突然ですが、皆様は「推し」という言葉をご存知でしょうか。
 芸能人、スポーツ選手、アニメや漫画の中のキャラクターなど、それ以外にも推しと成り得る存在はこの世界に数多と存在しています。
 そんな前置きはさて置き、今日はちょっと私の推しについてお話をさせてください。

「おはようございます」

 出社してくる社員たちに声を掛けること。それが私の朝一番の仕事であると言っても差し支え無い。
 朝早くに起きてしっかりメイクをし、髪をゆるく巻く。淡い色のトップスはとろみ素材のシャーベットカラー。ツイードのタイトスカートはちょうど膝が隠れる程度の長さ。更衣室のロッカーに設置された内鏡を覗き込みながら、リップが剥げていないか確認をする。
 しゃんと背筋を伸ばしてから更衣室を出て、ヒールを鳴らしながら弊社ビルの顔となる受付に入ると私の仕事は始まる。
 受付の仕事はシフト制で、早番と中番、そして遅番に分かれている。中でも私が好きなのは早番なのだけど、それは決して早い時間に帰れるからという理由ではない。
 大体始業時間の15分ほど前に、その人は出社してくる。近くのコーヒーショップのコーヒーを右手に持ち、その腕には取り出した社員証を引っ掛けている。
 この時間が最高に幸せ! と叫びたい気持ちを抑えながら「おはようございます」と平常心を装って声を掛けると、ちらりとこちらに視線を向けた彼女は口元に軽く笑みを浮かべながら目を細めて「おはようございます」と返してくれる。
 彼女 ── もとい、弊社の産業カウンセラーである苗字名前さんこそ、いわゆる私の「推し」なのである。
 美人でスマートで仕事が出来て、それなのに冷たいという印象は一切受けなくて、凛としていて朗らかで。苗字さんはそんな人だった。

「うちのカウンセラーさん、すっごくいい人だよ」

 弊社は、入社して少し経つと顔見せがてら産業カウンセラーとの面談を必須とされている。受付担当までそれを受けさせるとは徹底しているんだな、と他人事のように思いながら、うっすらと感じていたのは面倒に思う気持ちなわけで。
 小柄で、どちらかというと実年齢より下に見られる私。ベビーフェイスと言えば聞こえがいいが、ちゃんと化粧やらなんやらを施さなければ「垢抜けない」という意味とほぼ同義であることをしっかり自覚していた。
 端的にいえば、私の見てくれは女女しているのだ。何もしていないのに何故か第一印象で「あざとそう」だとか、「彼氏が切れなさそう」なんて言われることがあって、学生時代は投げかけられる言葉に傷つくことも多かった。けれど、もうそれを逆手にとって生きていく程度には開き直っている。
 そんな私にとって、受付嬢という仕事は割と自分にマッチした仕事であると思っている。ニコニコしながら丁寧な言葉と対応を心がける対人間の仕事。コンプレックスに思っていた量産型女子みたいな見てくれが、この仕事では役に立ってくれている。

「はじめまして、カウンセラーの苗字と申します」

 差し出された名刺を受け取り、一瞬それに視線を落としてから軽く頭を下げる。
 苗字と名乗ったその女性は「はじめましてっていっても、受付で顔合わせたことありますよね」とほんの少し照れたように笑いながら「いつもお疲れ様です」と言葉を続けた。
 業務内容で困っていることなどがあれば、と問われたが、現状この仕事に思いつく不満はない。だって、いま私の周りにいるのは自分をキラキラさせることを仕事としている女子ばかりなのだ。その中に溶け込むのはとても楽で、多少自分を取り繕い無理をしていたとしても、変なやっかみに巻き込まれるよりはよっぽどいい。
 ……と、まあそんな複雑なあれそれを、目の前にいるほぼ初対面の彼女にわざわざ吐露する必要は無いだろう。

「いえ、特には……」
「入職されてすぐに何かあるって、殆どないですよね」

 今日は顔合わせ程度ですので、と困ったように眉尻を下げた苗字さんにこくんと頷いて見せる。
 この人も大変なんだろうな、とふと思った。人間誰しも生きていて嫌なことが無いなんておそらくあり得なくて、どんなにぼんやり過ごしていても時間は流れて次の日はやってくる。
 そんな中でも嫌な顔を見せずに人の話をじっと聞いて、それを上にあげて。受付の仕事と似ているかも、なんて思ってしまった。

「受付の方々って、どんな時でも笑顔でいてすごいですよね。私なんて、面談終わるたびに気が抜けちゃって」

 それはまるで、心の中を見透かされたのかと思ってしまうようなタイミングだった。
 あんまりこれ人には言えないですけどね、と続けた苗字さんは、ほんの少し悪戯っぽい表情を浮かべながら「なので今の、秘密にしてくださいね」とその形の良い唇に人差し指を当ててみせる。
 思わずドキン、としてしまっていた。
 え、待って、なにそのかわいい仕草。なにそのあざとい感じ。美人でスマートで仕事が出来て気さくで、更にそんなお茶目なところまであるなんて、このひと完璧超人すぎないか。寧ろ、ひとたらしと称してしまっても差し支えない気がする。
 これからも何かあれば気兼ねなくご相談下さい、という声を掛けられるまで、私は彼女の顔から視線を外すことが出来なかった。

「あ、あの」
「はい?」
「本当は、ちょっとしんどいなって思う時あるんです。でも笑顔でいることが仕事なので」

 ほとんど脳直でそんな言葉を発してしまっていた。うんうん、と小刻みに頷きながら話を聞いてくれている苗字さんから視線を外し、膝の上に置いている自分の手の甲へと落とす。

「だからその、ちょっとキャパオーバーしそうな時とかにお話聞いてもらうことって出来るんでしょうか……?」

 そう問うと、苗字さんはまつげに縁取られた瞳を柔らかく細めながら「もちろんです」と笑んだ。
 早番の時、彼女が出社してくるのを楽しみにするようになったのはその日からだった。
 風の噂というか、度々会話をする営業部の男性社員さんや、同じ受付担当の同僚達から苗字さんが社内でも人気があることは聞かされていたが、まあそりゃそうだよなと納得してしまった。
 しかし、顔が広く朗らかな彼女がランチに行く時は大体ひとりである。誰かと一緒に行くことがあっても、同じカウンセラーの女性か総務部の女性ばかり。
 稀にエントランスで誰かに声を掛けられ誘われても、申し訳無さそうに眉尻を下げて「ごめんなさい」とお断りしているのを見かけたことがある。
 仕事は違えど対人間業務、休憩や食事ぐらいひとりで済ませたいという気持ちは痛いほどによくわかる。

「それじゃあ私、お昼もらいます」
「うん、いってらっしゃーい」

 早番の日の休憩はぴったりお昼のど真ん中。中番の担当に受付を任せ、今日は会社から程よく離れたお気に入りのお蕎麦屋さんを目指すことにした。ビルの周りには飲食店がたらふくあるので、少し足を伸ばせば同じ会社の人間とはちあうことはほとんど無い。
 6、7分ほど歩き、たどり着いたお蕎麦屋さんの暖簾をくぐる。時間も時間なのでほぼ満席のようだったが、ちょうど空いたらしい席に通された。
 メニュー表を開くまでもなく、注文は決まっていた。夏場限定の三杯酢そばは山菜や焼き豚が乗せられた冷やしメニューで、私がこのお蕎麦屋さんを訪れたのはこれを平らげる為なのだ。
 お茶を持ってきてくれた店員さんに注文をして、ふう、とひとつ息を吐く。そうして視線を上げた次の瞬間、私は思わず口を押さえてしまっていた。
 苗字さんも、ここに食べに来てたんだ。
 落ちてきそうな髪を耳にかけている彼女の姿。会社の周りにも色々な店があるのに、少し離れたこの店まで足を伸ばしているということはやはりランチぐらい自分時間として過ごしたい派らしい。だとしたら私と同じだ、ちょっぴり嬉しい。
 あまり良いことではないとわかりつつ、蕎麦を啜る彼女を控えめに観察してしまう。その器の中身を平らげたらしい彼女は、手を合わせて「ごちそうさまでした」と小さく口を動かす。そして、その口元に満足げな笑みを浮かべたのを見逃さなかった。
 あの人、あんなに美味しそうにごはん食べるんだ。どうしよう、やっぱりすっごくかわいい人なのかも。

「お待たせしました」

 目の前に注文していたものが届いて、私はようやく自分が「控えめに観察」以上に凝視してしまっていたことに気づく。
 なんだか上手く言えないけれど、とにかく苗字さんには幸せでいてほしいと、しみじみ感じたのは不思議な感情。
 私のことなんて認知してくれなくていいし、受付嬢の中にそういえばこんな女が居たなあ、程度でいい。なんなら覚えていてくれていなくても、記憶から抹消されていたとしても全然全く問題ない。ただ、陰ながら彼女の幸せを願わせて頂きたい。ただそれだけなのだ。
 これがいわゆる「推し」という概念なのであると、私が自覚したのはこの日だったように思う。


***


 その日は突然やってきた。お昼時になるとエレベーターで降りてくる苗字さんは、いつもそのまま真っ直ぐに出口を目指す。しかし、その日は違っていた。
 エレベーターから出てきた彼女は、あたりをキョロキョロと見回しながら歩を進めている。あの様子、珍しく誰かと待ち合わせでもしているのかもしれない。
 そんな彼女がぱっと目を見開いて、慌てた様子で早足になり向かっていったのは、腕を組みながら立っていた男性社員のもとであった。
 苗字さんが男性とランチに行くなんて、私が見てる中じゃ初めてかも。ちょっぴりドキドキしながら、何やら軽く会話を交わしてから並んで歩きはじめた二人の背中を凝視する。
 どこか気難しげにも見えるその顔と、そこそこ目立つ高身長。確か、最近支社から本社の営業部に異動してきた人だ。その男らしい見てくれに、同僚たちが「あの人、カッコいいよね」なんて言っていたことを思い出す。
 ええと、名前なんだったっけ。人間というものは、興味の無いものに記憶の容量を割けない生き物なのである。
 それにしてもあの二人、まるでパズルのピースがはまったかのように並んだ時のビジュアルが完璧だった。もしかしてそういう関係なのかな、と俄かに騒ぎ出すのは浅ましい野次馬根性。
 突如齎された推しの新情報に沸き立つ心をなんとか制し、平常心を心がけながらランチに向かうであろう他の社員たちに「いってらっしゃいませ」と声を掛け、頭を下げる。
 あの強面営業部さんが、どうか苗字さんを幸せにしてくれる人だといい。そう、素直に思った。
 その人が三井寿という名前であると知ったのはその少し後だった。会社で毎年行われている運動会と銘打たれた業務外行事に、彼が参加するらしいと聞いた同僚たちが沸いていたからだ。
 業務外行事、聞くだけでため息が出そうなワードである。しかし今年入職したばかりの私が「不参加で」と言える雰囲気ではなく、既に参加の表明をしてあった。
 そしてなんとその当日。会場である体育館へ向かうと、その場所には長袖のTシャツにジャージ姿の苗字さんの姿があったのだ。
 第2カウンセリングルームのマドンナが参加するなんてめちゃくちゃレアだぜ、と言っていたのは顔見知りの営業部の男性。
 毎度のことながら視線を向けすぎるのは悪いと思いつつ、やはり追ってしまう推しの姿。体育座りで総務チームの面々とにこやかに会話をしている苗字さんも、その格好も新鮮で、私はただただ「推しの新衣装を拝めた」という嬉しさを噛み締める。
 更には、パン食い競争に参加してぴょんぴょん跳ねる姿まで拝むことも出来た。そのギャップに思わず「今日という日にありがとう……」と声を漏らしてしまっていたらしく、隣に座る同僚に「なんて?」と返されてしまった。慌ててなんでもないと大袈裟な手振りで示してみたが、上手く取り繕えた気はしない。
 とにもかくにも、今日は本当に来てよかった! と心の中で盛大にガッツポーズを決めてしまうことぐらいは許されたい。
 その後に始まったのはバスケットボールの簡易試合。我が受付チームは女子オンリーで結成されているので、バスケの試合は元から辞退している。つまり、有難いことに座って観戦しているだけでいいのだ。
 そこで大活躍したのが例の三井さんを含む営業部チームである。
 軽い調子でドリブルにパス、シュートを決めていく三井さんはとんでもなく生き生きしており、そんな彼を眺めながら「果たして苗字さんはこの光景をどんな様子で見物しているのだろう」と視線を向けてみる。
 すると、彼女は目の前で行われている試合をほとんど電池が切れたかのような様子でただぼんやりと眺めているだけだった。
 その表情から受け取れる情報はほとんどなくて、一体どういう感情なのだろう、と考えを巡らせているうちに試合は終わり、営業部チームの勝利が決まっていた。

「三井さん、カッコよかったですー!」
「あんな風に軽ーく決めちゃうなんて!」

 試合を終え、タオルで汗を拭う三井さんにわらわらと寄っていく同僚たち。その囲みにさりげなく加わりつつ、彼のことをじっと観察してみる。
 きゃあきゃあと盛り上がる女子たちに囲まれている当人の三井さんは、どこか困ったような表情を浮かべて「あ、ああ、ありがとう……ゴザイマス」とぎこちない。褒められていることには満更でもない様子だが、どこか落ち着かなく視線を走らせている。
 この男、もし苗字さんに変なことでもしようものなら許さねえからな、と心の深い部分で思いつつも、周りに馴染むよう顔面に笑顔を貼り付けている自分は我ながらとんでもなく器用だと思う。
 そんな彼が、その視線をはたと止めた瞬間を私は見逃さなかった。ん? と思ってその先を辿ると、ちょうど苗字さんが体育館を出て行くところだった。

「っと……ワリィ、便所行かせてくれ」

 そう言われては仕方ないと残念そうに道を開ける彼女たちはさておき、私は気づいてしまったその瞬間にどうしようもない高揚感を覚えていた。
 なにそれ、やっぱりそういうことなの!? と目玉をかっぴらいて腕をぶん回したくなる気持ちを必死に抑える。
 苗字さんが出て行った方向へ迷いなく進む彼の姿を眺めながら「やっぱり最高」とつい漏らしてしまった声が、周りには聞かれていないといい。


***


 苗字さんへの書類を預かったのは、社内運動会のほとぼりもほとんど冷めた頃だった。
 そして私はつい先ほど、ランチに向かう多くの人波の中で三井さんと苗字さんが並んで歩いているのを目撃していた。
 相も変わらずちょいちょい二人でランチに向かう様子を見かけては、心の中でニヤニヤと眺めてしまっているが、おそらく誰にもバレていない筈だ。ポーカーフェイス、というか表の表情で自分の内側を隠すことは得意中の得意なのである。眼福です、私の心の栄養です、いつもありがとうございます。
 傍目から見れば本当にただの仲の良い友人同士というか、サッパリした兄妹のような雰囲気にも見えるし、私のように穿った見方をすれば恋人同士のようにも見える。
 とんでもないぐらいビジュアルがバッチリなのに、付き合ってないんだとしたら勿体ない。……と、ここまで一人で悶々と考えながら思った。なんでこんな厄介オタクみたいな己の欲望を、推しとそれに近しい男性に向けてしまっているのか。
 だめだめ、私は苗字さんを眺めているだけで、時々ちょこっと挨拶を交わしたりできるだけで幸せを感じられているんだから。
 そう自分を諌めながら「苗字さん宛て」と書き記した付箋を預けられた書類に貼りつける。これも仕事の内だと、大義名分を謳って苗字さんと会話ができる。今日はなんていい日なのだろう。
 人の行き来が一番多い昼の時間帯、いつもの如く「いってらっしゃいませ」「おかえりなさいませ」を繰り返しているうちに時間は経過していたらしく、帰社してくる人の中に目的の人物がいることに気づく。

「苗字さん! 書類とお名刺預かってますー!」

 些か緊張していたようで、発した声は思いの外上ずってしまっていた。恥ずかしいと思いながらも咄嗟に手を挙げて大きく振ると、三井さんと並んで歩いていた彼女がはたとその足を止め、キョロキョロと辺りを見回した。
 それが受付にいる私から掛けられたものだと気づいた彼女は、私に視線を留めてから、隣を歩いていた三井さんに一礼をする。彼女のその動作は、付き合っている者同士ではないよそよそしさを感じさせる。
 何か言ってからエレベーターホールの方へ向かう三井さんの背中を、しばらく見つめたまま固まってしまっていた苗字さんは、突然ハッとした様子でこちらに向き直り、ぱたぱたと駆け寄って来た。

「さっきお昼行かれるの見えてたので、受付で預かっちゃいました」
「そうだったんですね。助かりました、ありがとう」

 ちいさく首を傾げ、その目を柔らかく細める苗字さん。こんなに近くで会話をするのは、カウンセリングルームで顔合わせのような面談をした日以来だ。

「あの、業務外のことお伺いしてもいいですか?」

 その言葉が自分の口から飛び出したものだと理解するまで、少々時間を要してしまった。ぱちくりとかわいらしく瞬きをした苗字さんがカウンターに身を寄せてくれる。
 推しのプライベートに触れない、覗かない、知ろうとしない。当たり前のことだ。迷惑を掛けない、心穏やかに過ごしてもらうことが幸せ。拝ませてもらえるだけでいい。
 それなのに、知りたいという欲求がいつの間にか天元を突破していたらしい。

「三井さんと苗字さんて、もしかしてお付き合いされてるんですか!?」

 何を聞いてるんだ、私というやつは!
 いや知りたかったけど、それにしたってド直球にも程がある。面と向かって社内恋愛してますか、なんて聞いてくる女はロクなやつじゃないと思われるに決まってる!
 なんてことを聞いてしまったんだろう、制御できる筈の言葉が、当人を目の前にするとこんがらがって絡まってどうしようもなくなってしまう。
 目の前にいる苗字さんは見事に硬直してしまっている。戻せるものなら今すぐ時を戻したい、強く強くそう思った。

「は……?」
「あ、いや違うんです! お二人ともビシッとしてるからめちゃくちゃお似合いだって思ってて」

 この言い方じゃ、思いっきり三井さんのこと狙ってるその他大勢女子のひとりが牽制するために問い質したようなものだ。
 でも、二人が並んでいる姿に栄養をもらっていることも、お似合いだって思っていることも本心である。本人に言うつもりなんて、これっぽっちも無かったけれど。

「……いえ、ただの知り合いです」

 苗字さんは眉尻を下げて苦笑いを浮かべながら、落ちたサイドの毛を耳に掛け直す。
 それが取り繕っているわけでなく事実であることは、彼女の表情から知ることが出来た。隠そうとするならば焦りが見えるだろう。けれど今目の前にいる彼女の顔には、どこか悲しい色が浮かんでいるように見えた。
 そのあと、案の定テンパったままの自分がペラペラと何かを口走るのを俯瞰するように眺めながら、私は心の中で膝を抱えて大反省大会を開催するに至ってしまった。


***


 やらかしてしまった日から何週間か経った今でも、苗字さんを嫌な気持ちにさせてしまったであろう事実にモヤモヤとした自己嫌悪を続ける日々は続いていた。
 悪いことをしてしまったと自覚していても「その節はすみませんでした」と謝ることにより、もう一度想起させて不快感を与えることになってしまうのでは、と二の足を踏んでしまう。
 なんとなく見つけたバーのカウンターで、出してもらったカクテルのグラスを指先で弾きながら、出てきたため息は店内のBGMとして流されているジャスのメロディーに溶け込んで消える。

「名前? うん、アタシはもう着いてるけど」

 そんな声が聞こえたのは、背後のテーブルからだ。アタシ、って言ってたけど、声は男の人のものだった気がする。
 ちらりと視線を向けると、携帯を耳にあてているその人の見てくれはバリキャリという風体の女性である。しかしよく見ると、その肩幅や体格から男性であることがわかった。
 綺麗なひとだなあ、と思って眺めていると、こちらの視線に気づいた彼はにっこりと屈託のない笑顔を向けてくる。
 すみません、の気持ちを込めて頭を下げ、慌てて前に向き直る。ぼんやりしてたからって知らない人に不躾な視線を向けるなんて、申し訳ないことをしてしまった。不愉快にさせてないといいけれど。

「了解、彼が先に来るってことね。……あ、ちょうど着いたみたい」

 それじゃあまたあとでね、と通話の声が途切れる。

「三井さん、こっちこっち!」

 三井さん、というワードに、再び意識が持っていかれる。いや、いやいやいや、ありえない。三井なんて名字、そんなに珍しいものでもないわけだし。

「おう、お疲れ。……と、あん時ぶりだな」

 マジで世話んなった、と続けられた言葉と「やだ頭上げてくださいよ、まあ……それ程でもありますけど」という冗談めかしたセリフ。
 間違いでなければ、というか多分おそらく、いや十中八九、いま私の背後のテーブルに着いたらしい男性の声は私が頭に浮かべた「三井さん」で間違いない。
 ドッドッと大型バイクがエンジンをふかすみたいに、心臓が尋常ではないほど大きく鳴っている。
 ええと、そうだ、後ろで電話してたあの人は電話口で相手の名前を呼んでいたような気がする。なんだったっけ、思い出せない。喉元に魚の骨が刺さったような気持ちのわるい感覚。
 そして、こういう時の「もしかして」という予感は大体当たってしまうものなのだ。

「あの子と一緒に来なかったんですね」
「あー、まあ一応その……社内で色々言われんのもアレだしな」
「確かに、フリしてた頃ならこういう理由でって言えますけどね」
「そういうこと」

 聞いちゃダメ、と思いながらも勝手に意識がそっちへ言ってしまう。
 カウンターに座り、両肘をついてその手のひらを額に当てていると、バーカウンター内のボーイさんから「ご体調優れないようでしたら……」と声が掛けられる。それになんとか笑顔を作り「大丈夫です」と返事をして、軽く手をひらひらさせてみる。

「色々聞きたいことあるんですけど、いいですか? 三井さんの視点から聞きたくて」
「あんま変なこと聞くなよ」
「アタシ、キューピッドなんですけど」
「ぐっ……」

 社内、三井さんの視点、キューピッド。気になるワードがぽんぽん飛び出してくる。今すぐこの場を去るのが正しいことだとわかっているのに、体が全く動かない。背中がなんだがピリピリする。
 私の直感が正しければ、おそらく背後にいる彼は苗字さんの友人で、もう一人は三井さんで。そしてその二人が話している内容は苗字さんについて。
 どうしよう、とんでもない所にとんでもないポジションで立ち会ってしまっている。なんですかこれ、どういうこと?

「アタシ、あの子に言ったんですよ。0時手前から始まるような時間帯の爛れたドラマみたいな展開ねって」
「オレもまさかあんな風に再会すると思ってなかった。……で、今はこんな感じなわけだしな」
「そういえば、こないだここに迎えに来てくれた時ってもう、あの子のこと好きでした?」

 その言葉に間髪入れず、三井さんらしき男性が咳き込む声が続いた。
 っていうか、私まで喉が引き攣って詰まるかと思った。だめだ、供給過多でしにそう。背後にいる仮名キューピッドさんは、私のことを殺そうとしているのではなかろうか。いや、決して責めているわけではないです、寧ろありがとうございます。
 相変わらず高鳴り続ける胸のあたりをぎゅっと押さえていると「……ああ、とっくに好きになってたよ。つーかそうでなきゃわざわざ迎えになんて来ねーし」という控えめな低い声。
 自分の喉の奥から地を這うような悶える悲鳴が漏れそうになるのを必死に堪え、両手で顔を覆っていると、頭頂部に再び感じたボーイさんの視線。
 顔を上げて「大丈夫です」と伝えるためになんとか作ってみせた笑顔は、間違いなく私史上一番不出来なものだっただろう。

「つーかオレはな、電話かけたらおまえが出て息すんの忘れたんだからな!」
「アハハ! 確かに、通話切れちゃったのかと思いました」
「……でも、あん時おまえがオレのこと呼んでくれてなきゃ、多分こうはなってねえから」

 本当に感謝してる、と続けられた三井さんの声はとても真っ直ぐで誠実なものに違いなかった。
 ああ神様、感謝します。私をこの場に立ち会わせてくれてありがとうございます。

「もうご存知かと思いますけど、あの子って人に頼ったり甘えたりするの苦手なんです。でも、三井さんにはそれが出来てるみたいで良かった」

 苗字さんてそうなんですね、すごくかわいいですね、心を許した家猫みたいですね、と心の中でいらない相槌を打ちながら、勝手に緩んでしまいそうな口元にぎゅっと力を入れる。
 たった数分でものの見事にアップデートされていく推しの情報。こんな風に聞き耳を立てているのがよくないことだとわかっていても、万が一にでも三井さんに同じ会社の人間がいると気付かれるわけにはいかないので、動くことが出来ない。

「その……梅村には言っとこうと思ってたんだけどよ」
「はい? なんですか、畏まって」
「一応、あいつ……名前とは将来つーか、そういう方向で考えてるから」

 今、三井さんが発した「名前」という名前はまさしく苗字さんのファーストネームに違いなかった。
 それを呼び捨てで呼んだ彼の声にも大変興奮させていただいたわけですが、それ以上に「将来」とか「そういう方向」という言葉に胸がいっぱいになってしまい、自分の目の奥がじんわりと熱くなっているのを感じていた。
 なんで私が泣きそうになってるんだろう。彼と彼女の記憶にすら残っていないであろう私は、単なる赤の他人なのに。
 いつからかはわからない。私が苗字さんに失礼なことを聞いてしまった時はおそらく、というか十中八九そういう関係じゃなかった筈だ。ということは、二人がそういう感じになったのはつい最近ということになる。

「いいですよ、三井さんなら名前のことあげます」
「任せろ、ぜってえ幸せにする」
「ちょっと、なんでアタシにそれ言うんですか。本人に言ってあげなさい!」

 よく言った三井さん、どうか苗字さんのことをこの世でいちばん幸せにしてあげてください。運動会の時はどんな男だろうと探るような視線を向けてごめんなさい。
 心の中でそんな懺悔をしながら、ぎゅっと両手の指を絡ませる。

「おまたせ!」

 カツン、と鳴ったヒールの音を追うように聞こえてきた声。それは普段聴いているものよりも幾分か軽やかな調子ではあったが、間違いなく苗字さんの声で。
 俄かに緩んでいた気持ちをキュッと締める。

「名前! やっと来たわね、遅い!」
「ごめんね、今思いっきり繁忙期で……! ところで二人でなんの話してたの? 寿さんなんて顔真っ赤だし」

 べつに赤かねえよ、とボソボソごちる三井さんの声が続くと、苗字さんが小さく笑いながら席に着く気配を感じた。

「あのね、三井さんがあんたのことを、」
「オイコラバカ! いきなり本人に言う奴があるかよ!」
「ハァ? キューピッドに対してその口の聞き方は良くないでしょう、全部バラしてもいいんですよ?」
「クソ、そのカードにゃ勝てねえ……!」
「二人とも、いつの間にそんなに仲良くなったの?」

 その人、苗字さんのことすっごい好きって惚気てましたよ! と心の中で盛大に叫びながら、目の前にあるカクテルに視線を向ける。背後で三井さんたちのやりとりが始まってから、頼んだ飲み物のことなどすっかり忘れてしまっていた。

「なんかうれしいな」
「あ? いきなりなんだよ」
「梅ちゃんと寿さんが仲良くなってくれたのも嬉しいし、こうやって寿さんって呼べるようになったのも幸せだなって」

 どこか照れたような声音ではあったが、発した言葉のあまりのかわいらしさに全く関係ない私が思いっきり撃ち抜かれてしまう。私でさえそうなのだから、三井さんの方はたまったもんじゃないだろう。
 彼はしばらく言葉を失ってから「恥ずかしいヤツ」とぼそりと呟き、キューピッドさんが「あ、また赤くなった」と囃し立てる。
 ありがとうございます。私の生きる糧よ、永遠に幸せであれ。心の中で「乾杯」と言いながら、つい先ほどまで忘れてしまっていたカクテルに口をつける。
 あまりにも情緒不安定な私に、怪訝な表情を向けてくるボーイさんの視線を感じる。それに気づいた私が彼に向けた笑顔は、今度こそいつものように完璧なものであったに違いない。


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