母さんが、泣いていた。
父さんがそれを慰めるように抱きしめて何度か背を叩いた。いつもの父からは考えられないほど優しい手つきで、時々消える嗚咽を宥めるようにぽんと叩いた。母さんの表情は父さんの胸に隠れて見えなかった。それでもなにか悲しいことがあったのだろう。父さんはなにか堪える様に歯を食いしばっていた。いつも笑っている父さんが、いつもそんな父さんを見て笑っている母さんがあんな顔をしているなんて。

あの頃俺はたいそうショックを受けた。家を飛び出して街を走り回った。走っているうちに冷静になって、次に涙が出てきた。母さんのために、父さんのために何もできない自分に腹が立った。目を腫らしてたどり着いたのは一番近付いてはいけないと思っていた父と母の部屋だった。

「三之助?」
「…自分の、部屋に戻ろうと思って」
「また迷子か、仕方ないな」

おいで、と呼ぶ母さんに近寄り同じ様にベッド脇に座った。よく見ると同じ様に目元が赤く腫れていた。きゅっと母の服の袖を掴むと気付いた母が俺の頬を撫でた。

「昔と変わらないな、三之助は」
「別に迷子じゃない」
「そう言うところもだ」

母さんは今の俺ではない俺を見ている様な気がした。俺がもっと小さかった頃かもしれない、赤子だった頃かもしれない。もしかしたら、それより前かもしれない。母さんは俺の知らない俺を知っている。父さんもそうだ。俺を通して別の俺を見ることがたまにあった。

「三之助」
「…かあさ、」

肩を引き寄せられて母さんに抱かれた。慌てていると柔らかい手付きで背を撫でられた。どんどん呼吸が落ち着いてきて深く息を付いた。吸った呼吸からいつもの母の香りがした。母が好きな、ガーベラの香りだった。母さんがぎゅっと腕に力を込めて抱きつく。

「三之助の迷子は治らないけれど、お前がしっかりしてる子っていうのはずうっと昔から知っているから」
「…うん」
「シロや金吾や……父さんのこと、支えてあげて」

いつも輝いていて、父さんや俺たちの事を守ってくれる母さんが始めて言った頼みごとだった。母さんの声色は何かに怯えた様な、怖がっているようなそのような憂いが見えた。俺は母さんの背をきつく抱きしめて返事をした。母さんが不安にならないように。俺がいる、父さんも、シロも金吾も、母さんも俺が守ってみせる。そう口にすれば母さんは悲しく笑った。

夕日を浴びたガーベラの花がきらきらと輝いていた。
それは母の頬を伝う涙に、よく似ていた。


家に帰って、お母さんを呼んでも返事がなかった。ランドセルをおいて階段を駆け上がるとすすり泣く声が聞こえた。そっとドアを開けると母さんが泣いていた。僕はお母さんに近付いてはいけない気がしてそっとドアを閉じて来たように階段を降りた。きっと今行ってもかける言葉が出てこない。どうしたのと聞いてまた困らせてしまうだけだ。ならお母さんの元気が出るようになにかしよう。リビングをうろうろしていると、ふと食卓が目に入った。

「元気を出すにはご飯、なんだな」

いつもお父さんがそう言っている。今日の夕飯は僕が作ろう。冷蔵庫を開けると冷えた空気が足元に流れて来た。そのまま野菜室を覗きこんだ。にんじん、玉ねぎ、じゃがいも。それからお肉も。お母さんは華やかなものが好きだけど料理はいつも量が多くて精がつくようなものが多い。僕たちがよく食べる、というのもあるだろう。きっと細やかな気遣いだ。僕らが元気でいられるように、と。あの頃から少しも変わっていない。

「おてては、ねこのて…」

にんじんを乱切りに、じゃがいもは煮崩れしないように面取りをする。お肉は大きめに切って玉ねぎも食べやすい大きさに切る。大きめのお鍋を出してお肉を炒める。野菜を入れてお肉の油が満遍なく広がったらお水をいれる。ルーも入れて隠し味にチョコレート。いつも母さんが作るカレーだ。

あとはぐつぐつと煮込んでご飯にかければ出来上がりだ。あの頃も、今も母さんはたくさんのご飯を作ってくれた。あの頃のことはどことなく、ぼんやりとだが覚えている。お父さんがいて、お母さんがいて、三之助も金吾もいた。違ったのはお父さんのことを七松先輩と呼び、お母さんのことを滝夜叉丸先輩と呼び、三之助のことを次屋先輩と読んでいたことだ。僕たちはおそらく血のつながらない他人だったのだろう。でも今と同じ繋がりを暖かい関係があった、ということは覚えていた。

お母さんの泣いている姿を見たとき、あの頃の記憶を少し思い出した。あれは確かまだ肌寒い冬の終わり。僕らの真ん中にいたお父さん、七松先輩がいなくなった。どうしてだかわからないが悲しい、という気持ちと一緒に嬉しい気持ちもあってすごく複雑な想いを抱えていたことは覚えている。その時人目を逃れるように物陰に隠れて泣いていたのがお母さん、滝夜叉丸先輩だった。いつも高飛車で、目立ちたがりやの滝夜叉丸先輩が影で泣いていたのは少なからず衝撃的だった。それと同時に僕ら以上に七松先輩のことを大事に思っていた、ということとその涙を僕らに見せられないという気持ちがひしひしと伝わって来た、気がした。

今もそう、涙を見せまいと隠れて一人で泣いていた。きっとその涙を拭えるのは七松先輩しかいない。それをどこかで悟っていた。僕にできるのは滝夜叉丸先輩の、お母さんの元気が出るように少しばかりの手伝いをするだけだ。

いつもの暖かいカレーに、緑鮮やかなパセリをのせて。
暖かい明日がずっとずっと続きますように。




「金吾、お待たせ」

いつも迎えにくるお母さんが来ない。友達が皆帰った幼稚園で、僕はブランコに乗ってお母さんを待っていた。さみしいという気持ちが胸にこみ上げて来て溢れそうになる涙を堪えた。鼻を啜り、袖でごしごしと涙を拭いた。そんな時お父さんの声がした。顔をあげるとにこにこと笑ったお父さんが屈んでこちらを見ていた。

「おとうさん…」
「ひどい顔だな、金吾!待たせて悪かった!」

ううんと頭を横に振るとそうか、と言って笑い手を差し出してくれた。早く帰ろうと言ったお父さんにはい、と大きな声で返事をした。

お父さんが迎えにくる、というのは今までなかった気がする。お父さんは町の消防士さんでお仕事が忙しい。いつもお母さんが迎えに来てくれた。じゃあ、どうしてだろう。いつもとは違う河川敷の道を手を繋いで帰りながら考えた。

「金吾は泣き虫だなあ」
「だっ、だって…」
「泣くことは悪いことばかりじゃない、でもな男なら堪えなきゃいけない時だってある」

そう言ったお父さんは足を止め真剣な目で僕を見た。いつもにこにこしているお父さんじゃない、少し怖くなって視線をうろうろさせるとそれに気がついたのかいつもの表情に戻って笑いながら繋いだ手を離し小指を僕の前に立てた。

「じゃあ金吾、約束をしよう!」
「…やくそく?」
「母さんの前では、どんなにさみしくても、悲しいことがあっても笑うこと」

母さんはお前の悲しい顔を見ると悲しくなるからな、とお父さんが言った。お母さんが泣くのは見たくない。僕はわかった、と言ってお父さんの小指に自分の小指を絡めた。そしてぶんぶんとその繋いだ小指を振った。

「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます!」
「ゆびきった!」
「…よし、金吾!男と男の、約束だからな」
「…うん!」

道端のオミナエシの花が風に揺れてひらひらと揺れた。オレンジの夕日を浴びて、僕と父さんの影は遠く、黒く伸びていた。



思えば、幸せなことが立て続けに起こった。私が女としてこの平和な世の中に生まれたこと。まず最初は驚いたがそれと同時に容姿があまり変わっていないことに安心した。あの、忍者だった頃の記憶を持っていて他の人の顔になっていたら本当に混乱していただろうから。そして、彼七松先輩にもう一度出会えたのも奇跡だと言っていい。あの頃の同級生や仲間たちを街の雑踏に見ていた私は見つけられない度に落ち込み、孤独感に苛まれていた。そこで出会ったのが彼だったのだ。同じく忍者だった頃の記憶を持っていた彼は私の孤独を救ってくれたのだ。それから自然と隣にいることが多くなり、男と女だった私たちは結婚した。幸運はまだ止まらない。私たちが授かった子供があの頃の後輩たちだったことだ。三之助、四郎兵衛、金吾。三人は昔のことを覚えてはいなかったがあの頃の名前をそのままつけた。三之助は中学生、四郎兵衛は小学生、金吾はようやく幼稚園に行き始めた。あの頃とは違う穏やかな毎日があり、こんなに幸せでいいのだろうかと何度も考えた。その度に彼はあの頃辛い目にあったのだから今度は幸せになったっていいと、そう言ってくれた。

しかし、幸せというものは長続きはしなかったのだ。

自分の命の炎が尽きようとしていると気付いたのはほんの小さな痛みに気付いた時だった。医者に行くと余命幾許もないという。目の前が真っ暗になったと同時にやはりそうか、という今まで抱えていた幸せへの不安が解決した気がした。

それから、遺して行く家族のために何か遺そうといろいろなことを教えた。お金の扱い方、料理の仕方、勉強、裁縫、掃除、洗濯。七松先輩がいなくても子供たちで家のことはしていけるように、支え合って、生きていけるように。

鈍く重い痛みにすうっと目を閉じそうになるがなんとか堪えた。あの頃とは大違いだった。あの頃はその痛みが身を切り裂くほど鋭く流した血のせいで意識が朦朧としていた。一人合戦場近くの森の中で息を引き取ったのだ。それに比べれば今が幸せなことこの上ない。愛する家族に看取られて死ぬことができるならそれは本望というものだ。泣きそうな顔をしながら笑う息子たちは自分のことを気遣ってくれている。心配しなくていい、楽になってもいいと。すべて彼の仕業だろう。いつも細かいことは気にしないのにこういうところは気が回るのだから。彼の顔を見ると一番泣きそうな顔をしている。そんな顔はしないで欲しい。いつも真っ先に走って、これからも彼らをを引っ張って欲しい。そして笑って、泣いて、楽しいことも悲しいことも分かち合って、幸せになって欲しいのだ。彼には言っても言い切れない感謝を、子どもたちには願ってやまない幸福への祈りを胸に抱いて、私は目を閉じた。

晴れているのに、雨が降りやまない。ぽつりぽつりと感じる雨の中に彼が昔くれた薔薇の香りがした気がした。




金吾は私との約束を守ってくれた。くしゃくしゃにして泣きそうになっていた顔をなんとかとどめて彼女を見送ってくれた。三之助も、四郎兵衛も、彼女がいってしまったということを知らせる機会音が鳴った瞬間に大声で泣き始めた。でもこの中で一番ひどい顔をしているのは私だろう。三人を抱き寄せて、滝の胸に縋り付いた。最愛の人の抜け殻はまだ暖かく、今にも笑って私たちの髪を優しく撫でてくれそうだった。それでも動かないその手は徐々に冷たくなり、四人で声を枯らした頃には彼女のぬくもりは消えていた。


あれから何度目かの夏がくる。三之助は高校生、四郎兵衛は中学生になって金吾は身の丈よりもすこし大きめのランドセルを背負って学校に行くようになった。三之助は迷子癖が治らないが長男として兄弟の世話をよくしている。驚くべきは四郎兵衛だ。あいつの作る飯はお前の料理にそっくりで口に運ぶ度にお前のことを思い出す。金吾は末っ子だが三之助の迷子縄をちゃんと持っているし掃除も洗濯もよくする。私がだらしないと怒られてしまうほどだ。
お前が残した愛の種が、俺をまだ生かしてくれている、そう思う。お前がいなくては生きてはいけないと思うことはあるが、あれからなんとかやっていけている。会いに行くのはまだまだ先だと思うが息子たちの話を土産話に持って行くから期待して待っていて欲しい。


最愛の人の墓前には白いカーネーションを捧げる。これが私のお前に何度でも伝えたい言葉だから。


「私の愛情は生きている」