情けない。本当に情けない。なんてこった。

羽生蛇村唯一の医院で勤務をして早くも数年、風邪の「か」の字も知らない様な私が(決して馬鹿ではない)風邪を引いた。朝起きると喉がイガイガするし、なんか頭痛いし。大事を取って休ませていただくなんて普通の病院なら良い(いや、良くはない)かもしれないけれど、うちは特殊なのだ。そんな事は出来ない。

「なまえ」
「ひっ!」
「…なんだ、随分と失恋な態度だな」

そう、この男が。

「何をボーッとしている?」
「いえ、」
「勤務中だ、早くカルテを取ってくれ」
「は、はい」

名を犀賀省悟、この犀賀医院の若き院長である。そして余談だが私の将来を強引に約束した男だ。彼は家庭が少々複雑な様であまり温もりのある人間ではないが、それにしても限度というものがあるのではないだろうか。

「…勤務中だと何度も言わせるな」
「すみません」

(一応は)私の彼氏だと言うのに、彼の日常を見ていると私よりも他の看護婦さんの方が優遇されているのは気の所為ではないのだ、悲しい事に。最近ここで勤務し始めた幸江ちゃんはまだこの辺りの事はおろか院内の事も分からない。そんな幸江ちゃんに真っ先に手を差し伸べたのは犀賀先生だったし。私の時なんて入口の案内板で覚えてくれとしか言わなかったのに。
あまり顔には出さないが、やっぱりそういう所は幸江ちゃんにジェラシーを感じざるを得ないのである。年増よりぴっちぴちの女の子が良いってか…。

「はぁ…っあ!」

お前らしくもないだなんて言いながら背を向けた先生にこれ見よがしに溜め息を吐いて、これから使うアンプルへと手を伸ばした。が、やっぱり考え事をしていたのが祟ったのかもしれない。棚から離れたアンプルは更に私の手から滑り落ち、床へと真っ直ぐ落下した。

「…おい」
「いっ、た…」

アンプルが無惨な着地をする寸前でどうにか救助する事は出来たけれど、焦ってもたついた足は踏ん張る事も出来ず、私はそのまま目の前にある引き出しに頭を強打した。大きな棚だから倒れる事は無かったけれど、ごつりと音を立てて揺れた棚に一瞬冷や汗を掻く。

「お前、本当におかしいぞ」
「すみません、ちょっと立ちくらみで…」
「顔色も悪い、少し休んでこい」


ありがとうございます、と言ったのか全然大丈夫ですと言ったのか…そこからの記憶は酷く曖昧で。

「せん、せ…」
「〜っ、なまえっ!」



ふにゃふにゃと暗転した世界へ呑まれた私が次に覚えているのは白くふんわりと私を包み込む世界。

そう、私は遂に倒れてしまったのだった。

「…やってしまった」

滅多に来ない、殺風景極まりない広い場所――ここは紛れもない先生の部屋だ。私は先生の目の前で倒れて運ばれたのか…。

壁に掛けられている時計を見ると、丁度午後の診療が始まる時間だ。という事は、私が倒れて優に数時間経つという事か。


「先生…」

ガンガンと重く響く頭に迷惑を掛けてしまった、その一言が重くのし掛かる。ただでさえ少ない看護婦なのに私が抜けたら先生の負担が増えてしまう、でも私なんかが居なくても先生は幸江ちゃんとやっていけるだろうし、私なんかより幸江ちゃんの方が…だめだ、辛くなってきた。

布団に潜ってしまえば寒気に包まれていた体にはほんの少しだけ温もりが宿っていく。それがどうしても先生に抱き締められているみたいで、先生の布団であるにも関わらずぼろぼろと涙を溢した。

「さいあくだ…」
「何が『さいあく』なんだ?」
「…ん?」
「具合はどうだ?」
「さっむ!」

布団の中でもぞもぞ暴れていると、突然布団が吹っ飛んで(駄洒落ではない)冷たい空気が私を突き刺した。そして聞こえた声の正体は、

「せ、先生…?」
「やっと起きたか」

涙も思わず止まる。だって本来は勤務中の筈である先生がここに居るのだから。
あまりの驚きで私は「あ」だとか「え」だとか、吃る事しか出来ない。何だ、赤ちゃんか私は。

「顔色が悪いと思ったら倒れるなんてな」
「す、すみません…」
「いや、気付かない俺の方こそ悪かった」
「こちらこそご迷惑を…」
「医者だからな、当たり前だろう」
「…ありがとうございます」

さいですか、医者だからですか…。そこは仮にも彼氏なんだから普通「将来の旦那として面倒を見るのは当たり前だろう」とか言ってほしかったんだけどな、迷惑を掛けた人間が言える事でもないけどね。ただちょっとくらいそんな夢を見る事は許される筈。

「薬だ、早く飲んで治せ」
「はーい」

付き合っているからといって私は彼のテリトリーに入る事は許されていないし、彼が私のテリトリーに入ってくる事もない。付き合っているのかいないのか、全くもって不思議で曖昧な関係。彼にとっての私は彼女か、はたまたペットか何かか…私の小さい脳味噌には大変処理が難しい問題である。そんな事を考えながらも先生から水を受け取ってカプセルを取り出した。
必要な薬だけを取り出して、あとは紙袋ごと布団の上へと置いておく…と、白い袋の上に、プリントされたものではない、しっかりと太ましい黒が映えていた。…あれ?

「先生、」
「何だ」
「これ、『常備薬』って書いてるんですけど…」
「…」
「なんで常備薬なんですか?」
「五月蝿い、お前が突然倒れるのが悪い」

あれれ?これはもしかして?


「つまりは焦って薬を選んでいられなかったと?」
「…どうだろうな」
「…なんだ、愛されてるぅ」
「早く寝ろ」

このあと有頂天に昇った私はグーで殴られて寝かし付けられましたとさ、めでたしめでたし。

とびきり甘い薬漬け

「…お前が心配で薬を選んでいる時間が惜しかった」

私が元気になったらまずこの言葉を追及してやるのだと、優しい微睡みに飲み込まれた曖昧な意識で決意するのだった。

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