▽ 番外編。拍手お礼に置いてた話。
※ 最終話より少しあとぐらい。

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 練習場所であるアリーナの駐車場に見慣れた軽自動車が駐車しているのが見えた。遠目から様子を伺いつつ近寄っていくと、運転席に人影が見える。
 あ、やっぱりそうだ。遠征している時でなきゃいつだってすぐ会える距離に住んでいるけれど、名前さんの姿を見かけるだけで嬉しくて、ついつい自分の口角が上がってしまうのはもう仕方ないことだということにしてほしい。
 まるで飼い主を見つけた犬のような自分の様子にほんの少しだけ気恥ずかしくなりながら、運転席の窓ガラスを控えめにコンコンと叩いてみる。
 下を向いて小さめのパソコンに何がしかを打ち込んでいたらしい名前さんはぱっと顔を上げ、オレの顔を確認するとほっとしたように目を細めて柔らかく笑んだ。開けていたパソコンを閉じて仕事用のカバンに押し込むと、車のドアを開けて「よいしょ」と運転席から出てくる。

「今日うちの練習観に来る日だったんですね」

 そう声を掛けると、名前さんは車にロックを掛けながら「本当は相田くんだったんだけど、今日はピンチヒッターです」と言った。
 シーズンが始まってしまうと仕方ないのだが、遠征が重なるとこうして顔を合わせるのが久々になってしまうことは多々とある。たしか今日は一週間ぶりだけど、これはまだ短い方である。昨日遠征先から戻ったが、自宅へと帰宅したのはかなり遅い時間だったので名前さんの部屋を訪れるのは控えておいたのだ。

「遠征先とかでちゃんと眠れてますか?」

 昨日帰ってきたばっかりでしょ、と心配そうにこちらを覗き込んでくる名前さんに「でもオレ、結構どこでも寝れちゃうタイプだから」と返す。
 遠征だと、大体バス移動からのホテル泊である。彰くん寝付きいいもんね、と小さく笑う名前さんの表情を眺めていると、ほんの少しだけ感じていた回復しきれていない疲労感が溶かされていくような気がする。オレって結構単純だ。
 今この場所がアリーナの駐車場なんかじゃなく、どちらかの部屋だったならどんなに良かったことだろう。
 今すぐ抱きしめたら、この人はきっと「もう、苦しいよ」なんて咎めるようなセリフを口にしながらも、よしよしとオレの背中を撫でてくれるに違いない。
 その体を抱きしめながら、華奢な首筋に顔を埋めて深呼吸。そうしたらきっと感じていた疲労感なんて一瞬で消え失せて、一気にオレの体力ゲージをフルチャージしてくれるに違いない。
 そんなことを考えていたオレは、どうやら名前さんをじーっと見つめたまま停止してしまっていたらしい。こちらに向かって訝しげな視線を向けながら、彼女は「彰くん、大丈夫?」と首を傾げた。

「いや、ここが家の中だったらぎゅってしたりイチャイチャしたり出来んのになあって思って」

 それを聞いた名前さんは驚いた様子でぱちくりと瞬きを繰り返したのち、ほんの少し頬を染めて「もう、何言ってるんですか」と視線を逸らしてしまった。

「……あ、待った。名前さん、まぶたにまつげ付いてる。ちょっと目閉じて」

 目に入っちゃったら痛いよ、と続けると、名前さんは「え、本当? じゃあお願いします」と少しだけ顎を上げて無防備に目を閉じた。なんて警戒心が薄いのだろう。他のヤツにまでこんな調子だとしたらやっぱりちょっと困るなあ、と一抹の不安を覚えながら、自分よりも遥かに低い位置にある彼女と目線を合わせるように腰を屈める。
 ごめんなさい、まつげなんかついてないです、と心の中で手を合わせて頭を下げる。
 見た目よりも柔らかいその頬にそっと触れ、腰をかがめながらほんのり色づいた桜色の唇に小さくキスを落とした。
 ん? と言いながら、ぎゅっと眉間に皺を寄せた名前さんがゆっくりとその目を開ける。目の前にあるオレの顔をじっと見つめたのち、おずおずと自分の唇に触れた。ハッとした表情の彼女が今自分に何が起こったのか気付くまで、たっぷり何秒必要だったのだろう。

「あ……あの、彰くん、いま」
「ごめん、チューしちゃった」

 途端に瞬間湯沸かし器もびっくりなスピードで顔を真っ赤にした名前さんが「だからここ練習場なんですけど!」と驚きと動揺とほんのちょっとの怒りを交えた声で早口にオレを咎めたが、そんな様子さえかわいらしくてついついニヤニヤしてしまう。

「もう! 何笑ってるの!」
「いや、ホントこの人は隙だらけで困ったもんだなあと思って」
「な、不意打ちされて困ってるのは私ですけど!」
「オレの前だけにしてくださいね、そういうの」

 そんなオレの言葉を無視した名前さんは、あたりをキョロキョロと見回しながら周りに人が居なかったか、そして目撃されてはいないかの確認に余念が無い様子だ。

「ね、このあとの練習も今週の試合もめっちゃ頑張るんで、ちょっとだけぎゅーっとさせてくれません?」
「……それ、帰ってからじゃダメ?」
「うん、今じゃなきゃダメ」

 こう言ってしまえばこの人が拒否しないということをオレはよーく知っている。
 顔合わせるの一週間以上ぶりですよ、と最後の一押し。すると、名前さんはあからさまに解せないという表情を浮かべながらムスッとしていたが、小さくひとつ息を吐いて控えめに「おいで」をするように両手を広げた。
 こういう、なんやかんやで押しに弱くてオレに対して無自覚に甘いところ、めちゃくちゃかわいくてすげー好きだなって改めて思う。
 抱きすくめるとすっぽり覆えてしまうほど小さな体なのに、どうしてこんなにも落ち着くのだろう。ちょっぴり力を入れてみたら「くるしい!」と名前さんの手のひらがオレの背中を軽めに叩く。

「はー、いいにおい。やわらかい。このまま寝たい」
「何言ってるんですか、これから練習でしょ」
「それ、帰ってからならいいってこと?」

 そう問うと、名前さんは視線を横に泳がせながらモゴモゴと「……私は人目がないところなら構わないって思ってますし」と恥ずかしそうに言った。

「ご褒美あると思うとすげー頑張れちゃうな」

 そう言ったら、まだほんの少し頬を染めたまま、照れたような表情で眉尻を下げた名前さんが困ったように笑った。


***


 どうもこんにちは。オレの名前は……まあそんなのはいいか、いいよな。一応プロバスケットリーグでプロ選手やってます。試合の時は名前付きの横断幕貼られたりもしてます。スタメンからはちょい離れ気味だけど、折れずに日々頑張っています。ちなみに去年のチーム成績は創設後初のリーグ優勝、すごいよね。っつっても、その功績のほとんどは若手ツートップの二人が成し遂げたところがある感じなんだけど。
 いるんだよな、ツラ良し、バスケセンス良しみたいなヤツ。まあひとりはコミュニケーション能力がちょっと欠けてて何考えてるのかよくわからんヤツで、もうひとりはゆるくて飄々としてるけど気のいいヤツなんだけどさ。
 それはさておき、遠征疲れの体は一週間ぶりに帰ってきた自宅でたった半日寝こけたぐらいじゃあまり回復していない。しかし、今はリーグ期間中である。プロである以上そんな弱音を吐いてちゃいられない。自分で言うのも何だが、自分は割とその場その場の適応力なんかがある方だし、どんな人間とも上手くやれる方だと思っている。が、絶妙にナイーブらしくどうしても遠征先の枕とかベッドで安眠できないのだ。実はそんな悩みがあったりします、秘密だぞ。こないだどっかの雑誌のインタビューで言っちゃった気もするけど、まあいいか。
 そう、雑誌だ。割と男ばかりのライターや編集者、カメラマンばかりのこの界隈で、一年半前ぐらいに現れた彼女、もとい苗字さんはまるでマドンナで、突如出現したオアシスのようだった。
 週刊バスケットボール編集部の彼女は、それこそ最初の頃は借りてきた猫のように縮こまって練習やらを見学していたが、いつの間に「週バスのライター歴長いです」みたいな雰囲気を出し始めて、あっという間に馴染んでしまっていた。
 溌剌としてて、笑顔がかわいくて、しゃんとしてるのにちょっとだけ隙がある感じ。いいなあ、と思う男どもはうちのチームだけじゃなく、それこそそこかしこにいるに違いなかった。
 で、話を戻そう。なぜ今そんな話をオレがしているのか、ということだ。
 練習場所であるアリーナの駐車場に自家用車を停めた時、少し離れた前方に見慣れた軽自動車が停まっているのが見えた。週バス編集部の誰かがいつも乗っている社用車だ。
 その運転席の脇に立っているのはチームメイトの仙道だった。去年デビューしたばかりなのに、その卓越したバスケセンスと状況判断能力であっという間に主力となり、瞬く間にチームを上へ上へと押し上げてしまった。つまるところ、昨シーズンの功労者のひとりは間違いなくこいつだと言っていい。
 そんな仙道が腰を屈めながら運転席の窓をコンコンと叩くと、中からにこやかな表情で苗字さんが出てくるのが見えた。うん、今日もかわいらしいことで。
 そんなことを考えながらぼーっとその様子を眺める。確か、仙道と苗字さんはたまたま住んでいるマンションが同じだとかいう話だった筈だ。
 なんとなく出るに出られず、車の中で体を縮こめながら気配を消す事に躍起になっている自分のことが不思議だったけれど、今となってはそうしておいてよかったと心底思う。
 苗字さんが仙道へと向ける表情が、いつも見ているものとは明らかに違うのだ。なんというかありのままで、何も纏わない素の表情。そんな気がした。え? いや、まさか、そういうことなんですか?
 二人のキスシーンを目撃してしまったのは、その関係性を察してしまった直後だった。
 どうやらそのキスは仙道からの不意打ちだったらしい。しばらく硬直していた苗字さんが慌てたようにあたりを見回し始めたので思わず頭を低くしてしまった。いや、いやいやいやいや! ていうか仙道! なにやってんだアイツ!
 仙道はそのあと彼女の体をすっぽり覆うハグをしたのち、いつもの如くヘラヘラとした笑みを浮かべていた。ただ、あからさまにその笑顔にはたっぷりの幸福成分が含まれていたが。
 一部始終を目撃してしまった。オレはなにひとつ悪いことなんかしていない筈なのに、胸の奥から沸いてきた罪悪感がひどく己を責め立てて来る。いや、やっぱりオレ悪くないよ、仙道が悪い。つーかあの二人ってそうだったのかよ。
 そういえば、いつだったか苗字さんの左手薬指に嵌められた指輪のことが一時期話題になった。それは確か去年のリーグ戦が終わり、休養期間を経て新シーズンへ向けての練習が始まる頃だったと思う。
 つーことはあれ、そういうことだったのか。あの野郎、しらばっくれやがって。
 まだ練習前だってのに押し寄せてくる疲労感。どう考えても見てはいけないものを見てしまった。しかし、誰かに話すようなことでもない。このことはまだしばらくオレの心の奥に秘めておくしかなさそうだ。
 そんな事を考えながらようやく体を起こし、助手席に置いてある練習用のボストンバッグを引っ掴む。
 フロントガラス越しにバチン、と視線が合ったのはそんな時だった。背を向けている苗字さんの横に立っている仙道が「ありゃ、見られちゃってたか」みたいな表情でこちらに向かってペコリと小さく頭を下げていた。
 さも「たった今存在に気づきました」みたいな感じを出しているが、あいつのことだからもしかしたら最初から気がついていたのかも知れない。
 あの野郎、あとで問い詰めてやるからな!

(20220305)



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