そんな夜も、
胸糞が悪いとは、このことだ。
兎は鉛のように重たくなった身体を引きずりながら、降りしきる雨の中を歩き、家路についていた。ついさっき片付けた依頼での出来事が、脳内をぐるぐると回る。斬る必要のない相手まで、この手にかけてしまった。これは仕事だ。仕方がなかった。依頼人を守るため、任務を遂行するためには、仕方がなかったのだ。と言えば、聞こえはいい。それでも、今夜はどうしても。
罪のない肉を斬る感触。鮮やかな血飛沫。鉄のにおい。命が終わり、世界を閉じる瞳。残る、虚無感。
返り血と泥が着物を汚し、大粒の雨が染み込んでいく。
自分のやっていることは、本当に正しいのか。何の意味があるのか。終わりはあるのか。いや、終わらせることなんて。
兎の脳内で、答えのない自問が次から次に浮かんでは消えていく。
いつもなら、こんな思考に囚われることはなかった。けれど、限界まで体力を使い果たした身体と、雨のせいで冷えていく体温が、兎の心まで蝕んでいく。
あァ、疲れたな。
胸の中で呟かれた言葉が、兎に追い打ちをかけた。
がらん、と音を立てて、刀が力の抜けた手から地面に落ちる。拾い上げる気力すらない。足は既に動く気配がなかった。
自嘲するような笑いがこみ上げる。このまま倒れ込んだら、いくらか楽だろうか。
ああでも、それでも。そうなってしまう前に。
きみに、会いたい。
「レオナルド、」
薄暗い思考に囚われた頭の中を払うように、いとおしい笑顔が浮かぶ。知らず漏れた名前は、冷え切った青白い口元へ熱を取り戻させた。
「兎さん」
急に、頭上から殴るように降っていた雨が遮られ、かわりに甘やかな声に包まれる。兎が地面に吸い込まれかけていた視線を上げると、目の前に、ついさっき望んだ少年が、傘を持ちながら立っていた。
会う約束はしていなかった。ここにいるはずがない。何も知らない君が、こんなところにいるはずがないのに。
「……レオナル、ド?」
存在を確かめるように、頬へ触れる。冷えた指先に、レオナルドの体温がじんわりと移っていき、兎の身体をゆっくりと温めていった。
「兎さん、おかえりなさい」
幻聴でも、幻覚でもない。望んだ通りの温もりと笑顔が兎の身体と心を癒していく。脳内の分厚い雲が去り、光が差し込んだような気さえした。
「おつかれさま」
濡れることも、汚れることも躊躇せずに、レオナルドは傘を差しながら兎を片腕で抱き締める。背中を撫ぜてやれば、驚いた兎の、ひゅ、と息を呑む音が、レオナルドの耳へ届いた。
「……ああ。疲れた」
一瞬あとに、兎はレオナルドの肩に額をつけながら力無く答えて、甲羅に腕を回す。とんとん、と。レオナルドの手が背中を優しく叩くから。薄暗さに取り込まれそうだった兎の心は、ゆっくりと引き上げられていった。
耐えず降りしきる雨の中。差された傘の下に出来上がった、ふたりだけの世界で。
兎とレオナルドは、手を取り合いながら、家路についた。