こっちを向いてよ生意気さん



――赤い海が絶望だなんて、誰が言った。


カチリ。耳に届いたのは後輩が9mm拳銃に装弾する音だ。
振り向くと無表情で武器を操作する名字の横顔がある。
この世界では多くの色彩が赤色に上塗りされてしまっていた。ほんとうならこの横顔だって透けるような肌色をしていた……いや、それは贔屓目か。永井は苦笑した。名字は確かもっと、青白くて不健康な顔色をしていたはずだ。

「何楽しそうにしてるんですか。先輩、余裕ですね」

海辺の大きな岩影にもたれ、黒目がちの生意気な瞳がこちらを睨んだ。
武器の整備は終わったようで、いつでも然るべき時がきてもいいようにとしっかり握られている。

「いや楽しくはないけど」
「あたしの顔見て笑いました」
「頼もしいなあと思って」
「先輩は案外頼りないです」

この後輩はこんなにも口が悪かったっけなあ、と永井は記憶をまさぐる。
……正直、あまり覚えていない。数少ない女隊員ということで目立ちはしていたけれど、特別扱いはされていなかった。素行は平凡で対人関係も平凡。同じ機体で物資輸送訓練にあてられた際もとりとめのない会話を交わしただけで、特別思考に引っ掛かるような特徴もなかった。

「先輩、この世界に飛ばされた途端に発狂するし、暴れて銃乱射し始めるし、あたしが止めに入っても振り切ってどっか行っちゃうし。ほんと勘弁してくれません?」
「しょうがねえだろ……つか、名字が冷静すぎんだよ。ふつうはこんな散々な世界に落とされたら感覚狂っちまうだろ」

頼りない。ほんと勘弁。ずけずけと不躾に懐に入り込んでくる後輩の言葉を心地よく感じ始めているのも、ここへ来て感覚が狂ってしまったからだろうか。
実際、かつて上司であった三沢を撃ってからの永井の状況は散々だった。
最期までわかりあえなかった上司。自分を庇って死んでしまった先輩。人間を模した血みどろの少女。規格外にもほどがある巨大な化け物。
思い返しても頭がくらくらする。よくもまああれほど闘ったものだ。
メーターが振り切れたのも当然といえば当然なのかもしれない。この赤い海の世界に落とされた瞬間、立て続けに思考していた糸がぶっつりと切れてしまった。それを自覚する暇もなく、津波のように押し寄せてきたのは底知れぬ絶望だけだった。

『永井先輩ッ!! しっかりしてください! 死にたいんですか?!』

化け物だらけの赤い世界で響いた肉声に頭を殴られたのは、だから永井にとって肉体的にも精神的にも救いであった。
久方ぶりに聞いた、生きた声だった。振り向くと死に物狂いでこちらに駆けてくる名字の姿があった。
手首をつよく捕まれる。凛とした目が見上げてくる。しっかりしろ。瞳がなによりもつよく訴えていた。
永井が正気に戻ったのはその直後だった。
だからこそ思う。きっと名字がいなければ、自分は死んでいた。

「危うく流れ弾くらうところでした」
「悪かったって」

口を尖らせる後輩の頭を、謝罪と感謝を込めて撫でてやろうと腕を伸ばす。しかし素早い動きで屈んでかわされ、その可愛いげのなさに永井はまた苦笑した。
「避けるなよ」「そういうの鬱陶しいです」なんてことを真顔で言ってのけるけれど、彼女のこのはっきりしすぎた性格ならば、ほんとうに鬱陶しいのなら自分は今いる世界に落ちた瞬間に見限られていただろうと思う。
助けてくれたときだってそうだ。『足引っ張んないでくださいよ先輩』と毒づきながらも、一度気の触れた永井の腕を掴む小さな手にはありったけの力が込められていた。
小柄な、しかも女の後輩に命を救われた。口が悪ければ態度も悪い。冷静なようでわりに乱雑で、武器の扱いは男顔負けの堂の入りっぷり。

『今度発狂したら置いていきますから』

それが、永井が我に返ってからまともに顔を合わせた際の言葉だった。
生意気だと思った。俺だったら沖田さんにそんな言葉遣いはけしてしないとも思った。けれど、こんな異常事態においてもここまで冷静沈着に生意気な口を叩けるのだから大したやつだ。
思考が正常に戻りつつある頃には、後輩に助けられたという情けなさから若干萎れていた永井も引け目を感じることはなくなった。
発狂なんて二度とするはずがない。こんなにも強くて、生意気な女が隣にいるのだから。

「そういえば昨日海岸で見かけたヤツ、やっぱ沖田さんかな」
「じゃないですか。背丈とか顔のつくりとか、同じだったんでしょう」
「てことは三沢さんも」
「……可能性はあると思います」

珍しく名字の語尾が弱まる。
見ると正面を向いた睫毛が少しだけ伏せられている。つんと伸びたそれは名字の肌に影を落としていた。深呼吸の音と同時に不安げにふるりと揺れる。……こんなやつでも一応、怖いものはあるらしい。
なんつってもあの三沢三佐が敵サイドにいるかもしれないのだし。俺だって不安はある――永井は自分の掌に視線を落とし、それからぎゅっと握りこんだ。
今度は、自分が取り払ってやりたい。敵や不安からも。できれば、この赤い海の世界から。奪われた世界を奪い返す。せめて後輩だけでも助けたい。
……先輩である沖田が、永井にそうしてくれたように。
生ぬるい風が吹きつけた。潮のにおいが立ちこめる。
呻き声が聞こえたのは、その直後のことだった。

「――、―――」

聞き取れない言葉を発しながら現れた紛い物の人間、その顔には、見覚えがあった。
沖田だ。
手には機関銃が握られている。
沖田が狙撃の名手であることを、バディを組んでいた永井はよく知っている。
永井は俊巡した。この距離はまずい。

「やばい。逃げろ!」

名字の肩を押した。二人揃って走り出す。ちらりと振り返ると、今まさに沖田が銃を構えていた。
重たい音が響く。ほとんど同時に金属がぶつかり合う嫌な音がした。名字の手から9mm拳銃が吹っ飛ばされていく。
数歩先を行く名字が立ち止まった。ここへきて唯一の武器を飛ばされて動揺したのだろう、地面に叩きつけられた銃身を拾おうと身を翻す。

「バカ、構うな!」
「でもっ」
「いいから走れ! 振り返るな!」

先程よりも強く、名字の肩を前へと押しやった。
名字の身体は少しの抵抗の後、諦めたように走り出した。
永井は勢いよく沖田へと向き直った。
銃声が響き、永井の頬を掠めていく。

「沖田さん、」

不出来な後輩ですいません。
でも、沖田さんなら笑って許してくれますよね。

「先輩ッ……」

銃の照準を合わせた。名字の声が聞こえた。それを合図にトリガーを引く。
けたたましい音が鳴り響き、沖田がくずおれた。
肩から力を抜いた。腰を屈めて名字の9mm拳銃を拾い上げる。
「ほら」黒い銃身を返してやると、名字は少しだけ手を震わせてそれを受け取った。

「先輩」
「ん?」
「頬、血が出てます」
「ああ……さっき擦った」
「すみませんでした。あたしが余計なことしたから、先輩の動きを遅らせてしまった」

そんな場合ではないとわかっていたが、永井は若干感動していた。
こいつ、この口は、ごめんなさいを言えたのか。
珍しくしおらしい名字の視線がついと横に逸れる。
先ほどまで自分たちが留まっていたあたりをじっと見据える。赤い空に浮かぶ黒い太陽と同じ色をした、物言わぬ塊が横たわっている。

「沖田さん、あたしもよくしてもらいました」
「うん」
「いつもニュートラルで、でも優しい方でした」
「だろ。知ってる」
「……すみませんでした」

たぶん名字は、自分に先輩を撃たせたことを謝っているのだろう。
人間の殻をかぶった化け物。たとえ表面だけだとしても、それがどれほどの悲しみの種となるか、あの島で一度は沖田を葬った永井は身をもって経験している。
沖田だけではない。三沢も、他の隊員たちも、大勢。
あんだけ苦労してこの世界かよ。まったくやってられんねえ。ふつふつと沸き上がり、ちりちりと焦がれる、どん底の精神。

「謝んなよ。名字がそんなんじゃ、帰れる気がしない」
「……先輩はあたしのこと買い被りすぎです。あたし、ここへ来て少し変なんです。変にならないほうがおかしい。先輩だってそうだったでしょ」
「バカ。頼りにしてるってだけのことだよ。お前はもっとお前らしくいてくれ。そのほうが俺も助かる」

沖田さんのことは気にしなくていい。遅かれ早かれ、昨日海岸で見かけたときからこうなることは予想していた。
永井が頭に手を伸ばすと、名字は今度は大人しく受け入れた。髪をくしゃくしゃと撫でつけられてもされるがままだ。

「大丈夫。きっと帰り道はある」

絶望はした。しかし救われた。
救いの手は小さかったけれど、永井の手を掴んで離さない、確かな道標だった。
きっと帰れるはずだ。赤だけではない、青も緑も白もある色鮮やかな世界に。
一人では狂うことしかできなかった。だからこの後輩には、隣にいてもらわなければならない。

「……っ、先輩、そろそろ痛いです」
「あ、すまん。なんか犬みたいでつい」
「先輩には言われたくないです。沖田さんに散々、忠犬永井って言われてたでしょう」
「おま、それを言うなよ……。沖田さんはな、すげーいい先輩だったんだからな。俺なんか比べ物になんないくらい、」

名字が小さく笑った。
知ってますよ、と、小憎らしい、明るくて、健全で、生意気な笑みで。

「まあ、永井先輩がああなったら、あたしが迷わず撃ち殺してあげます」

だから安心してください、と名字は肩を竦める。
――まったくよく出来た後輩だ。
口約束だとしても十分だ。人間とは案外脆い。強く踏みとどまることよりも泣き崩れることのほうが容易だ。
泣き崩れるしかできなかった自分と比べて、この後輩はよっぽどしたたかに生きている。
だから名字、もし、もしも、赤い海で一人きりになっても絶望してはいけない。

「俺が死んだら真っ先に名字を助けてやるよ」

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