爪を切る。夜中の三時頃の室内は真っ暗なまま沈黙している。だから私は月の光で爪を切る。網戸の向こうから静かな冷気とにおいが漂ってきて、小さく息を吐き出す。
 小さなコミュニティーには逃げ場がなかった。馬鹿みたいに律儀に、夜中に爪を切るという習慣を続けている私には、息苦しい場所だった。咎められたくない。不幸であることを許されたい。いつまでも私は不健全な子供でありたかった。月から手元に視線を戻し、左手の薬指、その先端に刃を突きつける。やんわりと正しさを押しつける人たち。背を預けているベッドから振動が伝わってきて、私はそちらを見る。もぞもぞと心地のいい場所を探していた彼は、少しして私に顔を向けた。

「ごめん」
「……名前さん」

 何に対する謝罪かなんて言わなくても分かるだろう? 爪切りを床に置き、誰の温度もないシーツに頬を寄せる。ここはどうしようもない子供の巣だった。

「なにも悪くないです」

 くぐもった声と共に私の頭に何かが触れる。名前さんは。月光が痛い。違う。そこに当てはまるのは私じゃなく、君なのだ。髪に触れていた手が離れ、のろのろと顔を上げる。体を起こし、布団を肩に引っ掛けたままの咲也くんを見て、私の中の何かが瓦解した気がした。ベッドの縁に両手をかけて立ち上がる。ちゃんと腰かけて、それから片足ずつシーツの波を滑らせていくと、慌てたように咲也くんが自分の羽織っていた掛布団を私の足にかけてくれた。トラックの走る音が聞こえる。私はこの子のことをほとんど何も知らないなと思った。

「寒くないんですか」
「咲也くんは?」
「俺は平気です、……」

 いつの間にか壁際に逃げてしまった彼に近づく。二の腕。足の先。君の足は温まっている。壁に寄りかかって布団を手繰り寄せ、適当に二人の足をくるむようにする。ショートパンツではそろそろ寒い。連れてきてしまった、これは誘拐だ、なんて思っても、私はちゃんと監督に許可をもらったし、明日の朝には帰るとも伝えてある。大変なことになりたくなかった。咲也くんの不安そうな顔を見たくなかった。だけど、だから、引き払えずにいたこんなうす汚い部屋に入れることになってしまったのだ。咲也くんのズボンの裾に指を引っかける。触れている二の腕が動いて、驚いているのだと分かった。

「咲也くん」
「はい」
「ここで一緒に暮らそうか」
「え……」
「苦しいよ、あんなの地獄だ……」
「……名前さんは、みんなのことが嫌いなんですか?」

 じわと眼球が熱を持ち、裾に引っかけた指を引っぱる。嫌いだなんて簡単に言えたら、この部屋はとっくに消えていただろう。咲也くんの膝頭に額を乗せ、言葉の意味を咀嚼していく。たぶん誰も悪くないし、私は誰のことも嫌いじゃない、嫌いな人間のいる場所で働けるほど精神的余裕があるわけでもなかった。でも嫌いじゃないからってずっと一緒にいられるはずもない。時々縋るような声を出すこの子とだって。

「嫌いだ」

 また撫でてほしいと思った。くだらない私をそれでも認めてくれるのは咲也くんだけだと思いたかったのかもしれない。不幸でいたい自分と、不幸性を信じられない自分がいる。抱きしめるように彼の手が肩に回された。涙を見せてはいけないと思っていたけれど、どうせ声で気づかれてしまう。

「でも俺は」

 私よりよっぽど泣きそうな声で咲也くんが言う。

「みんなのことも、名前さんのことも好きです」

 正気ではなかった。誰も彼も。きっと私の言う嫌いとこの子の言う好きは同じなのだ。異性としての厭らしさや居心地悪さなんて微塵もない「好き」という単語、それから肩に回された温かい腕、額に触れている膝の硬い骨。だから戻りましょうとでも言いたいのだろうけれど、私は結局朝が来たら戻らざるを得ない。戻る。帰る。ゆっくりと夜は更けていく。目を閉じるとついに雨粒が腕に落ちた。
 涙が完全に乾いた頃、顔を上げると自然に腕が離された。ずっと同じ姿勢でいたせいで首も肩も痛い。咲也くんだってそうだろう。時間はそんなに経っていないはずだが、この静けさで満たされた空間は嫌に時の流れが遅い。窓の方を見て、そういえば爪を切り終わっていないなと思い出す。

「どうしたんですか?」
「小指だけ切ってないなって」
「ああ、爪」
「切る?」
「えっ」
「あは……見て」

 見つめていた手を、彼に見えるように掲げる。暗い中に手のひらの形がぼんやりと浮かんで、小指だけ先が透けているのが分かる。咲也くんは戸惑った空気を崩さないまま少しだけ首を傾げるようにした。そうしてひっそりと抵抗を示す声で、柔らかく言う。

「でも、失敗したら申し訳ないですし」
「そうだね」
「それに……夜に爪を切るって、あんまりよくないって聞いたことがあります」
「そうなの?」
「……知ってるのかと思ってました」
「知ってるよ、そりゃ」
「ええ……?」
「だから最後の一つを君にやらせたいんじゃないか」

 咲也くんが何も言えなくなるのを分かっていて、私は布団から足を出す。彼の口から、あ、と声が漏れるのを無視して、床に置いたままだった爪切りに手を伸ばす。温まった布団に包まれていたせいか、やけに寒く感じて窓を見た。でもいいか、どうせ彼の隣は温かい。立てていた膝を下ろし、彼は正座になっていた。

「そんなかしこまらなくても」
「いえ、なんか……その、き、緊張して」
「切ってくれるの?」
「え……だって」

 まずったなという表情をした彼は慌てたように手を口元にやった。その手を掴み、爪切りを握らせる。目が合う。瞬きを繰り返す彼が突き返すことはないと知っている。ずるい。私だって糾弾できない子供なのに。咲也くんは何度か視線を彷徨わせたのち、布団から抜け出して私が切っていた時にゴミ袋にしていたコンビニの袋を取った。私に向き合うように座り直した彼に左手を差し出す。彼の左手がそれを掴んで、心が痛む。ごめん。悪いのは私だと認識させてくれて、ありがとう。ぱちん。何も痛くない。この行為に痛みは伴わない。親を知らないという噂は本当なのだろうか。ただ黙って私の爪を切る咲也くんを見ることができない。小指の爪なんてすぐに切り終わってしまって、でも彼はしばらく私の手を離さなかった。熱い手だと思った。子供? 誰と誰が? 彼の代わりに爪切りとゴミ袋を床に戻す。

「あの」
「ん?」
「……なんでもないです」
「咲也くん」
「は、はい」
「……ごめんね」
「え、」
「誰も君を裁いたりしないよ」
「……名前さん」

 手を握る力が強くなる。つらいのだろうか。どうして、なんのために、彼はつらくなっているのだろう。膝立ちになって、彼の肩にもう片方の手を置く。反射的に逃げようとした咲也くんの瞳を至近距離で覗き込み、それが、ゆっくりと閉じられるのを見た。
 私とは違う柔軟剤の匂いが、私と同じシャンプーの香りが、汗ばんだ手のひらが、冷たい唇が、私に全てを思い知らせるために主張する。

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