One sided relationship 4

Side:☆☆☆



今夜は一人で、イゾウさんのお店にお邪魔している。
平日につき左程混雑はしていない静かな店内で、カウンター席に座ってお酒を楽しませて頂いているところ。
聞けばマルコ部長もこうして、カウンター席で一人で過ごすことが多いそうで、おそろいだなんて喜んでいる自分がいる。
そんな私を見て、イゾウさんの手が空いている時には、マルコ部長のことを教えて貰えているから、それも嬉しくて。
今日の最初はパイナップルをベースにしたお酒にして貰っている。
グリーン・アイズっていうカクテルで、飲みやすくて美味しい。


「これは店から、…というかおれからです」
「嬉しい、いいんですか?」
「あいつが、嬉しそうなのが珍しくて」


内緒ですよ、と立てた人さし指を顎に付近に寄せてから、私の前に置かれたのは、シュリンプサラダだった。
最初におなかは空いていない旨を伝えたからだろう、軽いものを選んでくれたんだろう。
これがまた、甘いカクテルにぴったりですごく美味しかった。
男の人にしては華奢な手、だけど骨ばってはいるその指で作られた食べ物は、どれもいつも盛り付けも綺麗で。
まるでイゾウさんのように、スマートで美しい仕上がりになっていた。
見習いたくても、出来そうにない、職人さんの技なのかな。



「当時の上司に潰されて、水だけ飲みに来たこともありましたよ」
「部長が、ですか?」
「その後ろのソファ、今は新しいものになってますけど、…そこで二時間も寝ていきやがった…」


はぁと溜め息交じりに言っているけど、頬は緩んでいる。
大きな声は出さなかったけど、さすがに私は声に出て笑ってしまった。
きっとどれも楽しい思い出なんだろう。
ていうか、マルコ部長にもそんな時があったんだなって、ますます可愛くて。
過去のことを知れるのは嬉しい。
それにイゾウさんは、女性の話は絶対にしなかったし。
基本マルコ部長単体の、失敗談だったり、出来事だったりを面白おかしく話してくれたから。
すごく、楽しい時間を過ごすことが出来たんだ。

楽しい時間はあっという間に過ぎてしまい、けっこう酔いが回ってきた頃、お会計をお願いした。
ここに来て、これが初めてのお会計だった。
だけど言われた金額は、自分で把握していたものよりもちょっとだけ少ないものだった。
サラダはイゾウさんから、ということを考えても少ない気がする。


「あれ…酔ってるのかな、違う、ような…?」
「若い女性のお客様にはまたご来店頂きたいので。少しだけ、おれの気持ちです」
「ありがとうございます、また来ます!」
「お待ちしております」


すごく、淑女な扱いをされた気がしてすごく気分よく、お店を後にした。
エレベーターの扉は相変わらずせっかちで、私が乗りこむとすぐに閉まってしまう。
マルコ部長はこのエレベーターに酔っぱらって挟まったことがある、とイゾウさんからさっき聞いた。
そういうエピソードを知ると、この扉の癖も悪いものではなく思えてくるから不思議。
だからあの時、私が挟まらないように手で抑えてくれていたのかなって考えると、自然に頬が緩んでいった。

少しだけ帰りが遅くなったけど、改札の方を通って家路を目指す。
いつもと同じ道、いつもと同じ賑わい、なのにふわふわと幸せを感じていて歩いていて気持ちがいい。
本当に少しだけ、浮いてあるいているかのよう。
明日はマルコ部長と会話ができると嬉しいな。
ウキウキしながらスキップしたい気持ちを何とか抑えて歩いていると、いつも利用しているスーパーの入り口から、見慣れた髪型が揺れながら出てくるのが見える。
ただでさえ長身で目立つのに、髪型も際立っているから余計に目立つ。
愛しい、あの人。
見つけたことが嬉しくて、気が付いた時にはもう走り出していた。
お店から出たマルコ部長は、岐路に着くんだろう、もう私に背中を向けて歩きだしてしまっている。
その背中を目がけて、思いっきり突進した。


「マ〜ルコ部長ッ!」
「うッ……☆☆☆!?」


思った以上にドシンと強めにぶつかってしまい、衝撃が身体に響いた。
マルコ部長の背中に鼻をぶつけたし、勢い余った両手はしっかり身体に抱き着くように回してしまっていた。
今まで一度だって近所や駅周辺で会えたことなんかないのに、会いたい時に会えた偶然に感謝だよね。
酔っているついでに、マルコ部長に思いっきり抱き付いた。
今ならきっと、酔っていたんですっていう言い訳が通じるだろうから。
割と強めに抱き着いていたと思ったのに、腕を掴まれると途端にそれをあっさり外されてしまう。
掴まれた腕を引かれるように道の端へ移動すると、建物の壁際でマルコ部長と今度は真正面から対峙した。


「おい、酔っ払い。…ったく、どこでそんなに飲んできたんだよい」
「イゾウさんのお店です」
「なんだい、行くなら誘え」
「マルコ部長は?」
「おれは残業。終わってまっすぐ帰るところだよい」
「あ、違うの!部長じゃなくって、マルコさん!…一緒に帰りましょう」
「話聞いてんのかよい……ああ、帰ろうな、明日も仕事だ」


ぽんぽんとあやす様に頭を撫でられると、にやにやと口元が緩んでしまう。
ついでにさっき聞いたイゾウさんのお話を思い出して、ますます頬も表情も緩んでマルコさんを見上げた。
ふふふ、と声まで出てしまうから、さすがにこの辺りでマルコさんに怪しまれてしまう。
怪訝そうな表情のマルコさんと、嬉しくってにまにましちゃってる私。
さすがに駅も近いし、繁華街の壁際で見詰め合っているわけにもいかない。
それは私もわかってるけど、どうしてもこの空間を自分から壊すことは出来なくて、ただ黙って見上げていた。
そのうち、小さくため息を落としたマルコさんが、私の足元を見下ろして何か確認をしている。


「まっすぐ歩けるよな?」
「はい、…あ、いや、ダメです!」
「いやお前、イゾウの店からここまで歩いてきたんだろ?」
「手、繋いでくれないと、歩けません」


今度こそ、深い深いため息をつかれてしまった。
調子に乗り過ぎただろうか。
差しだした手が、空を切って自身なさげに降りていく途中で、マルコさんに救われた。


「手のかかる部下だよい」
「こんなところで、役職は無粋ですよ〜」
「…☆☆☆」


繋がれたその手を引かれて、マルコさんに続いて歩き出す。
今は肩を並べて歩くんじゃなくて、一歩後ろを繋いだ手に引かれて歩いている。
なんだかわからないけど、この優しさに鼻の奥がツンとするように感じた。
すごく、好きだ。
大好き。
堪らずに、ぎゅっと繋いだ指先に力を込めてみると、マルコさんからも緩く力が入ってしっかり握り込められる。
返事をしてくれているかのように。
歩く速度も歩幅も合わせてくれて、もう、本当に心臓がどうにかなりそうなくらい、大好きって脈打ってる。
信号で立ち止まった時には、ちょっと肩に寄り掛かるようにすると、マルコさんからも少しだけ身を寄せてくれる。
まるでカップルのように、いつもの道を歩いた。

そして差しかかる交差点。
マルコさんのマンションと、私のマンションの、分かれ道。


「明日、寝坊するんじゃねェよい」
「はい、大丈夫です」
「だいぶ酔ってるように見えるのは、気のせいか」


交差点の端で立ち止まって、心配そうな、それでいてすごく優しそうな顔をしたマルコさんが私を見下ろしている。
向かい合う形になっても、繋いでいる手は離れてなくて、それがすごく幸せで。
そして繋いだ手をそっと離し、マルコさんが一歩私へと近づいてくる。
ただでさえ近かったのに、更に密着するように距離が詰まると、前にそうされたように、片手が私の背中に回って胸元へと抱き込まれた。
両手じゃないのは、もう片方の手には通勤かばんと、スーパーの小さな袋があるから。
片手だけでも十分だった。
きゅうっと鷲掴みされてしまったかのように、締め付けられる私の心臓。
好きで、好きで、もう止まらない。
マルコさんが片手なら、と私は少し背伸びをして、両腕をマルコさんの首筋に伸ばして抱き着いた。
驚いたような声がマルコさんから出たけど、そんなの気にしていられる余裕なんかない。
酔った勢いに任せて、でももう、酔いなんてとっくに冷めていたけど。
すぐ近くにあるマルコさんの頬。
そこに、自分から唇を寄せて、ちゅっと小さな音を立てて頬にキスをした。
踵を元に戻すと、また二人の間に距離が出来る。
さすがに驚いた表情をしているマルコさん。
見詰め合っていたら、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだったから、今夜は自分から二歩程後ずさりをした。
そのままマンションに向けて駆け出す直前、小さく片手を振って声をかけた。


「お、おやすみなさい」



**********



あれから何度か一緒にイゾウさんのお店に行って。
マルコさんが先にお店に居る時もあるし、私が先の時もあるし。
二人で行くと、決まってカップル席でお話をすることになっていた。
それからもうひとつ。
交差点で帰り際は、必ず抱きしめてくれるようにもなった。
私からも抱き着いて、ぎゅっとしてから、マルコさんに見送られて帰る。
それも一緒に帰れば、必ず。
だからもう、いいと思う。
だからもう、好きって伝えるんだ。
次、イゾウさんのお店に行ったときには、絶対に。

帰り間際に、出した資料のファイルを壁際の棚に戻している時、先輩から声をかけられた。


「☆☆☆、今夜暇か?」
「今夜ですか?」
「前々から言ってただろ、お前には色々手伝って貰ってるし、晩飯奢るよ」


そういえば忘れていたけど、前に奢るからって言ってくれていた。
あの時は、まだ全然マルコさんとの関わりもなかったし、フリーだったからお願いしますなんて答えた気がする。
だけど今は。
付き合っているわけではない。
恋人同士なわけじゃないけど、好きな人がいるから。
先輩とはいえ、男の人と二人でご飯を食べに行ってもいいのかなって。
逆ならやだなって思ってしまった。


「すみません、私…」
「いいじゃねェか、奢りだろ?せっかくだ、美味いもの食わせて貰えよい」


断ろうと、まっすぐ先輩を見つめて声を発した時、横を通り過ぎたマルコさんがそこで立ち止まった。
その目線は、私のことを一度だけ見た後、先輩の方へと向いている。
ちらりとこちらを向いた目が、笑ってはいなくて鋭い細められたそれ。


「大したものは奢れねェっすけど」
「礼だってんなら、少しくらい奮発してやれ」


先輩の肩をぽんと一度だけ叩いて、若ェ奴はいいなァ、なんて豪快に笑いながら行ってしまった。
一度私を見ただけで、その後は目も合わせてくれない。
思わずマルコさんを振り返ってみても、背中を向けて歩いて行ってしまっているだけで。
会社で会話が出来ること自体稀なのに、どうしてこんな場面で…。
背中を追いかけて行きたかったけど、あまりの冷たい目が身体を刺して、足が動かなかった。



先輩と、何を食べて何を飲んで、どんな会話をしたかなんて全く記憶にない。
愛想笑いだけは出来ていた気はするけど、それ以外はよくわからないまま、最寄駅まで戻って来た。
ただただ、見たこともない程の冷たいマルコさんが気になって。

なんとなくそこに居るような気がして、イゾウさんのお店へと足を向けた。
先輩の顔を立てて食事に付き合うということが大事っていうのはわかる。
だけどせめて、あんなに冷たかった態度の意味を訊きたくて。
全然、マルコさんが何を考えているのか、わからないよ。
私達、恋人同士っていうわけじゃないけど、でももう、それに近い存在だったんじゃないのかな。
私だけの、勘違いだったのかな。
ずしんと重い気持ちが圧し掛かり、店へと向かう足がだんだんと重くなっていく。


リンッという小さな呼び鈴が鳴ると、カウンターの中にいるイゾウさんが私の姿を確認する。


「☆☆☆さん、いらっしゃい」


いつもと変わらない、優しい笑顔。
そのカウンター席には、マルコさんの姿も見える。
居た…。
いつもみたいに同じ席に座って、ウィスキーをロックで、グラスを傾けて飲んでる姿。
私の知るその姿と、今夜の違いは、こちらを見ないという一点のみだった。
ここ最近じゃ、その場から私を見つけると、すぐに笑顔になってくれて、席を移動する旨を店員さんに伝えたりしてくれていた。
なのに…。

マルコさんが受け入れてくれない態度の為、私が入口付近から動けずにいると、眉を下げて困ったような顔をしたイゾウさんが、マルコさんの隣の席を示してくれている。
その仕草に甘えて、マルコさんの隣の席まで移動をしたけど、やっぱり私の方は見てもくれない。
私がようやく椅子に座ると、マルコさんが手にしていたグラスを急激に傾けて、中の液体を一気に喉へ流し込んでいた。
そして、トンっとやや大きめの音を立ててテーブルへとグラスを戻している。
これでもかという程、ピリピリとした空気の中、声を発したのはイゾウさんだった。


「お飲み物は何になさいますか?」
「同じものを。…こいつにも」
「おれは☆☆☆さんに訊いているんだ」
「だから、同じものっつってんだろ」
「☆☆☆さんにその酒は出せねェ」
「バーデンダーが客の注文に応えねェのかい」
「バーテンダーだからだろ」
「あの、私…それ頂きます」
「お客様に不適切なお酒は、残念ながらお出しできません」


あまりに強いやり取りを二人がするから、お客さんが少ないとはいえ、注目を集めてしまっている。
いつも柔らかく静かなイゾウさんが、珍しく声を荒げているから余計に。
さすがに揉めて欲しくなくて、口を挟んでしまったけど鎮火する様子はなくて。
ようやくイゾウさんの強めな一言で、二人の言い争いは終わりを迎えた。
最も、マルコさんが押し黙ってしまっただけだけれど。

不貞腐れた様子でだんまりを決め込んだまま、懐から出したタバコに火を付けている。
至近距離で、マルコさんが煙草を吸うところを見るのは、これが初めてで。
いつもこの姿は、遠くから眺めているだけだったから。
今までだったら、珍しいことに喜んで話題に出していただろう。
でも今は、声をかけることすらできない。
こんなに近くにいるのに。


「カーディナルです。赤ワインをベースにカシス・リキュールを加えてあります」
「綺麗な色…」
「いつものお酒より少し強いので、お気を付け下さい」
「ありがとうございます」

「お前には、モスコミュール」
「ウィスキーをロックでと言ったろう」
「飲み過ぎだ、それ飲んだら帰れ」


イゾウさんは私の前、それからマルコさんの前にお酒を置いた後、つんっとそっぽを向いて、マルコさんの言葉を無視している様子だ。
その後は、誰も言葉を発しなくて。
時折、店内にいる他のお客さんが笑う声や、帰っていく人の足音、店内のBGMだけが響いていた。
お酒を口にしては、黙ったまま目を閉じたりしているマルコさん。
私は声をかけることもできず、ただただ横目でその様子を確認するのみで。
時間だけが経過していく。
訊きたいのに訊けない。
声をかけたいのに、どんな言葉をかけたらいいのかさえ、思いつかない。
せっかくイゾウさんのお店に来ているのに…こんなに、つらい思いをするのは初めてだった。
結局、今日の真意を訊けないまま、グラスが空に限りなく近づいていく。
その時、ふっとマルコさんが立ち上がった。
本当に、さっきのお酒を最後の一杯に、帰るつもりらしかった。


「帰る。☆☆☆、お前もこい。送るよい」
「マルコ」
「大丈夫だ。会計はいつものようにしておいてくれ」
「あ、あの…」
「若ェ女が、ひとりで夜道を歩くな、行くぞ」
「はい、…イゾウさん、ご馳走様でした」
「ありがとうございました」


マルコさんの気迫に負けて、同じく立ち上がり、お店を後にした。
エレベーターの中で、飲み物のお礼を告げたけど、一度頷くだけで私のことを見る素振りも見せてくれない。
ビルを出た後は、ひたすらマンションへ向けて足を進めるのみで。
今夜は、手を繋いでくれないどころか、マルコさんの歩幅が広くて、歩く速度も速い。
私はついていくのだけで必死で、小走りになってしまう。
隣にすら追いつけず、マルコさんの背中を追うのみで。
これが現実。
今までが、夢みたいだった。
信号が赤で立ち止まった交差点は、前に手を繋いで貰って、肩に寄り掛からせて頂いた場所。
それからその先は、マルコさんの足に偶然当たった小石が私の前まで転がって来たから、私も前方に蹴ったら、いつの間にか代わる代わる蹴ることになって、結局マンション近くの交差点まで小石を運んでしまった時の、小石のあった場所。

いつも楽しく、マルコさんと一緒に帰った時は、小さな出来事でも全部覚えているから、その思い出を辿りながらの帰宅になった。
私一人の頭の中だけの話だけども。
無言の重苦しい空気の中、倍以上時間がかかった気がしたけど、到着するまで足早に移動してきたからその半分程の時間だっただろう。

いつもの交差点、いつもマルコさんが立ち止まる場所で、いつもと違うのはマルコさんの身体がこちらを向いていないことのみ。
私を見下ろす視線が、決して優しいものではなく、厳しいものになってしまっている。


「若ェ女がいつまでも夜遅くまで出歩くんじゃねェよい」
「マ、マルコさん…」
「マルコ部長だ」
「部長…、あの……」


ピシャリと強めに言い直させられた呼び方。
その冷たい物言いに、背筋が凍りつくような想いだった。
この間とは全く違うの。
言葉を忘れて、ほら、とか、あれです、とか的を射ない私の拙い話でも、話し終えるまで待ってくれていた人は、今はもういない。
だけど、泣くもんか。
なんだ、なんて冷たく見下ろされてるけど、絶対、泣くもんか。


「マルコ部長、…好きです」


ようやく伝えられたその言葉は、想っていた以上に最悪のタイミングになってしまった。
言った後、恐る恐る顔を上げてマルコ部長の表情を確認すると、深いため息をついているのが見えた。


「ああ、ありがとう」
「つ、付き合っ……」
「☆☆☆、お前は勘違いしていただけだい」
「………え?」
「ちょっと上司と距離が詰まって、珍しい奴と仲良くなっちまったもんだから、感情が狂ってんだ」
「…な…んで、…そんな…?」
「おっさんが珍しいだけだい。…だから、きちんと自分の年齢に合った奴と、年相応の恋愛しとけ」
「マルコ部長も…、同年代の方が……いいですか?」
「お前の気持ちには……応えられねェ」


ふっと眉を下げて困ったような表情になったのは一瞬の出来事で、すぐにさっきまでの冷たい表情に戻ってしまった。
だからどちらが本当の気持ちなのか、全くわからない。
ただ今言えるのは、受け入れて貰えなかったという事実だけ。


「また明日、会社でな」
「はい……はい!お疲れ様でした!」


先に私に背を向けてマンションの方へと歩き出してしまったマルコ部長。
その背に向けて、挨拶を半ば叫ぶように大声で伝えると、片手が軽く上がるのだけが見えた。
やがてその姿も、マンションのエントランスに消えていき。

もう、いいよね。
泣いても、いいよね。
堰を切ったように溢れる涙は、我慢した分、大粒の雫となって頬を伝って落ちていく。
いつまでたっても止まらないから、部屋に入るまでの道で、誰にも会いませんようにと願いながら進んだ。
だけどいつまでも泣いていたら、明日確実に目が腫れてしまう。
そんな顔では仕事にも行けない。
そんなのは困るから。
それでも止まらない涙を、冷やしたタオルで拭いながらベッドに横になった。

それでも明日は、仕事に行かなくちゃいけないから。





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