1.

 仕事から帰ってきて、手を洗ってうがいをして、羽織っていた薄手のカーディガンを脱いで、それをハンガーに掛けてからテレビをつける。ここまでが帰宅後一連の流れである。
 無音の部屋というのがどうしても落ち着かなくて苦手だ。特に見たい番組があるわけではないけれど、人の声がするとホッとする。ニュースとかくだらないバラエティ番組とか、そういうのだとなお良い。
 時刻は既に二十二時過ぎ。本当はそのままソファーに倒れこみたいところだけど、そうしてしまうともうそこから動けなくなってしまうということを私はよくわかっている。とりあえず、ほっと一息つくのはやることを済ませてからにしなくちゃ。
 冷蔵庫から作り置きにしていた残り物のおかずを取り出して、タッパーごとレンジにかける。その間に、朝ベランダに干しておいた洗濯物を取り込もうとベランダに出る。窓を開けると、入ってきた湿度の高いムッとした空気に思わず顔をしかめてしまった。
 住んでいるのはマンションの八階。駅から七、八分ほど歩く場所にあるけれど、この辺りは治安が良くて気に入っている。
 ピンチハンガーに干されたタオルやらを外して腕に抱え込んでいく。しかし、あっと思う間にそれは起こった。
 ちょうど掴んだばかりの下着が風に運ばれはらはらと落ちていく様子が目の前をスローモーションで流れていく。私はその様子をぼーっと見送ってから約三秒後、ようやくその事象を認識するに至ったのである。
 目の前に高い建物はないし大丈夫でしょ、なんてそんな軽い気持ちで外に下着を干していた自分の横っ面を引っ叩きたい。こういうガサツで迂闊なことをしているからパンツを落とすなんて間抜けなことをやらかしたんだ!
 そんな後悔で脳みそをいっぱいにしながら、私はおずおずとベランダの向こうに身を乗り出して目を凝らす。どこまで飛ばされていったんだろう、そのまま落ちていったように見えたんだけど。
 洗濯したとはいえ、成人女子が使用しているパンツを落としたという事実に冷汗が止まらない。なんとしてでも見つけないと。お腹も空いたし、さっさとお風呂に入って寝たかったのに。
 それでもすべては自業自得、もう外になんか下着を干すような迂闊なことは致しません、ちゃんと中に干します、と心の中で大反省して、涙目になりながらもう一度下の道に目を凝らす。
 と、そこで気が付いた。道ではなく、真下の部屋のベランダの柵に引っかかっているもの。それはまさしく今さっき私の手を離れて行った下着ではないか?

「あ、あった……!」

 所在がわかってホッとしたせいか、思わず声に出してしまっていた。
 しかし、どうあがいても階下の部屋の住民に「私のパンツがあなたの部屋のベランダの柵に引っかかっているので取って頂いてもよろしいですか?」という間抜けで恥ずかしすぎるお願いをしにいくことを避ける術はおそらくない。
 うう、と泣き声にも似た呻きが喉の奥から湧いてきたけれど、ひとつだけ救われる事がある。
 私の部屋の階下に住む住民は、確か私と同い年ぐらいの女性だったはずだ。少し前にエントランスのポストで顔を合わせたことがあったし、挨拶をしたこともあるので間違いない。よかった、本当によかった、まさに九死に一生を得たという気持ちである。
 そうなれば、あとは急いで行動を起こすのみ。インターホンを押し、自分の部屋番号と名を名乗ってから、恥を捨てて呪文みたいに「夜分遅くに申し訳ありません、そちらのベランダに私の下着が落ちてしまいまして」と伝える。その時にちゃんと洗濯済みであることを伝え忘れないようにしなくちゃ。
 脱いだばかりのパンプスをもう一度履き直し、ぱたぱたと玄関を出て念のため鍵をかける。階段を一段ずつ下りながら、何度も脳内でインターホンをプッシュからの挨拶の流れを繰り返す。最後の二段を飛び降りて「よーし!」と自分で自分に気合を入れた。
 大丈夫、干してた洗濯物が下の部屋のベランダに落ちちゃったってよく聞く話だし、それが今回はたまたま下着だっただけだ。それに女同士だし大丈夫大丈夫。うん、大丈夫。
 何度も大丈夫という言葉を繰り返しながら、深く息を吐いて吸い込む。その部屋の前まで辿り着くと、私は意を決してインターホンを押した。
 緊張のせいか、私は向こうが「はい」と対応してくれるのとほぼ同時に「あ、あの、夜分遅くにすみません、わたくし上の階に住んでおります苗字と言う者なのですが!」と素っ頓狂な声を発してしまっていた。
 ああもう、こういう時は先に相手の言葉を待つべきなのに。なにをやってるんだろう、と変な汗が出てくる。

「……はい? ああ、ちょっと待っててくださいね」

 インターホンから聞こえてきたその声に「すみません」と返事をしながら、ドキドキと鳴る胸の前でぎゅっと両手を握りしめる。
 そして、出て来るであろうその部屋の住人を待ちながら、私は自分の眉根に段々とシワが寄っていくのを感じていた。だって今「ちょっと待っててくださいね」と言った声がどう聞いても女性の声ではなかったからだ。
 急に頭が混乱してきた。同棲してるのかな、っていうかご夫婦だったのかな。そういうことも考えられたのに、全然想像してなかった。どうしよう、彼女さんでも奥さんでもいいから女性の方に対応してもらえますように!
 そんなことを念じていたら、目の前の扉がガチャリと開いて「こんばんは、えーと」と顔を出したのは見上げるほど背の高い男性だった。シャワーを浴びた直後なのか、長めの前髪が濡れており、肩にはタオルが掛かっている。

「でっか!」

 私とは頭ひとつ分以上背丈の違う彼を文字通り見上げながら、思わずそう口走ってしまっていた。はっとして「ごめんなさい不躾に! 大変背がお高いんですね!」とフォローになっているのかいないのかよくわからない言葉を述べながらぺこぺこと頭を下げたら、その上から「アハハ、よく言われます」と穏やかなトーンの声が降ってきた。
 おずおずと顔を上げてみると、声と同じく穏やかな表情をしたその背の高い男性は口元に笑みを浮かべていた。少し首を傾げ、どうやら私の言葉を待っている様だ。
 ていうかこの人、よく見たらめちゃくちゃ顔が整っている。やさしげな声に温和そうな雰囲気。それにこれだけ高身長なのに威圧感が全くない。

「す、すみません! わたくし上の部屋に住んでおります、苗字と申します。ええと……彼氏さんとかですか? 旦那さんかな? ここの部屋、確か女性が住んでいらっしゃったと記憶しているんですけど……」

 彼は何かを考えるように「うーん」と言いながら斜め上に視線を向けて「オレ、先週ここに引っ越してきたばっかりで、なので前の人のことはちょっとわかんないんですよね」と続けた。
 ちょっと待って、落ち着くのよ名前、とりあえず事実を整理しなくちゃ。
 わかったことはふたつ。少し前に顔を合わせた女性は既にこの部屋に住んでいないということ。いま現在はこのやたら高身長でやたら顔が良い目の前にいる男性がこの部屋の住民であるということ。そして、変わらないことはこの部屋のベランダの柵に私の下着が引っかかっているという事実である。

「えっと……名前、苗字さんでしたっけ? 何かあったんですか?」

 そいえばオレ名乗ってなかったなあ、仙道です、と相変わらずのほほんとした雰囲気で柔らかく笑う彼、もとい仙道さんの顔を凝視しつつ、私はこの後の言葉を発するべきか否か悩んでいた。
 選択肢はふたつ。
 選択肢その一、下着を諦める。
 選択肢その二、正直に話して取ってもらう。
 その一を選んだとしたら「管理人さんから引っ越してこられたと聞いていたのでご挨拶に来ました」という事にしてしまうしかない。だけど、そのあとで仙道さんがベランダに出て私の下着を見つけて「もしかして」とピンと来てしまう可能性がある。
 その二を選べば恥ずかしさでしにそうになるし、仙道さんにも変なものを手に取らせてしまうという申し訳なさすぎることになる。
 もちろん、選択肢その二を選ばなくてはいけないということはちゃんとわかっていた。だって、それがこの部屋のインターホンを押した理由なのだから。

「じ、実はですね」
「うん」

 意を決して切り出すと、仙道さんはわざわざその背をかがめてこちらの話を傾聴する姿勢を取ってくれた。
 この人、たぶんものすごくいい人だ。信号渡れないお年寄りとか、道に迷ったお年寄りとか、重い荷物を運んでるお年寄りとか助けてあげるタイプだろうし、公園のベンチで三時間ぐらい世間話を聞かされたとしてもしんどいとか全く思わないタイプの人だ。

「干してた洗濯物、取り込んでたらそちらのベランダに落としちゃいまして」
「えっ、なんだそんなこと? いま取ってきますよ、ちょっとここで待っててもらえれば」
「あ、ち、ちがうの! ちょっと待って! まだその、続きがあるんです!」

 朗らかに笑いながら部屋に戻ろうとした仙道さんの言葉を遮ると、彼はきょとんとした表情でまた首を傾げた。
 この人、こんなに背が高くて男らしい体つきなのに女の子みたいな柔らかい動作をするなあ、なんてぼんやり思いながらも、私はとうとうこの言葉を口に出さなくてはいけない状況になってしまったのである。

「……下着なんです」
「へ?」
「パンツなの! 落としちゃったの私のパンツなんです!」

 廊下に「私のパンツなんです!」というトンチキなセリフが、それと相反して切実な声が反響する。三秒ほどの静寂のあと、それを破ったのは噴き出すように笑った仙道さんの声だった。

「な、わ、笑わないでください! 私がこの言葉を発するのにどれだけ勇気を振り絞ったか」
「ぶっ、ふふ、す、すんません、わかってんだけど、そっかなるほど」
「……取り乱してごめんなさい、自分が悪いってちゃんとわかってるんです。女が下着を外に干すなんてバカで迂闊なことしたからこんなことが起こったの」
「いや、こちらこそすみません、つい笑っちゃって。でも確かに気を付けたほうがいいですよ、下に住んでんのオレみたいなヤツだし」

 仙道さんの言葉の意味がわからず、今度は私が頭の上にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げる番だった。
 しばらく「うーん」と顎に手をあてて考えるような仕草をしていた仙道さんが「あ、いいこと思いついた」と何かをひらめいたように顔をぱあっと明るくしたので、私は目を細めて彼の言葉を待つ。

「オレ、ここにいるんで苗字さんが自分で取ってきたらいいですよ」

 だって知らない男がいる部屋に入ってふたりっきりとかイヤだろうし、ここで待っててもらってオレが取りにいってそれ触られんのもイヤでしょ、と仙道さんは続ける。

「あの、でも仙道さんこそ知らない人間をお部屋にいれるとかイヤじゃないですか? 私、大ウソついてる泥棒かもしれないですよ?」
「わかった、じゃあその取ってきたパンツ、ちゃんと見せてもらえれば証拠になります」
「……は?」
「ウソですスミマセン調子乗りました。でも、そんだけ切羽詰まった顔して真っ赤になってる人がウソついてると思えねえし」

 全然構わないんでどーぞ、と仙道さんは招き入れるように玄関の扉を広く開けてくれた。そして「オレは外にいるんで」と続ける。
 もし私が本当に泥棒だったりしたらどうするつもりなのだろう。初対面の相手を自分のテリトリーに入れてしまっていいのだろうかと思いつつも、ここはありがたく彼の厚意に甘えさせてもらうことにする。
 間取りは私の部屋と同じである。玄関のすぐ横がトイレ、その奥が洗面所とお風呂。脱衣所と対面するようにひとつ部屋があって、廊下の奥にリビングとベランダがある。玄関にはいくつかのダンボールが積まれていたが、何故かバスケットボールだけがダンボールから出され、その場に転がっていた。
 進んだ先のリビングにもダンボールが置かれている様子から、本当に引っ越して来たばかりなのだということがわかる。
 って、人の部屋をまじまじと観察している場合じゃないのに!
 まだラグも敷かれていない殺風景なリビングを突っ切り、ベランダの引き戸を開ける。玄関からもってきた靴を履いてベランダへ出ると、その手すりの上には求めていた下着が堂々と鎮座していた。
 ああよかった、本当によかった。でも私はきっと、これからこのパンツを履くたびに今日のこの出来事を思い出すのだろう。なんともいえない苦い気持ちになった。
 とにもかくにも、無事回収することが出来てよかった。落ち着いて考えてみれば「こんばんは! あなたの部屋のベランダにパンツ落としちゃったの! 取らせて!」ってさっさと言っちゃえばよかっただけなのに。済んでしまうとどうしてあんなに恥ずかしかったんだろう、という気持ちにさえなってきた。

「ありました?」
「すみませんお騒がせして。無事回収できました」
「よかったよかった。あ、そうだ証拠見せてもらわねえと」
「……は?」
「ウソですって、冗談冗談。怖いから睨まないでくださいよ、ゴメンナサイ」

 太めの並行眉を困ったように下げながら、へにゃりと目を細めた仙道さんは慌てた様子で否定するように手を振った。そのひょうきんな姿に毒気を抜かれて、ついつい笑顔になってしまっている自分がいることに驚く。そして、仕事から帰ってきてそのまま履きっぱなしのスラックスのポケットに突っ込んだ『証拠』はどうやら確認されずに済みそうだ。

「本当にありがとうございました」
「女の子なんだから、そういうのはちゃんと中に干さなきゃだめですよ」
「反省しました、ごめんなさい」
「うん、わかればよし」

 そう言って仙道さんはニッコリと笑うと、ぽんぽんと二度ほど柔らかく私の肩を叩いた。もう女の子、っていう歳じゃないんだけどなあと思いながら、ムズムズするような不思議な気持ちになる。
 それにしても、この人の纏う雰囲気はまるで保育士さんみたいだ。怒らないですべて受け止めてくれるような安心感。そして優しく諭されると素直にごめんなさいを言わされてしまうこの感じ。ガタイがいいし筋肉質だし、もしかしたら介護職という線もある。
 それじゃあ、と手を振ってドアの向こうへ消えていく仙道さんにもう一度「ありがとうございました」と頭を下げる。そしてパタン、と扉が閉まる音が聞こえてから頭を上げた。
 それにしても、得体のしれないイケメンだった。身長、たぶん190センチぐらいはあるんじゃないだろうか。濡れて下がっていた長い前髪がやたら色っぽかったし、それでいて包まれるようなあの雰囲気。保育士とか介護士とかかなって思ったけれど、ちょっと人たらしっぽいあの感じはホストとかかもしれない。それとも、浮世離れした感じはファッションモデルとか、まだ駆け出しの俳優、もしくは劇団員という可能性もある。
 うーんと顎に手をあて、先ほどまで会話をしていた階下の住人を勝手にプロファイリングしながら、私は階段を上がって自分の部屋へ帰るべく踵を返した。
 レンジに入れてた昨日の残り、冷めちゃってるだろうしもう一回チンしなきゃ。


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