それは彼女に最後に残されていたとてもたいせつなものだった。徐々にこぼれ落ちていく記憶はやがてあとかたもなく消えて、あの世界は「なかったこと」になる。その恐怖に耐え続けた撫子が、もう限界だと悟ったときあふれた思い出の奥底にいたのは、凶暴で乱暴で不器用で怖くて冷たい、それでも優しい金と青の瞳を持つ獣だった。

「ん?お嬢じゃねえか」

ぽろぽろと、一歩進むたび息を吐くたび形なく音をたてて消えていく壊れた世界の記憶を必死につなぎ止めていたら背後から声をかけられた。冬も寒さを増して、冷たい風が吹き抜ける通り下校していた撫子が振り返ると、そこには左目を眼帯で隠した自分より少し背の高い小学生の寅之助が立っていた。

「トラ?」
「考え事か?変な顔してたぞ」
「へ、変な、って」

にや、と意地悪く笑う同級生は、つい2ヶ月ほど前までほぼ面識のなかった人物だ。神賀旭が集めた課題メンバーの一人である彼は有名な不良少年だが、撫子にとって彼は恐怖の対象ではない。

一言でも二言でも語りきれない、現実ではありえない体験をした撫子は、「あちらの世界」の寅之助に恋をした。残酷で不安定な、獣そのものであった彼の存在にどうしようもなく惹かれて、トラが欲しいと思った。寅之助も撫子が欲しいと言ってくれた。
それでもただ互いを想って生きていくには現実は、あの世界は撫子に優しくなくて、撫子は結局こちらの世界に帰ってきてしまって。そしてそれだけではなく、あちらの世界の寅之助が撫子を救うためにしたことは、撫子の心に深い痕を残して消えた。

(……よくよく、考えなくてもひきょうだわ)

救ってもらった自分は感謝こそすれ文句を言える立場ではないのかもしれない。
それでも消えてほしくないというのはわがままだろうか。
一緒にはいられなくても、無事で生きていてほしかったのは、わがままだろうか。

「…トラって、自分勝手よね」
「オイコラ。今まで考え込んでた理由はそれか。失礼だろ」
「まちがってないもの」
「んだよ、その自信たっぷりな顔は」
「だってそうでしょ、いつも人を振り回して。自分が楽しいから、よね。それ」
「…否定はしねぇよ?」

ああまた、にぃ、と浮かべる笑みは獣そのものだ。あちらの世界のトラも良くそういう笑みで私を見てた。
あのときは、金ではなく青い瞳だったけれど。

「……ねえトラ。その眼帯、取らないの?」
「ん?なんだよいきなり」
「トラの瞳の色、きれいなのに隠してるのもったいないと思ったのよ」
「はあ?なんだよ、きれいとか。……つかお前、オレの目見たことあったか?」
「ええ。あるわ」

とてもきれいな色だった。時々こわいときもあったけれど、金と青のコントラストが、とても好きだった。

「そうだっけか?ま、いいけどな」

大して気にしないで笑う寅之助の笑顔が重なる。そしてその笑顔が霞んできたことに胸が痛くなる。
ああいよいよ愛したひとの姿さえ忘れていくのか。その事実に心が悲鳴をあげて軋んでいく音が響いた。
きっとあと少しですべて忘れてしまう。正確に教えられたわけでもないタイムリミットを悟った撫子は、最後なら、と決意する。

「ねえ、トラ、」

ほんとうはちがう。このトラに伝えるのはちがう。ふたりはちがう人物なのだ。
でも、伝えられるのはこのひとだけで、伝えたいのもこのひと。
あの世界のトラへの想いも、この世界のトラへの想いも。嘘偽りなくほんとう、だから。
言葉の続きを、珍しく急かすことなく待っている寅之助に撫子は泣きそうな笑顔を向けて、ちいさくそれでも一言ももらさず伝わるように寅之助を見据えて胸がつぶれそうなほどの想いを音にした。

「だいすきよ、トラ」

痛みに耐えて、吐き出すように告げた言葉。酷い自己満足だと自嘲して寅之助を見つめれば、涙でわずかに歪んだ視界のなかに、もう忘れてしまったはずの青い瞳で笑って撫子を見下ろす寅之助が見えた。

『ったりめーだろ。お嬢はオレのモンだからな』

その声を最後に、「あちらの世界」の記憶は音もなく撫子のなかから溶けて、消えた。



瞳の中の、わる世界

(さようなら)





title by≫狼傷年



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