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夏バテ

退屈だった体育の授業が終わり、はしゃぐクラスメイトの声をどこか遠くに聞いた。
備え付けられた校庭の水道で、降参したくなるほど熱くなった頭を冷やそうと思い切り水を被った。
小さく目を開けて頭を左右に振る。
短い髪から滴る透き通った水を振り払うと、飛び散ったいくつもの雫が照り付ける太陽に反射してキラキラと輝いた。
夏。じりじりと焼くような太陽と、何処までも大きく成長した入道雲。そこに一直線に伸びていく飛行機雲が空のコントラストをより一層強調しているように見えた。
肌に触れていた冷たかったはずの水は見る影もなくすぐに熱くなって、気怠さが増したことに気が付いた俺は手洗い場の淵を掴みながら小さく息を吐いた。

ふと、視線を感じて目線だけでちらりと横を向くと、同じクラスの降谷くんが肩にかけたタオルで汗を拭いた姿勢のままぼんやりと立ち尽くしていた。
少し眩しそうに細められた瞳はついさっきまで見ていた空と同じ色。
容赦なく照り付ける陽光で輝いている薄い色の髪は、視界の端で見た輝く雫を思い出させる。
そんな降谷くんの頭の向こうに、教室から誰かが飛ばしたのだろう。不安定に飛んでいる白い紙飛行機が見えて、俺は目の前の彼と同じようにゆっくりと目を細めた。
すると彼は俺の視線を追うように振り向いた。

「…どうしたの?なんか、あった?」
「あ…いや、…紙飛行機」

後ろを向いた彼のうなじを透明な汗が流れていくのが見えた。
俺の返答を聞いた彼は「なんだ、そんなことか」と言いたげに目線を逸らして、次々と伝う汗をタオルで拭っていく。
そのまま2人とも黙りこくってしまって、なんだか気まずい空気が流れた。
クラスの中でもグループの違う俺たちは普段からほとんど話すこともなく。
そのせいか、今まさに降谷くんに話しかけられたこと自体が俺にとっては驚くべきことだった。
ちらりと彼の方を盗み見る。
色の濃い肌の所為か分かりにくかったけれど、暑さに負けてほんのりと上気した彼の頬が何だか見てはいけない物に思えて、俺は気が付かないふりをしてその赤みから目を逸らした。

「なにしてんだよみょうじ!教室戻るぞ」
「おー!」

少し離れたところから飛んできた友人達の呼び声でハッと我に返る。
振り返ってその声に反応してから、いつも通りそちらに向かって走り出そうとした足を止めた。
なんとなくもう一度降谷くんに向き直ると、彼は変わらずにぼんやりと地面を見ていた。
それからたっぷりと悩んで答えを導き出した俺は、友人達に手を上げて大きな声を出した。

「…あー、…ごめん!用事できたから先帰ってて!」

俺の言葉に反応したのは友人だけではなくて、降谷くんも顔を上げて不思議そうにこちらを見た。
背を向けて玄関に進んでいく友人を見送った俺は照り付ける太陽の下で、ついさっき見て見ぬふりをした、彼の逆上せたような赤い頬に向き合う。

「降谷くん、歩ける?」
「は…?何の話?」

何を言われているのか分からないと言った様子の彼はあからさまに眉間に皺を寄せてこちらを見た。
俺はその反応に苦笑しながら、その力が抜けた腕を掴んだ。
お互いの汗でしっとりした肌同士がぴったりとくっ付くのを感じてから、今更になって、スキンシップとか嫌いなタイプだったらどうしよう。と後悔しながら前を見る。
すると、突飛な俺の行動に驚いたように立ち尽くした降谷くんが口を少し開けてこちらを見ていた。
見開かれた紺碧が少し白んで見える。

「みょうじ…?」
「降谷くん、顔赤いよ。暑いから体調崩した?」
「へっ…?いや…」
「無理しなくていいから。保健室行こう。着いて行くから」

言っている間にもとめどなく流れる汗を乱暴に拭いながら周りを見る。
近くを歩いていたのは、あまり話したことのない大人しい印象の背の低い女子だった。
確か、名前は渡辺さん…だったはず。
あまり自信がなくて、いつもより小さい声で名前を呼んでみると、彼女は弾かれたように振り向いてぱちぱちとその大きな瞳を瞬かせた。
どうやら、名前は当たっていたらしい。
俺はその事実に安心すると、不思議そうにこちらを見て俺の名前を呟く彼女に向かって下手くそに笑って見せた。

「みょうじくん…どうしたの?」
「降谷くんが、体調悪いみたいだから保健室連れてく。渡辺さんから先生に言っといてくれないかな?」
「あ…うん。分かった」

彼女は、俺に手を引かれたまま俯いている降谷くんを視界に入れると、その白い頬を少しだけ赤らめて俺の言葉に返事をした。
彼女の動きに合わせて、綺麗に結われた髪が揺れる。
ふうん。渡辺さんって降谷くんのこと。
青春。
その二文字がぴったりな雰囲気に首のうしろがむず痒くなった。
確かに降谷くんって、女子にモテるもんな。
何故か突然蚊帳の外に追いやられた俺は少し唇を尖らせると、渡辺さんとの会話を半ば無理矢理終わらせた。
そして、変わらずに黙ったままの降谷くんの手を引いて日陰のない校庭から、そして彼女の逆上せてしまいそうな視線から逃げるように歩き出した。


「先生ー。ベッド貸して!」
「もう、またなの?みょうじくん」

少し立て付けの悪い保健室のドアをなるべく音を立てないように開けた。
中を覗き込んで小さく声を出すと、先生は別の生徒の怪我を手当てしているようで、こちらに視線を送ることなく、呆れたように眉を下げて優しく笑った。
けれど、遅れて入ってきた降谷くんが「失礼します」と声を出すと、彼女は少し驚いたような顔をして俺たちを交互に見る。
艶のある長い黒髪がかけていた耳から落ちてきて、さらりと流れるのが見えた。

「さっきまで体育だったんだけど、ちょっと体調悪いみたいで」
「あらら…じゃあみょうじくん。彼のこと案内してくれる?」
「はーい」

手が離せない先生の指示に従って教室の奥まで進んだ俺は、慣れた手つきで窓際のベッドに続くカーテンの仕切りを手で開いた。「俺、常連なんだ」そう言って悪戯っぽく笑いながら、整えられた硬いベッドに降谷くんを誘導して座らせると、俺は近くにあったパイプの丸椅子に音を立てて座った。

「ふー…あっちぃー…降谷くん、大丈夫?」
「え、あー…うん」

体の中の熱い空気を追い出すように思い切り息を吐きながら、体操着の裾を握って服の中に新鮮な空気を送り込むために乱暴にパタパタと振った。
額から流れる汗を拭こうとそのまま裾を持ち上げた。上半身が外気に晒されて、幾分か涼しく感じたその時。
きゅう、とベッドに座る彼の喉から聞いたことのない音が聞こえた気がして隣を見ようとすると、先生の声と共に少し埃っぽい仕切りのカーテンがゆっくりと開いた。

「みょうじくんごめんね。先生、ちょっと席外すんだけど…」
「あーうん。大丈夫ー。勝手にやっとくから」
「何を言ってるのかしら…自分の家じゃないんだから。…まったく。…あら?」

調子の良い俺の言葉の所為か、少し呆れたような表情でこちらを覗き込んでいた先生の視線が、腹筋を晒したままの俺とベッドに座っている降谷くんを交互に見た。
それから、彼女は少し眉を動かして俺に声をかける。

「…みょうじくん、だらしないわよ。お腹、しまいなさい」
「うん…?わかった」

今までそんなこと言われたことなかったのに。不思議に思いながら言う通りに身なりを正す。
すると先生は何故か降谷くんに向かってにっこりと笑いかけて、女性らしいぽってりとした唇に人差し指を当てた。
首を傾げた俺に手を振った彼女はひとつにまとめられた長い髪を揺らして振り返ると、後ろ手にカーテンを閉める。
遠のいていくヒールの音に続いて保健室のドアが閉まる音が聞こえた。
近くの木にとまったのだろうか。蝉の鳴く声がひどく煩く聞こえた。

「…?先生、どうしたんだろ…」
「敵わないな…」

蝉の声に掻き消されてしまいそうな程の、ほとんど聞こえない声量でぼそりとそう呟いた彼は、片手で顔を覆いながら小さく頭を揺らした。
そんな様子を見て初めて、ここに彼を連れて来た理由を思い出した俺は、眉を下げながら彼の顔を覗き込む。

「あっ、降谷くん?大丈夫?」
「あ、あぁ…」

俺の声に反応するかのように、髪の毛と同じ色の長い睫毛が震える。
木陰で冷やされた風が室内に送り込まれるたび、薄いカーテンがたっぷりと膨らんで揺れた。
金属のバットにボールが当たる、軽くて甲高い音がどこか遠く聞こえた。
大丈夫だと彼はそう言っているけれど、その頬は相変わらず少し赤らんで見えた。

「まさか水、ちゃんと飲んでないとか…?」
「え、あー…そう言えば」
「やっぱり。俺、買ってくるから。キツかったら横になっててもいいよ」

俺は彼の言葉に反応するや否や、自分の体温ですっかり生暖かくなったパイプ椅子から立ち上がった。
ドアを開けて教室から外に出た途端、蒸し暑い空気が襲い掛かるように全身を包み込む。その不快感を隠すことなく、ぎゅっと思い切り眉根を寄せた。
長い廊下を進んだ先、渡り廊下の比較的涼しい日陰だけを選んで歩きながら、降谷くんもやっぱり人間なんだな。なんて勝手に失礼なことを考えた。


静かに戻った保健室では、出ていくときに無意識に開けっ放しにしていた仕切りのカーテンから、どこか憂いを帯びた顔で外を見る降谷くんが見えた。
なんだか、邪魔をしてはいけないような、そんな雰囲気。
声をかけようと開けた口から音が漏れることはなく、ただ熱い息だけが漏れるように出ていった。
握ったままのミネラルウォーターのボトルから、重力に耐えきれなかった水滴がぽたりと落ちていく。
それを見て悪戯を思いついた俺は、小さく笑いながら未だ外を見つめる彼にゆっくりと近づいていった。

「ふーるや!」
「うわっ」

言いながら彼の首筋に、ペットボトルを思い切りくっつけてやる。
飛び上がるように驚いた降谷くんは、瞳をこれでもかと見開いて、首を押さえながらこちらを見上げた。
思わず漏れそうになる笑い声を何とか抑えながら仕切りのカーテンを今度はきちんと閉めた。

「…びっくりした?」

すっかり汗をかいて水滴のついたミネラルウォーターのボトルを突き出して、とびきりの悪戯が成功した子供のようにニッと笑ってやる。
すると彼はまた、さっきみたいにひどく眩しそうに目を細めた。

「ごめんね。驚かせて。はい、水で良かった?」
「あ、あぁ…ありがとう」

俺の手からボトルを受け取った彼は軽々とキャップを開けてそのまま口を付けた。
傾けられたボトルから水が減っていく様子に少し安心しながら、椅子に座り直す。
上下に動く降谷くんの喉仏と風に吹かれてそよぐ青々とした木の葉を交互に眺めた。
ちゃぷん、と軽い音を立てる水の音が心地よく耳に届いた。

「俺にもちょうだい」

はにかみながら言うと、何秒か思考した彼は手の中のそれをこちらに差し出してくれた。
軽い調子で礼を言いながら受け取ったペットボトルを傾けて同じように冷たい水を喉に通していく。
嫌になる程ぬるくて鉄の味が混ざった外の水道水とは違って、味まで透明に感じるミネラルウォーターは、なんだか頭の芯まで冷やしてくれるようだった。
夢中になって飲んでいる俺を眺めたままずっと黙っていた降谷くんが突然口を開いた。

「…さっきの女子。渡辺さんだっけ?…みょうじに気があるみたいだったな」
「っ…!?っ…ごほっ…へ?」

突拍子もないその言葉に、思わず思い切り咽返った。
きちんと飲みきれなかった水が汗と一緒になって首筋を伝っていく。
渡辺さん?なんで、え?…え?意味を持たない言葉が口を通っていくたび、記憶の片隅で綺麗に結われた髪が揺れる。
笑っているような、そうではないような、何とも言えない表情の降谷を見ていたら徐々に意識がクリアになっていって、俺は慌てて濡れたままの口元を袖で拭いながら彼の言葉に反論した。

「何言ってんの。俺、ほとんど話したことないし。どう見たって本命は降谷だったじゃん…俺が虚しくなるからそういうこと言うのやめろよなー…全く…」
「……」
「降谷、格好いいからモテるもんなぁ…。その瞳。夏の空みたいできれーだし」

肘をついて言いながら拗ねたように唇を尖らせた。
手の中の口の開いたままのボトルを揺らすと、涼し気な音を立てながら透き通った水が踊った。
その時彼から目を逸らしていた俺には、降谷のその瞳が思い切り見開かれて、何かを決意したように口を噤んだその様子に気が付くことができなかった。

「みょうじって…」
「…うん?」
「ごめん…」

絞り出すように発せられたその言葉の意味をとっさに理解できずに顔を上げながら眉を寄せる。
彼の表情は長めの前髪に隠されていて見ることができなかった。

「えっちょ…降谷…?」

次の瞬間突然腕を掴まれて、体調が悪いとは思えないくらいの強い力で引っ張られた。
握っていたペットボトルが手から離れて床にぶつかると、乾いた音を立てて転がっていくそれの中から残っていた水が勢いよく流れ出た。
意思のない液体は古くなった校舎の、所々ワックスが剥がれてしまっている床に染み込んでいく。
体制を崩した俺が慌てて手をついたのは、今まさに降谷が座っているベッド。

「おわっ…っぶね…」

ベッドの軋む嫌な音が静かな保健室に響いた。
咄嗟に顔を上げると、降谷の嫌味なほどに整った顔が眼前に迫っていた。
部屋に入り込む風が彼の綺麗な髪をふわりと揺らす。
伏せられた長い睫毛が瞳に影を落として、そのまま消えてしまいそうなほど儚い。
そんな彼から、目が離せなくなった。

「みょうじ、ごめん」

もう一度謝り直した彼のその言葉を聞く直前、その紺碧の瞳に映る俺は、自分でも見たことがない程に驚いた顔をしていた。
しなやかな長い指で顎を強引に持ち上げられた。
休む間もなく唇に触れた、熱くて柔らかい感触。水を飲んだせいか、しっとりしたままの唇同士が離れなくなってしまいそうな程にぴったりとくっ付いた。
けれどその感触は一瞬のうちに離れていって、俺の目の前にはただ少し目元を赤らめて自身の唇を親指で押しているクラスメイトだけが映し出される。

「嘘、付いてた」
「は…?え、え…?」
「実は体調、悪くなかった。お前に…みょうじに、見惚れてた」

ほんの一瞬だけ視線を彷徨わせた彼が、先ほどまで俺と触れ合っていた部分を動かして言葉を紡ぐ。
混乱してしまって何を言われているのかわからなかった。
室内に送り込まれた風が勢いよくカーテンを押し上げた。

「綺麗なのは、みょうじだろ」

じゅわり。
紙に落としたインクが滲んでいくみたいに顔全体に赤みが広がっていくのが自分でも分かった。
分かってしまって、余計に熱くなる。
思わず後ずさった拍子に、不幸にも思い切り踏みつけられたペットボトルが悲鳴にも似た歪な音を立てた。
真っ直ぐこちらを見るその紺碧の瞳には、彼の言葉に嫌悪するでもなく、ただ顔を真っ赤にして口を何度もぱくぱくと動かすだけの自分が映っていた。

「な、な…」

ここまでされて、やっと気が付いた。
校庭に立っていた彼は、照り付ける太陽がまぶしかった訳ではなかったのだ。
こちらを見る愛おし気に細められた瞳に、赤らんでいく彼の頬に、俺の中での恥ずかしさの許容が限界を迎えた。

そこからはあまり覚えていない。
気が付いた時には音を立てながら保健室から飛び出していて、叫び出したくなりそうな恥ずかしさを、うだるような暑さを、両手足を全力で振って走ることで誤魔化そうと必死になった。
均等に並べられた廊下の窓から見えるのは、遠くなる程に色が薄くなっていく空。
途方もない美しさが途端に恨めしくなった俺は、その夏の果てを思い切り睨みつけた。