夜空の星屑に逢瀬



空を見上げながら、鼻歌を口ずさむ。その空気に溶けゆく音階は、ついさっき浮かんだばかりの旋律だ。
早く早く、この旋律を譜面へと開放したくて仕方ない。だけどその気持ちとは裏腹に、足はついつい寮から離れた場所へと進み続けてしまう。
まるで何かに引かれるように、ただただ足が促されていった。星が、こっちだよ、と手招きしている錯覚にも陥ったけれど、それ以上にわたしの心がそうしたがっているようにさえ思えるようなしっかりとした足取りだった。


学校から寮へと帰り着き、今日はやっぱりパートナーのあの人と会うことはできなかったなあ、と思いを馳せながら、いつの間にか眠りについてしまったのだけれど、きらりと光るものが瞼の裏を照らした気がして、ゆるりと瞳を開ける。光の根源はどこから…?、目をこすりながら窓の外に目を向けると、

「わあ…!」

思わず声が溢れ出た。この感動を分かち合おうにも同室のトモちゃんは、今日はパートナーとレコーディングルームで腰を据えての会議らしく、ここにはいない。だけどこの昂ぶる感情を抑えることはできなくて、気づくとわたしは外に飛び出していた。

焦る必要はないのに息を切らして走ってしまっていたらしい自分に苦笑しつつ、改めて空に向き合い、視界いっぱいにその光景を吸い込む。頭上には星々が輝いていて、流れ星でも降ってきそうなくらいの勢いがわたしの心を弾ませる。
この零れ落ちんばかりの星空を見て、いてもたってもいられなくなったのは、音楽の新たな可能性の切り口を感じたこともあったのだろう。けれど、この日の星空は、まるで何かが呼んでいるのではないか、そう感じさせる魔力があったのだ。と、わたしはこの時考えていた。

ああ、この感動を誰かに伝えたい、誰かと共有したい。でも、こんな時間に連絡するのは迷惑じゃ…?
誰に? それは、ずっと心の奥で歌を歌い続けているパートナー・一ノ瀬トキヤ、以外の人物はあり得ない。それほどまでに、わたしの心は彼の歌に心奪われ、魅了され――だからこそ、気持ちを重ねたいと思うただその人。
そうやって星を見つめながら、一ノ瀬さんを想いながら、空気をめいっぱいに体に満たすと、ピンと張りつめた心地よい緊張感が漂い、何かが生まれる予感がした。そんなときめく気持ちを抑えられず、星の破片から溢れる音を一つ一つ紡いでいくと、だんだんと旋律が出来上がっていく。なんて優しく、心があたたまる音。自分でも驚くくらい、素直な感動に満ちた音色だった。そして旋律を紡ぎきり、それが体を駆け巡った瞬間、歌が、聞こえた気がした。

この音は決して忘れたくない。そうはっきりとわたしの心が叫んだ。その一方で、自然と足はどこかへ向かう。自分でもわからない場所へと、星が導く。
鼻歌として先ほど紡いだばかりの旋律を旅のお供にして、一寸前のわたしの手を引いて、ある一点を目指し滑るように体は進む。
譜面に書き起こしたい気持ちは山々だが、繰り返し響かせているために忘れないだろうと思えて、それ以前に、この音色は絶対に忘れないだろうという妙な自信がわたしの中にはあった。それほどまでに、強い感情が込められた音だったのだ。

わたしが辿り着く先には何が待っているんだろう。
これほどまでにドキドキしたのは、HAYATO様の歌を初めて聴いたときと、一ノ瀬さんの歌に初めて出会ったとき以来で。
心臓の高鳴りを抑えることなんて、わたしにできるはずもなかった。





「今日は、星が綺麗ですね」

空気の入れ替えをしようとした時だ。窓を開放してほんの少し経ったら閉めよう、そう思っていた思考は遮断され、思わず独り言を呟いてしまっていた。
それが独り言にならずに終わったのは、同室の一十木音也が相槌を打ったからだった。

「あ、今日って新月だっけ?俺もさっき外を見て感激しちゃったよー。本当、降ってくるってこんな感じかなって、しばらく足が動かなかったもん!」
「確かに、吸い込まれるようですね」
「あ、トキヤもそう思う?」
「ええ。今回ばかりは、あなたと同じ感覚のようだ」
「俺ももう一回見ておこうかな。こんな星空、めったにないよね!」

ふいに、音が脳の奥を掠めた。空耳ではなく、心に響くこの感覚は、自分の中の歌への情熱が煮える時のもので。ああ歌いたい、と唐突に、だがしかしはっきりと素直にそう願った。

「……少し出掛けてきます。帰りが遅いようなら、いつも通り先に寝ていてください」
「え、今から!?」
「あと、窓の閉め忘れもないように。それでは」
「ちょっと、トキヤぁー?」

不思議そうに間延びした音也の声を後にして、私は足早に外の空気へと飛び出した。なぜか、急がないといけないような気がして、気持ちに急かされるまま星空の下へと出向くととても心が華やいだ自分に気付く。
と同時に、眼前に広がる光景に息を呑んだ。この学園の土を踏みしめたとき、いや、この地に親しみを覚えるようになってから、これほどまでの星空に出会ったことがあっただろうか。私の記憶をすべて遡ってみても、思い当たる日はなかった。

「これは…」

話し始めようとして、横に視線を向けると誰もいないことに気づきハッとする。私は今、ここに居もしないはずのパートナーに向かって声をかけようとしていたのだ。

今日は収録の時間の関係で日暮れ頃まで予定もつかない状態で、彼女へは今日は個人練習にしましょう、とお願いしたのだった。しかし最近では、彼女の音を聴かないと心がざわつくくらいにその曲に惚れ込んでしまっていて、その弊害がこういった場面でも彼女のことを思い浮かべるようになったこと、だ。
気持ちを共有したい。そう自然と思うようになっていた。この世界の色は彼女にはどう映る?どう、表現する?それが気になって仕方ない。彼女の感性は、私をどうも刺激するのだ。

彼女の音色が恋しくなり、それを振り切るように一心に夜空を見上げていると、星を見た瞬間に感じたあの情熱が、再び喉を熱くする。歌いたい、歌を届けたい、と。
誰に? それは、私の心を唯一揺さぶる魅惑の音の持ち主であるパートナー・七海春歌以外には浮かばない。
この時間に連絡なんて、非常識だ。そうはわかっていてもこの衝動は消えそうにない。ならばせめて、彼女の音を求めに行こうか。などと、自分の考えを苦笑気味に受け止めていると、また、音が脳の奥で疼いた。今度は旋律として、私の心をかき鳴らす。
気づくと私はその巡る旋律を追いながら歌詞を刻み、口ずさむそのピッチに合わせるかのように足を前へと動かしていた。

私が求めているのは彼女の音。感じた音色は七海くんのそれに似ていて。けれど、まさかこの予感の先に待っているものが彼女であるはずもない。だからこそ、導かれる先に何があるのか、探究心が心を突き動かす。
今の感情を静かに、しかし熱を持って表すかのようなこの歌詞を忘れたくなくて、旋律はどんなものだったろうか、と何度でも振り返りながら、歌詞をひたすらに心に思い浮かべていた。


「重症ですね、私も」





向かう先に、人影を発見した。
こんな時間に珍しい、とは思うけれど、さほど驚くことではない。
早乙女学園には熱心な生徒が多く、やり込む者はとことんやり込む。だからこそ、夜が更けてから寮へ戻る、ということは大いにあり得るのだ。しかし、こんな時間に男子寮と女子寮の延長線上に位置する噴水にまで赴こうとする者は少ない。まっすぐ帰寮する人がほとんどなのだ。
寝られないのか、よほど悩んでいるのか、はたまた別の理由か。今ここに導かれたばかりのトキヤには予想などつくはずもなく。しかし、彼の心は好奇心よりも驚きが凌駕した。

「あれ、は」

シルエットは女性の華奢で柔らかいもの。どうやらそれは随分と見覚えがある姿で、星明りの下で桃色の髪がつやつやと光を反射していた。それはトキヤの唯一無二のパートナーの春歌で。

「七海くん…!?」

その声にハッとして、噴水を眺めていた女性がトキヤの方を振り返る。

「い、一ノ瀬さん…!?」

ひどく驚いた様子なのはお互いで、瞳を丸くしてぱちくりと見つめ合う。
最初に口を開こうとしたのはトキヤの方だったが、言葉より先にため息が漏れ出た。

「――こんな時間になぜ外へ?学園内で警備が整っているとはいえ、女性がこんな時間に一人で外を出歩くなんて。もう少し、自分の身の安全を考慮すべきかと」

捲し立てるように一気に言葉が流れ、こくこくと頷くことしかできない春歌。
突き放された内容のはずなのに、不思議と心に突き刺さらないのは、きっと彼の瞳の奥が静かに揺れ、眉尻が下がり、本気で心配してくれているのだと伝わってくるからだろう。
それをありがたく思いながら、じーっと逸らすことなくトキヤを見つめ続けていたからか、トキヤが突然ハッとしたようにそっぽを向いた。

「一ノ瀬さん…?」
「返事は?」
「え?」
「もっと自分を大切にする、と約束してくれますか?と訊いているのです」
「あ、はい…!ごめんなさい。これからは気を付けます」
「宜しい」

きつい口調になってしまったのは、照れ隠しの一種かな。
そう気づけるくらいに、二人の関係は浅くはなくなっている。宜しい、の一言を放った直後に、ふっと緩む口元が、それを事実だと肯定していて、春歌は思わずパッと視線を落とす。

「今後夜更けに出歩くときは、私にまず連絡をください。時間が空いていたら、駆け付けますから。私の手が空いてなければ、代役でも探してみます」
「そんな、ご迷惑では…」
「これくらい、お安い御用です。今日のように一人で出歩かれては心配ですから。それに君は、大切なパートナー。もう少し頼ってくれてもいいんですよ」

大切なパートナー。心の中で復唱して、二人は互いに思いをしたためる。
大切だと他人を思えるようになったこと。
大切だと思ってもらえる信頼を気づけたこと。
どちらも、4月の自分たちには想像できないことだった。

「ありがとうございます…!えっと、でも、夜に外へ行く回数は減らすよう努力はしますねっ。一ノ瀬さん、とてもお忙しいでしょう?」
「別に、無理に減らさなくていいですよ?君といると、私は音楽への愛が増しますので。わたしも、君といられる時間が増えるのはうれしいんです」

ふわり。無意識のうちに浮かべた愛おしげな目許は、そのまま春歌へと注がれる。
柔らかなヴェールに包まれるようなその笑顔に、妙に心の奥がむずがゆくなった。それを飲み込むようにして何か話題を出そうと、春歌はさきほどから抱いていた疑問を投げかけた。

「そういえば、一ノ瀬さんも今日はどうなさったんですか…?こんな時間にこんなところにいては、喉を傷めてしまいますよ」

自分のことを棚に上げて訊いてしまった、とバツが悪そうに首を竦めた春歌に、大丈夫ですよ、と一つ頷いてみせてから、トキヤは問いに応じた。彼女の言葉が優しさに満ちているのは、十分に知っているから。

「私は――音色が、聴こえたような気がして」

しかし、応じたはいいが、すぐに思わず口を覆った。
馬鹿ですか私は!歌が聴こえたような気がするから何なのです?

「いえ、あの――君の音が、耳に届いた気がしたんです」

あああもう!余計に彼女を混乱させてしまうだけでしょう…!
ほら、口をぽかんとあけてしまっている。呆れているか困っているかのどちらかでしょう。
今ならまだ間に合います。寝付けなくて、気分転換に、…ほかにも色々理由は挙げられるじゃないですか。そう、星を見に来たんです。これは嘘ではない。ならば、これを伝えればいいのでは…!

トキヤの自責は人知れず目まぐるしく行われる。
そして、トキヤの水面下の奮闘空しく、春歌の口が開かれた。

「わたしもです」
「今、なんと…?」

そうでした。とトキヤは心中で独りごちる。
彼女は呆れたり馬鹿にしたりと言ったことができない人間。素直に目の前のことを受け入れ、だが鵜呑みにするだけでなく、芯があり核心をつく。トキヤにとって、いや、彼女をよく知る者にとって、七海春歌とはそんな女性だった。

「わたしも、あなたの歌が聴こえたような気がして、誘われるままにここまで来てしまったんです」
「不思議、ですね」

不思議としか言いようがない。意味合いは少し異なるものの星を見た瞬間に、心が通った、のかもしれない。

「星を見ていたら、まるで音楽が降ってくるようで。そのまま音楽を探っていたら、星の欠片がわたしの心からメロディを引き出してくれたんです。一ノ瀬さんとこの景色を一緒に見て感動を味わえたらなあ、と思っていたら、そんなふうに心に音楽が溢れて……そうしたら、歌が、聞こえた気がしたんです」

それは、甘く切なく艶やかな一ノ瀬さんのような声でした。
続くその言葉を聞いて、トキヤは思わず熱に浮かされかけの顔を片手で覆った。一つ小さく深呼吸をして、気持ちを落ち着けてから、自分もあの時感じたままの気持ちを吐露してみる。

「私も、星を眺めた瞬間に、どうしても歌が歌いたくなってしまって……改めて星に向き合ったとき、ああ君はどうこの空を受け止めるのだろうと考えていたら、旋律が聞こえた気がしたのです。君が生み出すような、透き通っている音色が」
「わたし、の」
「ええ。それで私も星を眺めながら、薄れゆく旋律を逃さないように歌詞を被せて追い続けていたら」
「ここに、辿り着いたんですね」
「はい。君も、同じなんですね」

すべて吐ききってから、しばし二人は見つめあった。ほう、と息が重なる。
この気分の高揚は収まりそうにない。

互いに互いの音色や歌が聞こえた気がした、すなわちそれはこの星空を二人で分かち合いたいと、同じ気持ちを同じものを見て感じたということであり。相手の音を求め、一緒に見たいと祈ったと暗に告げ合った結果となる。

「星が、綺麗ですね」

きゅ、とトキヤが拳を握りしめて、そっと呟いた。
この言葉は、彼女に聞いてもらいたかった言葉だったのですね。数刻前の自分へと尋ねると、こくりと頷きが返ってきた。
では、彼女はどう答えてくれるのか。彼女の唇が動くのを、少し緊張し、けれどどこか安堵している矛盾を感じながら、待った。

「はい。まるで、無限の未来みたい…!」

さすがだ。流石、七海くんだ。
トキヤは目を細め、納得とも感心とも言えぬ感覚を沸き上がらせた。
自分が抱く感情に、上乗せされて共鳴するような、彼女のこころ。それに出会えた今、やはり胸の奥にチリッと火がともる。

「一ノ瀬さん、」
「はい」
「星屑は好きですか?」

すでにこうして並んで美しさを讃えて見上げているのだから、答えなど、決まったも同然だ。それなのに改めて問う彼女の心理は、完全にはわからない。わからないからこそ、人は、言葉を交わし合うのだろう。彼女もまた、気持ちの重なる瞬間を求めているのかもしれない。流れ星のような、たった一瞬の奇跡を。

「ええ。とても」

無数の可能性がちりばめられ交差する、闇の中で輝く希望の光。
それはまるで、君のようだから。

「良かった」

小さな星を手にしたかのように両手で空気を包み込み、その手を胸の前に置き、春歌は静かに笑んだ。
トキヤは、彼女も同じ充足感を得たのかもしれないと想像し、願い、そっと上着を春歌の肩へと掛けた。

「名残惜しい気持ちは山ほどですが、いい加減中に入らないと体を冷やしてしまう」
「そう、ですね」

名残惜しいのは、この空との別れだけではない。せっかく交差した感情を、二人の偶然が重なった逢瀬を、終わらせてしまうのがどうしようもなく勿体なかった。
しばしの沈黙を生み出したのは、ささやかな抵抗の表れで。

『あの、』

どちらからともなく発した声は、ささやかな願望の表れだった。

「せっかく会うことができたわけですし、室内でしたら、まだ一緒にいられます」
「わたしはまだまだ寝られそうにありません。一ノ瀬さんは…」

尋ねかけたところで、愚問です、とトキヤの唇が笑った。

「では、一曲お相手願えますか?」
「喜んで…!」

噴水の水面がまるで鏡のように藍色を跳ね返し、手を重ねた二人がまるで今からワルツでも踊り始めるかのように、ゆらりと水面に映った。

星降る夜に見送られながら、彼らは来たときとは違う道を、二人で歩んでいく。闇に姿が消えた頃には、学園内の一室に外の光とは異なる煌々としたものが、ぽつんと灯っていた。

そこでその日生まれた旋律と歌詞は、まるでその片割れを待っていたとばかりに、なぜかカチリと交わりあい、素直に心に染み込んでいく。眠るのを忘れるほどに二人はのめり込み、旋律は輝きを増した。
音楽で彼らを導くきっかけとなった星空は、消えることのない部屋の明かりを見守りながら、朝日に彼らの寝顔が照らされるまで、そっと瞬き続けた。




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企画「ふたりぼっちのセレナーデ」様に提出させていただきました。素敵な企画をありがとうございました。

夜空の星屑に逢瀬