」

 咄嗟に吐く嘘が下手すぎる。右手にペーパーカップを持っている三井さんは、おそらくちょうど会計を済ませ、商品を引き取ってこのまま店を出るところだったのだろう。

「オレ、苗字さんになんかしたか?」
「あ、いえそういうのじゃなくて……」
「じゃあなんで避けようとすんだよ」
「別に避けてるというわけじゃ」

 ないですけど、と続ける言葉が出てこなかった。今この人と関わったり、この人のことを考えたりすると胸がざわざわしてしまう、だからあんまり顔を合わせたくなかったのに。そんなことばっかり考えちゃうから、気晴らしで外に出てきたのに。どうしてドンピシャなタイミングではちあってしまったのだろう。
 言葉が出てこなくなってしまったので、ただただぎゅっと口を結んでふるふると小さく首を振る。なんかこれ、駄々をこねている子どもみたいだ。

「……まあいいけど、じゃあ外で待ってっから」

 外で待つ? と思わずオウム返しのように繰り返しながら首を傾げた私を見遣ると、三井さんはこくんと頷き、それ以降は何も言わずにさっさと店の外へ出て行ってしまった。
 ええと、つまり彼が発した言葉の意味は「コーヒー受け取って出てくるのを待っているから一緒に帰社しましょうね」という意味で間違いないだろうか。うわ、困った。できたら自分の気持ちの整理がつくまではなるべく関わらないようにしようって思ってたのに。

「お客様、ご注文お決まりですか?」
「あ、ごめんなさい! カフェラテホット、テイクアウトで」

 それでは奥でお待ちください、と言われ、前に進んでから気がついた。突然現れた三井さんのせいで、甘いものを頼むのも、名刺を提示してサイズアップしてもらうのも忘れてしまった。ああもう、今日の私はダメすぎる。
 比較的空いている時間だからだろうか、割とすぐに出てきたペーパーカップを受け取って店を出ようと踵を返すと、自動ドアの向こう側にスーツ姿の三井さんの広い背中が見える。

「あの……お待たせしました」

 そう声を掛けると「おう」と返事をした三井さんが私の姿をみとめて歩き始める。右側を歩く彼と歩幅を合わせていると、なぜだか右半身がぴりぴりと緊張しはじめてしまう。
 そういえば三井さんと出会った時もちょっぴり心が弱っていた時だった。へとへとに疲れていたり、ああもうやだなってなってしまっている時に、いつだってこの人は現れるのだ。

「そういや、さっきチャット飛ばしたんだけどよ」

 さっきのチャット。そう言われて思い出した。そうだ、その文章を読んで、なんて返信しようか考えあぐねて放置してしまっていたんだった。

「来週さ、またどっかで昼メシ行こうぜ」

 もしかして無視していると思われてしまっただろうか、と懸念していたところで続けられたその言葉から、彼はおそらく私がまだ既読していないという認識でいることがわかった。
 最初にお蕎麦屋さんに行った時に話をしたお気に入りのラーメン屋さん、運動会のパン食い競争の戦利品とされていたパンを売っているカフェ、少し歩いたところにあるビルの地下にある定食屋さんだって教えたい。だけど、これ以上この人と関わってしまったら、自分がどうなってしまうのかがなんとなくわかる。それがこわくてたまらない。

「あ、えーと……スケジュール確認しないとちょっとわからないんです。業務が立て込んでる時期なので」

 ごめんなさい、の気持ちを込め、控えめに三井さんを見上げつつ伝えてみる。忙しいのは本当だ。だって、実際事務仕事が追いつかなくて、お昼を食べながら仕事をしている時だってあるのだから。だから、嘘をついているわけじゃない。

「まあ都合つけばって感じで。つーか、相変わらずすげー疲れた顔してるな」

 そう言われて、胸がドキンと鳴った。
 なんで、どうしてこの人はそういうことに気づいちゃうんだろう。私の顔にあからさまに出ちゃってるんだろうか、ううん、人と対面する時には隠すようにしている。じゃあ、私がこの人の前では取り繕えなくなってしまっている、ってことだろうか。
 どうしてだろう、急に泣きたくなってきた。熱いカフェラテの入ったペーパーカップを持つ手に力が入る。目の奥が痛くて、三井さんを見つめたままぎゅっと下唇を噛み締める。
 この人の考えていることがわからない。あの時、慰めるように私の頭を優しく撫でた大きな手のひらのぬくもりとか、胸がしめつけられるほど優しい眼差しとか、そんなのを思い出しながら、思わず「あの」と声を発していた。
 どうした? と三井さんがこちらに顔を向ける。

「どうして私のこと気に掛けてくれるんですか? まだあのことを気にしてるんだったら」

 気にしないでください、と続けようとしたところで「ちげーよ!」という言葉に遮られてしまった。ぎゅっと眉間にシワを寄せ、眉を釣り上げている三井さんの迫力ある表情に呆気にとられてしまう。

「……いや違うな、気にしてねえわけじゃねえけどなんつーか、苗字さん見てっと危なっかしくてほっとけねえんだよ」
「危なっかしいってそんな、ちっちゃい子じゃあるまいし……。私、これでもいい大人なんですけど」

 そう言い返してはみたものの、確かにこの人の言うとおりだと、否定することはできなかった。ふと気を抜いた瞬間の表情だとか、ひとりじゃどうにもならなくて、困りながら右往左往している姿を何故だかタイミングよく目撃されてしまう上に、この人が何の気なしに行う行動でドキドキさせられたり、動揺したりしている。
 三井さんははあ、と深く息を吐くと、それこそまるで小さな子ども言い聞かせるような声音で「あのなあ」と続けた。

「こういう時はかわいらしく、そうですかあ? とか言っとけばいいんだよ。ほら、例えば受付の女子たちみたいに」

 そのセリフを聞いて、殴られたわけでもないのに頭がくらくらした。それは明らかに冗談めかして発された軽い口調のセリフだったのに、どうしてか私の頭の中は一瞬にしてカッと熱を持って、喉の奥がぎゅっと窄まる。
 運動会の時の映像が脳内でリフレインする。バスケで大活躍した三井さんを囲う受付担当の女子たち。私には愛嬌も、あんな風に寄っていける素直なかわいらしさなんてものはない。あの時は、そんな風に暗くて卑屈でかわいいとは真逆の感情を抱いていた。
 だから、この人にだけは言われたくなかったのに。

「……知ってますよそんなの! 私はどうせかわいげのない女です!」

 つい声を荒げてしまった。悔しくて、どうしようもなく悲しくて、そして自分のことをどんどん嫌いになっていく。一番悪いのは、かわいげがなくて素直じゃなくて、不器用で天邪鬼な私なのに。三井さんに当たってしまった自己嫌悪と、行き場のないやるせない怒りで体の中がぐちゃぐちゃになる。

「おい、なんで怒ってんだよ」
「別に怒ってなんかないです! お疲れ様です! それでは!」

 いつの間にか辿りついていた会社の前で、三井さんに背中を向けて駆け出す。受付から掛けられる「お疲れ様です、お帰りなさいませ」という声に、視線さえ向けずに無視してしまったのはたぶんこれが初めてだ。
 ちょうど来ていたエレベーターに飛び込んで、執務室のあるフロアのボタンを押す。どうしてこんなにもイライラするんだろう。扉が閉まり、動き出したひとりぼっちのエレベーターの中、原因不明の胸の苦しさで喉が引き攣る。
 この気持ちを認めてしまったら、もっと苦しくなるだけだ。それがわかっているから、なんとか必死に気を紛らわそうとしているのに。そもそもあんな出会い方をして、加えてこんなにかわいげのない女に魅力なんてものがあるものか。
 狭くて四角い空間の中で、なにをしても消えてくれない複雑な感情が溢れ、じわりと私の視界を歪めた。


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