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 いつもどおりのアラームが私を眠りの世界から呼び戻す。この音が聞こえてきたということは朝が来たということで、これすなわちまた一日が始まるという合図である。ぼんやりしたままゆっくりとまばたきを繰り返して、視線だけを動かしてみる。
 いつもの自分のベッドの上。ひとつだけ大きく違うことがあるとすれば、それは私の横で寿さんがすやすやと寝こけているということ以外に他ならない。
 知らないホテルのベッドの上で目を覚ましたとある月曜日の朝のこと。素っ裸の寿さんと私は、お互いが前夜の記憶をそっくり失くしてしまっているという異常な奇跡。
 あの時は相当動揺した。自分の人生において一番ってぐらい冷汗をかいていた気がする。そして、始まる筈もなかった関係が奇妙な縁で紡がれて、今こうしてたどり着いた。
 昨日のことを思い出しながら、ついつい自分の口元が緩んでしまうのを感じていた。私の体の上に乗っかっている寿さんの腕は重たいけれど、その重みすらしあわせで、現実であるということについつい目尻が下がってしまう。
 無遠慮にじーっと見つめていても寿さんが目を覚ます様子は無く、これはいい機会だとその様子をじっくり観察してみることにした。
 短めの黒髪と、意志の強さを示すような太い眉毛。剥き出しの肩はすごくガッチリしていて、二の腕なんかも逞しい。そう、最初に彼の寝顔を見たあの時も同じような事を思っていたような気がする。
 思いのほか静かに寝息を立てている寿さんは、口を半開きにして無防備にぐっすりと寝入っている。その表情に緊張感なんて全く感じられず、リラックスして眠ってくれてるならよかったと安心する。

「寿さん、大好きです」

 もうこの気持ちや言葉を抑えなくてもいいんだということがどうしようもなくうれしくて、ついつい口に出してしまう。だいすき、と小さい声で繰り返しながら、彼の胸に頬を寄せる。 
 散々愛し合って、へとへとになって意識が遠ざかってしまう前、無意識のうちに「今度はこの記憶を忘れてしまいませんように」と願っていた。そして目が覚めた今、この人がここで眠っている理由も、それまでの過程も、今度はちゃんと覚えている。ジタバタと暴れてしまいそうになるのを必死に堪えながら、至近距離でもう一度寿さんの顔を観察して、その口の端にキスをする。

「……っだあ! おまえは朝からなんなんだよ!」
「うぎゃあ!」

 瞬間、私は唐突に起き上がった寿さんに両手首を引っ掴まれ、ベッドを背にして押し付けられてしまっていた。いきなりの出来事に驚きすぎて心臓が早鐘を打つようにバクバクしているし、色気もへったくれもない叫び声を上げてしまった。
 っていうか、そんなことよりこの人、もしかしてとっくに起きてたの?

「起きてたんですか……?」
「ペタペタ触られたり擦り寄られたり、耳元で好き好き言われたり、挙句の果てにキスされたらそら起きるわ! まあ最初から起きてたけどな! 悪いかよ!?」

 早口で一気に捲し立てた寿さんの迫力に呆気にとられ、ぽかんとしてしまっている私をじーっと見つめながら、彼は「勘弁してくれよ」と小さい声でひとりごとみたいに呟いた。
 朝から素っ裸ですったもんだしているのはいい歳した男女ふたり。まるで大学生のようなやりとりに、甘酸っぱいようなむずがゆい気持ちになった。
 私を拘束している力が緩んだ隙を見て抜け出し、体を起こしてぎゅう、と抱きつく。ひんやりした部屋の中でも彼の体温はぽかぽかと暖かくて、まるで人間ホッカイロのようだ。寿さんはほんの少し狼狽えながらも、小さい子をあやすみたいに私の頭を撫でてくれた。

「……なんつーかその、あんまり素っ裸で引っ付かれてると困るといいますか」

 そう言った彼を見上げると「さっきも散々くっつかれてたしよ」とかモゴモゴしながら居心地悪そうに顎の古傷をなぞっている。なんのことだろう、と思いながら首を傾げると、私はようやく自分の太もものあたりに感じる違和感に気づいた。

「あー、な、なるほどぉ……」

 すみません、と言いながら寿さんから離れ、急に顔を覗かせはじめた羞恥心に負けてほっぽっていた布団で体を隠す。まあ、こんなことしたってもう今更遅いんだけど。

「あの、それ大丈夫なんですか?」
「んー、まあ……ほっときゃおさまる」

 昨晩、気の済むまで体を重ねた私たちは、そのまま泥のように眠ってしまっていた。つまり、お互い生まれたままの姿である。
 寿さんが背中を向けて放り投げたままだった下着やらを拾い始めたのをぼんやりと眺めていたら、私は急に背中が冷えていくのを感じた。それは朝の空気のせいではない。
 この人と知り合ったばかりの頃、親に結婚を急かされていることをうっかり話してしまっていた。お互いの気持ちは伝え合ったけれど、もしかしたら気持ちが盛り上がってしまっただけだったのかもしれない。
 結婚が絡むと、途端に男性は女性が面倒くさくなるっていうし、今のうちに自分から「気にしないでください」と切り出しておくべきだろうか。いや、寧ろ何も言わないでなあなあにしておく方がいいのかもしれない。

「あのよ」

 私が素っ裸に布団を巻き付けたままの姿でそんな思考を巡らせていたとき、突然耳に入ってきた寿さんの声にふと顔を上げる。
 下着だけを履いた状態の寿さんは、私の方へ体ごと真っすぐ向けている。

「昨日は流れで告っちまってそのままがっついちまったけど、責任は取るし、そんなんが無くてもオレはそのつもりでいるからな」

 その言葉の意味がわからず、思わず軽く首を傾げる。たしかそんなセリフ、この人と同じホテルで目を覚ましたあの朝も言われたような気がする。
 あの時と変わらない、目の前にいる寿さんの視線はどこまでも真っすぐで、決して揺らぐことがない。そうだ、だからこの人のこと、最初も「悪い人じゃないのかも」って思ったのだ。

「ええと、そのつもりとは……?」

 真正面から向き合っているくせに、そこだけ濁されてしまった言葉の意味を問うと、寿さんは見る見るうちに眉根を寄せ、口をモゴモゴさせ始めた。

「だァから! オレが、ヨ、ヨメにもらってやるって意味だよ!」

 なんか文句あっか! と続けて啖呵を切った寿さんはおでこからほっぺから、なんなら耳まで茹でダコのようにしっかりと真っ赤になっていた。
 ヨメって、嫁って、そういうこと?
 その人の表情を見ていたら、まるでそれが伝染してきたかのように私の顔面までもが熱を帯び始めたのを感じる。そのうれしさとか幸福感なんかを自分の体だけでは受け止めきれなくて、喉の奥から漏れ出てきてしまいそうな声を必死に押し殺す。
 そこで思った。責任感が強くて何でもかんでも首を突っ込んじゃうお節介なこの人のことだから、やっぱりあの時の私の言葉を気にしていたんだって。

「……責任とか、そういうの感じなくていいです。私、ほんとは家族に結婚急かされてる話を寿さんにしちゃったの後悔してて」

 一緒に居られるだけでうれしい。お互いに同じ気持ちだとわかって、それを伝えあって幸せな時間を共有できた。それだけでもう、私にとっては充分すぎる。その言葉を聞いて私の顔をじっと見据えていた寿さんの視線が、いつの間にか訝し気なものに変わっていた。

「名前、おまえオレの歳知ってるか?」
「私の三つ上ですよね」

 最初に面談したあの時、提出されていた書類にそう書かれていた。寿さんは腕を組んで大きくひとつ頷くと「あのな」と言葉を続ける。

「オレだって親からまだかってせっつかれまくってんの! つーか、その気がなきゃこの歳で誰かとわざわざ付き合おうなんて思わねーよ」

 そう続けた寿さんは、落ち着かない様子で顎の傷跡をさすっている。
 それは今すぐじゃなくていいし、お互いに時間も準備もあるし、いろいろと間に合っていないことだってある。だけど、いずれこの人とそうなることが出来るなら。
 だめだ、泣きそう。なんとかそれを堪えたくて、また「おまえ、意外と泣き虫だな」って言われてしまうのが悔しくて、ぐっと唇を噛みしめながら体に巻きつけた布団を抑えたまま寿さんににじり寄る。
 そんな私の表情と謎の行動に首を傾げている寿さんに、飛び込むみたいに抱きついた。ぎゅう、と回した腕に力を籠めると「おい、痛えよ」とほんの少し呆れた調子の声が上から降ってくる。

「うれしくて、こんなことあっていいのかなって思っちゃって」
「オレはそれ、昨日何回も思ってたぞ。なんなら、今朝起きておまえに擦り寄られてる時も思ってたっつーの」

 寿さんの大きな手のひらに頭を撫でられていると、どうしようもなく離れがたくなってしまう。ずっとこうしていられたらいいのに。でも、これからは変なしがらみもなく一緒に居られるんだ。そう思ったら嬉しくて、堪え切れずにその胸板に顔を擦りつけたら「猫みてえだな」と笑われてしまった。
 ピピピピピ、とアラームの音が聞こえてきたのはそんな時だった。そういえば、さっき私が目を覚ましたのもその音だった。アラームが、鳴っている?
 すっと寿さんから離れ、お互いにぱちくりと瞬きをしながら視線を交わす。

「昨日って確か月曜だよな……?」
「ってことは今日は火曜日ですね」

 この状況を確認するかのように言葉を交わしたら、サァーと血の気が引いていく。私たちがベッドから飛び降りたのはほぼ同時だった。
 そうだ、まだ平日。しかも火曜日。なんでこんなまったりしてしまっていたんだろう。昨日のあれそれで脳みそが全部溶けてなくなってしまったんじゃないか、なんてあり得ないことを本気で思う。慌ててクローゼットの中のカラーボックスから下着を引っ張り出しながら、ドタバタと洋服をかき集めている寿さんを見遣る。

「あ、シャワー浴びていきます!?」
「いや、急いで帰ってうちで済ませる! 着替えしねーと出社できねえ!」

 投げ出していたビジネスバッグを引っ掴んだ寿さんが、まだ下着しか身に着けていない私の頭をガッと掴み、いささか強引にその唇を重ねてくる。
 突然すぎるその行動に、目を開けたまま頭の上にびっくりマークを一気に五つぐらい出現させた。私がそれをキスであると認知したのは、その唇が離されてからだった。

「じゃあまたあとで! 連絡する!」

 そう言いながら部屋を出ていこうとする彼の姿に視線をやってから「寿さん、ちょっと待って!」と慌てて声を掛ける。

「だーもう、なんだよ!」
「ズボン履き忘れてます!」

 シャツにネクタイ、スーツを羽織って靴下まで履いたその人の下半身はボクサーパンツのまま。私の足元にあったベルトが付いたままの彼のスラックスを拾って見せると、寿さんは力が抜けたように顔面を手で覆いながら「ありえねえ……」と項垂れてしまった。
 私は、この人のこんなところも大好きだったりするのだ。


***


 急いでスラックスを履いた寿さんが今度こそ私の家を飛び出して行ってから、私も急いでシャワーを浴び、化粧をし、なんとか身支度を整えて普段より少しだけ遅い電車に乗った。私は大丈夫そうだけど、寿さんは間に合ったのだろうか。
 こうして電車に揺られていると、昨日の一連の出来事がまるで夢の中のようだ。昨日の朝はもうこの関係を解消しようと思っていたのに、まさかあんなことになるなんて。
 思い出したらついつい口元が緩んでしまいそうで、ジワジワと恥ずかしくなってきて、つい片手を頬に当てながら「落ち着け、落ち着け」と心の中で念じてしまう。
 悶々としていたらあっという間に職場の最寄り駅に到着していて、人の流れに乗るように電車を降りた。どうしよう、うれしいことがあったって思いっきり顔に出ちゃってるかもしれない。っていうか、絶対出ちゃってる。
 まるで初めて彼氏ができた中学生みたいじゃないか、浮かれすぎにも程がある。もう会社に着くんだからちゃんとしなきゃ。自分で自分に喝を入れながらビルのエントランスを潜る。

「おはようございます」

 朝からしっかり仕事モードな受付嬢たちのさわやか且つ軽やかな声を聞きながら、それに小さく会釈をする。少しだけ気持ちの引き締まる思いがして、エレベーターの列に並びながら小さくこぶしを握り締める。
 エレベーターの扉が開き、目の前の人の背中に続いて奥に入って向き直る。乗車定員ギリギリまで人が詰め込まれるのでなかなかに窮屈だけれど、この間のように階段を登っていくよりかは何倍もマシだ。
 エレベーターの向かって左隅に立っていた私の左肩に、トンと人の腕がぶつかった。思わずすみません、と顔を上げて確認をすると、なんとそこに立っていたのは寿さんで、思わず声を上げそうになってしまった。
 寿さんは口パクで「ちゃんと間に合ったぞ」と言いながら、得意げな表情で小さくピースして見せる。そんな子どもみたいな表情と行動がおかしくて、そしてかわいらしくて、つい笑ってしまいそうになるのを堪えるのは大変だった。
 こんなことでいちいちこの人のことが好きだなって思っちゃうなんて悔しいけれど、だけどそれ以上に幸せで、そんな些細なやり取りだけで幸せに満たされてしまう。
 自席のあるフロアでエレベーターを降りる。振り向いて手を振りたい気持ちを抑え、手に持った社員証をカードリーダーに翳す。

「おはよう、名前ちゃん!」

 そう声を掛けてきたのはサチ子さんだった。
 おはようございます、と返事をすると、どうやら給湯室に向かう途中だったらしい彼女が「あら?」と言いながら私の顔を覗き込んでくる。
「今日はなんだかお顔が晴れやかね。もしかして、何かいいことあったのかしら?」
 やっぱり顔に出てしまっていたらしい。ほんの少し恥ずかしかったけれど、こればっかりはもう仕方ない。今日だけは浮かれてしまっていても罰は当たらないはずだ。
 ついつい上がってしまう口角の事なんか気にせずに、こくんと頷いてから「ちょっとドラマみたいなことが起こっちゃって」と返事をした。


(end.)


...Thank you for a lot of love.
And, thanks a lot to all of you.


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