17.


 残り一分を切ったところでゴールを通ったボールは三点、点差は二点。
 たった一分、ほんの六十秒たらずをこんなにも長く感じたことが今までにあっただろうか。
 いつの間にか膝の上で祈るように組まれていた指は、力が入りすぎてほとんど感覚が無かった。唯一、爪が食い込むピリッとした痛みだけを感じる程度。
 その瞬間が訪れた時は、まるで大きな風船が破れたみたいだった。鮮やかな青を纏ったブースターたちが弾かれたみたいに立ち上がって手を打つ。拳を上げ、声を張り上げる。いろんな音と感情がごちゃ混ぜになったアリーナというひとつの空間の中で、青い色だけが炎みたいに沸く。その色のごとく、まるで波のように大きく揺れる。
 は、と息を吐いた時、やっと脳味噌に酸素がまわった気がした。縮こまっていた心臓が、周りの熱気と大騒ぎにあてられたみたいに急速に稼働し始める。抱き合って喜ぶ選手たちの姿に自分の涙が溢れていくのを感じたけれど、こぼさないようにぐっと奥歯を噛みしめた。
 最後に点を決めた流川さんがチームメイトたちに揉みくちゃにされるのを眺めていたら、やっと実感が湧いてきた。緊張で硬直していた体の感覚も、おなかの奥の方からじわじわと戻ってくる。
 すごい、ほんとに優勝しちゃった。
 まだまだ放心状態のまま、私は立ち上がれずにいた。隣でスタンディングオベーションをしながら拍手をする相田くんがぼろっぼろに泣いているのを眺めながら、必死に我慢している私の分まで泣いてくれてるみたいだ、なんて思う。
 周りにわからないようにそっと滲んだ視界を拭い、顔を上げて歓喜の中心に視線を向けたら、その瞬間に彼と目が合った。彰くんは並行な眉尻を下げていつもどおりに柔らかく笑んだけれど、その顔にはやり遂げた達成感とどこか安心した様な表情が浮かんでいた。
 あれだけ実力があって、あんなにも才能があって、それなのに今までずっと掴めなかったものをやっと掴んだ。どんなに必死になっても届かなかった場所にようやく到達できた。そして、私はその瞬間にその場所にいられた。自分の目でしっかり見届けられたんだ。
 彼に向かって何度も小さく頷いてみせる。またどんどん目の奥が熱くなって涙が出そうになったけれど我慢する。私は今ここで泣くべきじゃないからだ。ちょっとだけ困った様に笑った彰くんは、ゆっくりと瞬きをしてから小さく頷いて拳を上げた。
 場内アナウンスでもういちどチームの名が叫ばれる。その瞬間に音が弾けて、テープとキラキラ光る吹雪がアリーナを舞う。
 この歓喜の渦は、もうしばらく止みそうにない。


***


 私たちが忙しなかったのは、試合中よりも試合が終わってからだった。
 手分けして両チームの監督やコーチ、選手へのインタビューに飛び回り、ようやく帰社したら時刻はもう二十二時を過ぎている。
 明日はあっちへこっちへと取材に行く予定はなく、自宅で仕事をしてもいいという許可が降りたのでかなり気が楽だ。まあ、今日の諸々をまとめたりするために一日中パソコンに向き合うことにはなるのだけど。
 椅子に座ったら立てなくなってしまうような予感がしたので、持ち帰りたくない荷物だけを下ろし、手早く自分のデスクを片付けてさっさとオフィスから退散することにした。
 帰宅して部屋の灯りを点けたら、ようやく心が落ち着いた気がして小さく息を吐いた。相田くんたちのほう、どうだったかな。
 優勝チームへの取材は相田くんや他のメンバーに任せていた。なぜならば、彼の顔を真正面から見たりしたら自分の感情を抑えられなくなってしまうことがわかりきっていたからだ。相手チームへの取材も違う意味で心にくるものがあってしんどかったんだけど。
 彰くんが所属しているチームだからっていうのももちろん大きいけれど、私が初めて練習を見学して、生の試合を見たチームだ。そのチームが創設後初、悲願のリーグ優勝を遂げた。
 あの瞬間、急激に胸が熱くなって、押さえきれない感情で喉が震えた。ほんの少しの理性であふれるものをぐっと堪えるために、唇を噛み締めるように結んだ。
 あ、ダメだ。優勝の瞬間を頭の中でリフレインさせたら、目の奥がじりじりと灼けるように熱を持って胸のあたりがぎゅうっと苦しくなってきた。
 たった一年追いかけていただけの私がこんな感じなんだもん。ずっと応援してたファンや選手の身内の方なんかはもっともっと、そりゃあもう飛び上がって叫びたいほど嬉しいに違いない。チームの運営を担う人たちや戦い抜いた選手はそれ以上だろう。
 リビングのテレビの上にある時計を確認すると時刻は二十三時を過ぎたところだ。なんだかあっという間の一日だった。
 とりあえず手を洗い、ソファーに沈むように倒れこむ。なんかもう、動けないや。お腹も空いてるし、お風呂だって入りたいのに体から動こうという意思を全く感じない。
 昨日の夜だって、彰くんに「早く寝てくださいね」なんてメールをしておいて自分はろくに眠れなかった。それなのに、まだ頭が興奮状態だからだろうか。もう動きたくないほど疲れているのに、眠気があるかといったら目はぱっちりと冴えてしまっている。
 履いているボトムスのポケットに入れっぱなしだった携帯がブブ、と震えたのはそんな時だった。短いバイブレーションだったところから察するに、おそらくメールだろう。ポケットに手を伸ばす。たったそれだけの動作を行うことが億劫で、ひどく緩慢な動きでなんとかそれを引っ張り出し、画面に目を凝らす。

『名前さん、まだ起きてる?』

 画面に浮かんだのは、そんなたった一言だけのメールだった。
 さっきまで全く動きたくなかったのに、まるで体に電気でも走ったかのような衝撃。弾かれたみたいに上体を起こし、光の速さで「起きてます!」と文字を打ち込んで返信をする。
 起きているどころか興奮で眠れる気がしなかったぐらいだ。体が麻痺しているみたいで、このまま睡眠をとらなくても明日の仕事が片付くまでは余裕で稼働できてしまう気がする。たぶん、そのあとは強制シャットダウンがかかってぶっ倒れて寝ちゃうんだろうけど。

『もうマンション着くよ』

 その文章のあとに『顔、見に行ってもいい?』と続けられていたのがうれしくて、部屋の中で「もちろんです」と声を発しながらうんうん頷いてしまった。ちがうちがう、ひとりで頷いてないでちゃんと返信しなきゃ。
 インターホンが鳴ったのは、そのすぐあとだった。まだ返信してないし、ちょっと早すぎる気がする。でもこんな時間だしもしかして、とソファーから立ち上がりモニターを覗くと、そこに映ったのは予想通りの人物で。
 モニターの向こう側でひらひらと手を振る彰くんの姿を確認すると、受話器を取ることもせず玄関に向かってバタバタと駆け出していく。さっきまでもう動きたくない、なんてソファーで溶けていた事が嘘みたいだ。うれしい、すごくうれしい。だって、もう今日は会えないだろうなって諦めきっていたのだから。
 勢いよくドアを開けると「おっと」とほんの少し驚いた表情の彰くんがいた。彼はその視線を開いたドアから私へとゆっくり移すと、その目を柔らかく細めた。

「バタバタしてんの聞こえたよ、急がねーでいいのに」

 そう言いながら私の頭の上にぽん、とその大きな手を置くと「その日のうちに帰って来れました」とほんの少し疲労の見える笑顔を見せた。
 目の前に、触れられる距離に彰くんがいる。なんでも包めてしまいそうな大きな手のひらのぬくもりを頭の上に感じる。
 たった一、二週間会えないぐらい割と平気だと思っていたのに。どうしてだろう、今日だけはこうして会えたことがすごくすごく嬉しい。
 みるみるうちに目の前にいる彰くんの顔がぼやけていく。いや、そうじゃない。これは私の視界が滲んできたせいだ。彰くんの顔を見たら、途端に我慢していた感情がぼろぼろとこぼれ出した。
 勝利と優勝が決まったあの瞬間に無理やり押し込んだ爆発するほどにうれしくて、心の底からほっとした気持ちが溢れ出す。勢いよく堤防が崩れて、唇がわなわなと震えだす。喉と鼻が詰まって声が出てこない。
 びっくりした様子で目を丸くした彰くんは「ありゃ、どうしたの?」と珍しく慌てた様子で言いながら、小さな子どもみたいにしゃくりあげ、泣きじゃくりすぎて言葉さえ発せなくなっている情けない私の背中を優しくさする。
 言いたい言葉はたくさんあるのに。顔を合わせたら最初に何を伝えようかなって、ずっと考えてたのに。彼の顔を見てしまったら、もうとてもとても無理だった。押し込んで堰き止めていた涙が私の中にこんなにあったんだって驚くぐらい、ものすごい勢いで流れていく。

「大丈夫になった?」
「ち、ちがうんです、ホントはたくさん考えてたの、おめでとうとかお疲れさまとか、すごいねって、言いたい言葉すごくたくさんあるのに出てこなくて」
「あはは、でも今全部ちゃんと言えてたよ。ありがとう。名前さんも疲れてるでしょ」

 よしよし、と私の背中をさすりながらそっと抱き寄せてくれた彰くんの胸の中で、私は相も変わらずえぐえぐ言っている。
 そんな稚拙な言葉じゃなくて、もっともっといろんな言葉を考えていたのに。こんなのでよく文字を扱う仕事なんかしていられるものだ、と自虐的な気持ちになった。

「名前さんがめちゃくちゃガマンしてんの、下から見えてた」

 けれど、彼の優しい言葉とぬくもりで、そんな情けない気持ちはあっという間に吹き飛んで行ってしまった。
 思えば、去年の暑かった夏に出会った階下の住人であるこの人と、まさかこんな親密な関係になるだなんてあの時は微塵も思わなかった。出会った頃から得体の知れない感じのする人で、底が知れなくて。
 それなのに、いつの間にかこの人のことをこんなにも大好きになってしまうなんて。
 自分の感情にブレーキがかけられなくなるなんてこと、今まで無かった。自分じゃなく、他人のことで仕事が手につかなくなったり、夜眠れないぐらい悩んだり。悔しいけど、私はもうどうしようもなくこの人のことが、彰くんのことが好きなのだ。

「ね、オレがこないだ優勝したらご褒美欲しいって言ったの、覚えてる?」

 彰くんは小さく首を傾げながら、ごしごしと目元を拭う私を見下ろしてそう言った。
 あの言葉はやっぱり夢じゃなかったんだ、と思いながら「うとうとしてたけど、聞いたような気がします」とようやくまともに声を発する。もともと、優勝してもしなくても初シーズンお疲れさまの気持ちを伝えようと思っていたし、あの言葉が夢でも夢じゃなくても実際のところはどっちでもよかったのだ。

「新しいバッシュでもなんでも買わせていただきます、遠慮なくなんでも言って!」
「あー、違う違う、そーゆーんじゃなくてさ」
「もちろん別口でお祝いはしましょうね、私頑張って準備します! あ、外食とかでも」
「名前さん待った、ちょっとストップ」

 彰くんは私の言葉を遮るように、それでもひどく優しく穏やかに、まるで大切なものを包むかように私の名前を呼んだ。ただ名前を呼ばれた、それだけなのに胸がトクン、となって、頭がぼうっとしてくる。
 背中に回されている左手がピタリと止まって、彼の空いている右手が私の左手へすっと伸びた。指と指を絡ませると、そのままゆっくり自分の口元へと運んでゆく。
 きょとんとしたまま彼の動向を伺っていたら、彰くんがひどく真剣な表情で私のことを見据えていたことに気づいて思わず心臓が跳ねた。

「ここ、予約させてください」

 そういうと、彰くんの指先が私の指をきゅっと握った。
 予約させてくださいとは、一体どういう意味だろう。
 彼の瞳を見つめたまま、私がその意味を理解したのは思考を回すためにたっぷり三秒ほど停止した後だった。また自分の胸がいっぱいになって、目の奥が熱くなっていくのを感じる。
 なぜならば、彼が触れているのが私の左手の薬指だったからだ。

「え……?」
「名前さんのこれから、全部オレがもらいたい。名前さんのこの指に、オレが選んだ指輪をはめたいです」
「その、それって」

 彼はちゅ、と私の薬指に軽いキスを落としてから、にっこりと笑って「はい、これで予約済み」と言った。驚きすぎて声を発することも出来ない私はきっと、それこそ文字通り狐に抓まれたような顔をしていたに違いない。
 そんな私を楽しげに見下ろしている彰くんは、すっかりいつも通りの余裕ある穏やかな表情に戻っていた。真面目で真剣な表情とのギャップ、こういうのに私が弱いってことも、もうとっくに知られてしまっているのかもしれない。

「引っ越してきたばっかりの時、高校時代の先輩の結婚式に出たんです」

 腰に手を回されて、体をぴったりとくっつけたまま「女の先輩なんだけど、相手がなんと他校の知り合いでさ」と唐突に話し始めた彰くんの顔を見上げ、私はとりあえずうんうんと頷いてみせる。

「ふたりともめちゃくちゃ幸せそうに笑っててさ、そっかそういう相手が見つかるってすげえことだなあって他人事みたいにぼんやり思ってたんだけど」

 そう言うと、彰くんは一呼吸置いてじっと私を見つめながらその目をゆっくりと細めた。

「オレにとってはそれが名前さんだし、名前さんもそうだといいなって思って」

 普通の会話をしているかのようにいつもどおりの表情で、まるでソファーでくつろいでいる時みたいな調子で言う彰くんの顔を凝視しながら、私は「あの、ええと……」と声を発していた。どうかしたの、とでも言いそうな表情で首を傾げる彰くんのことを、私は信じられないものでも見るような目で見つめてしまっていたかもしれない。

「彰くん、いまものすごいこと言ったってわかってる……?」
「うん、すごいこと言った。てかオレたち、大事な話すんの毎回玄関ですよね」

 やっぱり余裕しゃくしゃくというか、さっぱりしているというかなんというか。
 私ばっかりドキドキして、真っ赤になって、照れて恥ずかしがって、いつだって彼に振り回されているような気持ちになる。それは初めて顔を合わせたあの日、彼の部屋の前で会話をしたときから全く変わらない。
 彰くんがあまりにもいつも通りだから、それがおかしくて思わず噴き出してしまった。大らかすぎるほど懐が広くて、マイペースで読めなくて、実は強引で、それでいて底抜けに優しいこの人の傍にずっといられるなら。
 そんなの、最高って言葉以外に当てはまるものなんかない。

「それで、名前さんはどう?」

 オレの隣にいてくれますか、と改めて問うてくる彰くんの目をまっすぐ見つめながら、間髪入れずに「もちろんです」と返事をした。
 ありがたいことに、どうやら私が彼に振り回される日々はこれからも続いていくらしい。


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