短編 | ナノ


がらりと乱暴に開かれた襖の方を見て、名前はふわりと微笑んだ。


「幻狼はん、また来てくれはったんですか?」

「…おう」

「ふふ。有難う御座います」


この遊廓で最も人気の花魁である名前の艶やかな微笑みは、数々の男を魅了して来た。もちろん勵閣山の山賊の次の頭だというこの橙色の髪の男も例外ではない。彼も他の男と同じように、彼女目当てにこの遊廓に通っている。



「今夜は何します?」



ゆっくりと幻狼に近付きながら、名前はこう言った。彼女から漂う雰囲気は、甘く官能的である。


「…お前は何したいん?」

「そうですねえ…。ほんなら、たまにはええ事しません?」


ぶっきらぼうに幻狼は、名前の質問に質問で返した。それなら、と名前は花魁らしく耳元で囁く。幻狼は一度名前を抱いて以来、自ら触れる事すらしなかったのだ。


「それはあかん」


名前の肩を掴んで引き離すと、幻狼は先程までとは打って変わって真剣な瞳で答えた。まさか断られるとは思っていなかった名前はきょとんとして彼を見つめる。


「何でですのん?折角逢いに来てくれてはるのに…」


その後、むすとした表情で名前は幻狼に問い掛ける。毎日高い金を払って足繁く自分の元に通い、外の世界の話を聞かせてくれる彼に、名前は惹かれていたのだ。好きな男には触れてほしい。そう思うのも致し方ない事だろう。じっと自分を見つめる名前の瞳に耐え切れなくなった幻狼は、気まずそうに視線を逸らした。




「…俺はな、お前に惚れとんねん。せやから花魁としてのお前を、もう抱きたないんや」


二人の間に流れた沈黙を破ったのは、幻狼だった。彼は初めて名前に出会ったその時から彼女に魅了されていたのだ。そして初めて彼女を抱いた時、彼は花魁としての名前でなく、一人の女としての名前を愛している事に気付いたのだ。


「幻狼はん…」

「絶対身請けしたるから、それまで大人しい待っとけ」

「はい…!」


名前の微笑みは、柔らかく爽やかだった。








「名前。身請けに来たで」


あれから数年。沢山の男からの身請け話を断ってきた名前の元に、とうとう幻狼が姿を現した。にっ、と笑う彼の顔は、久々に逢うにも関わらず、初めて出会った時と全く変わらない。


「…待ってました、幻狼はん」


遊廓に身代金を支払い、すべての手続きを終えた名前は、幻狼と共に外の世界へと足を踏み出した。互いの顔を見つめ、これから先の未来に胸を膨らませて微笑み合う名前と幻狼を誰もが恋人同士だと思っただろう。



「…山賊ごときが、名前を身請けするなんて許さん!!」


幸せの絶頂にいた名前を、一気に現実に引き戻すような声だった。短刀を持った男が、叫びながら幻狼に向かって来たのだ。


「…っ!?幻狼はん、危ない!!」


男に気づいた名前は、咄嗟に身を呈して幻狼を庇った。次の瞬間、ずるりと名前の身体が地面へと落ちて行く。男の持っていた短刀は、幻狼ではなく名前の背中を貫いていたのだ。


「名前!?おい、名前!!しっかりせえ!!!」


力なく横たわる名前の身体を抱きかかえ、幻狼は叫ぶ。そんな彼の腕を、名前は弱々しく握った。


「幻狼、はん…。お怪我、ありまへんか?」

「俺の事はどうでもええねん!お前の方が…!!」

「よかった…」


段々と広がる自らの血の海の中で、彼女は微笑んだ。


「モテ過ぎるんも、辛いもんですなあ…」

「こんな時に、笑えん冗談言うなや!」


名前を刺した男は、数ヶ月前に彼女に身請けを断られたのだった。だからこそ彼女の身請け人である幻狼を逆恨みし、強行に及んだのである。



「ふふ…。でもうち、一瞬でも、幻狼はんの、恋人になれて、良かったです」


「何、言うとんねん…」


「貴方に出会わんかったら、花魁のまま一生、終えるとこでしたわ…。ほんまに、感謝、してます…」


「もうええ!もう、喋んな…!誰か医者呼んでくれ!早よう!!」



名前は幻狼の静止など気にも止めず、彼への愛と感謝の気持ちを述べ続けた。その命が尽きるまで。


「ありがと、げん、ろ、う…」

「名前…?おい、名前!名前っ!!!」















「…っ!女は嫌いや。あいつみたいに、名前みたいに、自分だけ言いたい事言うて逝ってまう女なんか、嫌いや…」


誰も居ない宮殿の隅で空を見上げながら、愛した女を思い出し、翼宿はこう呟いたのだった。






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