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見果てぬ宇宙

月も星もすべてが分厚い雲に隠されて、呑み込まれてしまいそうな暗い夜。
毎日同じ時間になると必ず閉じ込められる薄暗い部屋に、僕は今日も自分から足を踏み入れた。
すぐ後ろで扉が閉じられる重苦しい音。続いて聞こえてくる鍵のかかる乾いた音に、身を小さくして目を瞑る。
夜なんて大嫌いだ。
何も悪いことなんかしていないのに、なんだかお仕置きでも受けているみたい。

「…父上」

返事はない。
扉の向こうに居たはずのその人物は、僕の声に答えることなくどこかに歩いていってしまったようだった。
諦めて小さく息を吐いて、肩に乗せた上着を手で掴みながら部屋の奥に歩いていく。
小さな部屋の中には大きないくつかの本棚と、簡易的な椅子と机。
そして一番奥の窓際に置かれているのは、埃っぽいこの部屋には似つかわしくない、天蓋付きの大きなベッド。
それが床の面積の大半を占めていた。
元は物置だったこの部屋が自分のために用意されたのは、一体何時の事だっただろうか。
机の上の蝋燭を吹き消すと部屋の中が闇に包まれた。
小さく軋む床の音を聞きながら、たっぷりとした薄いレースの布地を持ち上げて窓際に設けられたベッドに腰を下ろす。
広いベッドの中を移動して、内側からは決して開くことのない窓から外を覗くと、広くて大きなこの屋敷の庭と、酷く狭い夜空が見える。
いつの間にか降ってきた大粒の雨が窓を叩く音だけが心地よく耳に届いた。
そっと手を伸ばして触れた窓ガラスが冷たい。

「もっと、広い空が見たいよ…」

毎日のように呟くその小さな夢は、誰の耳にも入ることなく消えていく。
物心ついた時には、屋敷から一歩も外に出して貰えなくなっていた。
どうして外に出てはいけないのか。どうして、こんな部屋に閉じ込められなくてはならないのか。
その当然の疑問を一度だけ口にしたことがあった。
けれど父も使用人も誰も僕の言葉に答えてくれることはなかった。
屋敷には人が沢山住んでいるはずなのに僕だけがずっと一人で寂しい。
この広い家の中には自由なんて一つもなかった。
膝を抱えながらそっと握りしめた手の中の大きなルビー。
それは父に貰った唯一のプレゼント。
大きくて果てしなく綺麗なその宝石は薄暗い部屋の中で、差し込む光なんかなくてもキラキラと綺麗に輝いて、真っ白なシーツを自身と同じ綺麗な赤色に染め上げた。
それを見ながら横になっていると襲ってくる眠気。
柔らかいベッドに身を預けた僕は、手の中に宝石を握ったままゆっくりと目を閉じた。


昨日の雨が嘘のように爽やかな朝。
その日は、朝から屋敷中が騒がしかった。
やっと出ることができた廊下できょろきょろと辺りを見渡していると、見慣れた使用人の他に警察の姿もちらほらと確認できた。
不安そうに端の方で固まるメイドたち。そして、慌ただしく走り回る人々。
家の中で何かあったのだろうか。
とにかく着替えようと自室に向かって広い廊下を駆け出したその途端、大きな手に手首を掴まれた。
足を止めて見上げると、父が怯える僕を無表情で見降ろしていた。

「…父上?」
「来なさい、なまえ」
「あ、あの…何かあったのですか?」

小さく呟いた僕の疑問に、父から言葉が返ってくることはなかった。
俯きながら長い廊下を歩いていく。
一切抵抗しない僕を引っ張りながら歩く父の広い背中は、口答えは許さない。そう言っているようだった。
長い廊下を二人共無言で、ただ歩いていく。
久しぶりに感じた父の体温に少し安心してしまった僕は、開こうとした口をそのまま噤んだ。

「ルビーは、きちんと持っているか?」
「え…?はい」
「…そうか」

やっと父が足を止めたのは、いつも閉じ込められるあの部屋の前。
いつもと違うのは部屋の両側を守るように使用人が立っていること。
嫌な予感が身体中を駆け巡る。
まさか、またここに入らないといけないというのだろうか。
まだ朝になったばかりだというのに。
なかなか動こうとしない僕の代わりに、父が目の前のドアを開けた。
その顔はすぐに入れと、そう言っていた。

「父上?僕、あの…」
「入りなさい」
「どうして、まだ、夜じゃ…なにか、あったのですか?」

言うことを聞かない僕に痺れを切らしたのか、父は掴んでいた僕の手首を引っ張って無理矢理部屋の中に押し込んだ。
バランスを崩して床に尻もちをついた。そうしている間に目の前の扉が閉められる。
軋む蝶番。完全にドアが閉まる前、無表情の父の両目が真っ直ぐこちらを見ていた。
鍵の閉まる乾いた音にふと我に返った僕は、慌てて目の前の扉に縋りついた。

「父上!出してください!お願い!」

そう言えば初めてここに閉じ込められた時も一日中泣いて、大きな声を出したっけ。
小さかった頃のことを久しぶりに思い出した。
けれど今日だって、あの日と同じように僕がどんなに騒いだところで父が返事をすることはなかった。
きっともう、この扉の前にすらいないのだろう。
やがて諦めた僕はドアに背を向けて力を抜くと、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
意味が分からない。
どうして僕だけ、何も教えてもらえないの。

「――…怪盗…キッド…」
「そいつが――と、なまえ様を…―、…」
「だから旦那様は、あんなに…――」

背にした扉の向こうから、使用人の話し声が微かに聞こえてきた。
すぐにそれが今起こっていることの話だと気が付いた僕は物音を立てないように慎重に扉に耳を当てた。
「怪盗キッド」鮮明に聞き取れたその単語を呟く。
怪盗?怪盗が、何か盗みに来るのだろうか。
この屋敷は大きいし、きっと僕の知らない高価なものはたくさんあるだろうから、何を盗むのかは分からない。
分かることといえば、自分の持っているこの宝石だけ。
手の中の真っ赤な宝石を持ち上げて、光に反射してキラキラと煌めくそれを見つめる。
今までだって何度も何かを盗みに来た人はいたけれど、誰も屋敷の中まで入れたことはなかった。
だから、この屋敷で何かが起こるなんて考えにくい。
もう一度扉に耳を当てたけれど、使用人は「怪盗」について話すのをやめてしまっていた。


あんなに気を張っていたはずなのに、気が付くと夜になってしまっていた。
何時の間に眠ってしまったのか、窓から見えたのは見たこともない大きな月。
それは星々の輝きなんて霞んでしまう程に堂々と空に浮かんでいた。窓から漏れ込んだ月明かりがベッドシーツを青白く照らす。
少し痛む体をゆっくりと起き上がらせて重たい瞼を優しく擦った。

「おなかすいた…」

意識がクリアになっていくほど大きくなる空腹感。
当たり前だ。
今日は起きた途端にこの部屋に押し込められて、一日中何も食べていないのだから。
ここから出られないにしても、せめて何か食べるものを貰えないだろうか。
使用人に交渉しようかと思ってベッドから降りようとだるく感じる体を動かした、その時。
廊下から大きな声と物音が聞こえて、思わず体を硬直させた。

「おい…誰だお前は!」
「なまえ様!逃げてください!」
「…っえ?」

扉に何かがぶつかるような大きな物音と、使用人が僕の名前を呼ぶ声。
続けて聞こえてきた誰かが倒れる重い音が聞こえたのと同時に、思考が完全に停止した。
やがてあんなに騒がしかったはずの廊下が一瞬で静寂に包まれる。
シーツを掴む手に力が籠った。
一体、屋敷の中で何が起きているというのだろうか。

「な、なにが…大丈夫ですか!?」

使用人たちの安否を確認しようと慌ててベッドから立ち上がろうとしたその時、自分しかいないはずの部屋の中で床の軋む音が聞こえた。
…誰かいる。
慌てて身を固めた僕はシーツを頭まで被って自分の体を隠した。
天蓋から垂れる薄いレースで隠された視界の中で見えた、誰かの足元。
突然現れたその人物は、まるで隠れる気はないと言いたげな真っ白な装いで、同じく真っ白な長いマントを揺らしていた。
ふと頭をよぎったのは先程部屋の前を通った使用人が話していた怪盗の名前。

「ひぅっ…」
「おや?」

思わず漏れた悲鳴。慌てて口を塞いだ時にはすでに居場所はばれてしまっていた。
コツン。彼の靴底が床にぶつかる音が聞こえた。
続いて鼓膜を揺らすのは、上品で控えめな笑い声。
警備が何人もいたはずなのに、一体どうやってこの部屋にたどり着いたのだろうか。
目の前の人物の狙いは何なのか。そして、屋敷のみんなは無事なのか。
唯一見える彼の足の動きから目が離せない。
やがてベッドの端まで歩いてきたその人物の白い手袋をはめた綺麗な手が、目の前の薄いレースを持ち上げた。

「っ、…来ないでくださいっ」

姿を見られないようにシーツを目深にかぶった。
こちらを見降ろすのは、悪い人とは思えないような綺麗で優しげな瞳。
片方はモノクルで隠されたそのサファイアのような輝きが月明かりに照らされた。
その瞳に見惚れるようにしばらく呆然と固まっていた僕は、我に返って慌てて立ち上がると、こちらと同じように見開かれたその瞳から逃げるように走り出した。
呆けた様子で立っていた怪盗の横を通り過ぎて、閉ざされたままのドアに走る。
彼が入ってきたのなら、鍵は開いているはず。そう思っていたのに。

「あれっ!?な、なんで…?鍵が開かない…っ誰か!助けて…っ開けてください!」

自分の悲痛な声とドアを叩く音が狭い部屋に虚しく響き渡る。
硬いドアを加減無しに叩くたび、手に鈍い痛みが走る。
ついさっきまでドアの外に使用人がいたはずなのに、誰もこちらの声に答えてくれることはなかった。
後ろから聞こえてくるのはコツコツと背後からのんびりと近づいてくる足音。そして、小さな笑い声。背中が冷たい。ドアノブを掴む手が震える。
いくら力を込めても、自分の力だけでは鍵のかかったそのドアを開けることはできない。
それは何度も何度も挑戦したことがある自分が一番良く分かっていた。
やがて僕は突然現れた侵入者に背中を向けているのが怖くなって、急いでドアに背中を押し付けた。

「嫌…来ないで…」
「安心してください。怪しい者ではありませんよ」
「…う、嘘つき!使用人に何をしたの?…父上は、無事なの…?」
「そんなに怯えないでください」

言いながらゆっくりとこちらに近づいてくる。
その目元はシルクハットで隠れてしまっていたけれど、口元は余裕そうに笑みを浮かべていた。
闇に溶け込むことのない、全身真っ白な装い。
父が長年僕から遠ざけてきた、屋敷の外の人間が今まさに目の前にいる。怖い。捕まってしまったら一体何をされるのか。
純白のシーツにくるまってカタカタと小さく震える僕の前まで歩いてきたその人物は、立ち止まるといきなり跪いて僕の手を取った。
手袋越しに伝わってくる、父親以外の人のぬくもり。

「あ、…っ」
「私はあなたに危害を加えるつもりはありません」
「でも…父は?使用人は…」
「眠っていただいているだけです。安心してください…それよりも」

彼は呆ける僕の手の甲に一度だけ優しくキスを落とした。
その仕草は、まるで絵本の中に登場する王子様のよう。
柔らかいその唇の感触とぬくもりが薄い皮膚から伝わってきて、驚いて目を見開いた。
彼の突拍子もない行動に混乱したせいで、気を抜いてしまったのかもしれない。
瞬きをした次の瞬間、目の前に跪く怪盗の手中に、自分が持っていたはずの何よりも大切なルビーが魔法のように現れた。

「私はこの宝石を頂きに参上しただけです」
「あ、それ…!ダメ、返して!」
「おっと」

恐怖なんて忘れて、手を伸ばして飛びついた僕の体が軽々と彼の手によって支えられた。
被っていたシーツが身体から離れて床に落ちていく。
ポケットにしっかり仕舞っていたはずなのにいつの間に奪ったのか。とか、一体どんな手を使ったのかとか、そんな疑問は一切湧いてこない程に混乱してしまっていた。
腰に手を回されながら彼の手の中の宝石を奪い返そうと必死になる。
どんなに手を伸ばしても、飛び跳ねても、その宝物には触れることさえできなかった。
悔しくて、彼を睨みつけようと顔を上げたその瞬間、彼と初めて目が合った。

「お願い、返してっ…」
「…っ…」

見開かれた彼の瞳に映っていたのは、母親似の良く見慣れた自分の顔。泣きそうに濡れた瞳は彼が持っている宝石と同じ色をしている。
それを見た彼のポーカーフェイスが本当に一瞬だけ崩れた。
ずっと表情を崩さなかった彼から、静かに息を呑む音がする。
堪えきれなかった涙が一粒だけ、白いシーツと同じように重力に従って頬を伝って流れていく。

「あなたがここに閉じ込められている理由が、分かりました」
「…え?」

彼のしなやかな指先が頬に触れて、その整った顔が今にもくっつきそうな程こちらに近づいてきた。
与え合うように伝わってくる温もり、交わる視線。
目の前で細められるサファイアは、ただまっすぐ僕のことを見ていた。
吐息がかかる程の距離で囁かれる甘いあまい台詞に溺れてしまいそうになる。

「宝石の輝きすら霞んでしまうほど、あなたが綺麗だと思いました」
「え、え…?」
「私と一緒に来ていただけますか?」

夜空のように輝く瞳が瞬きをするたび、星が流れるように光が零れる。
何も握られていなかったその手から突然真っ白な薔薇が現れた。
眩しい程の月の光は、狭い部屋で見つめ合う二人だけを照らしていた。
とても現実世界にいるとは思えないほどの煌めきが視界を支配する。

「あ、あの…僕…」

こんなこと、今まで生きていて言われたことない。父以外の誰かに求められたのなんか、初めてだ。
彼の言葉に何と答えたらいいのか分からなくて、ゆっくりと後ずさる。
何度も床が軋む音がする。
やがてふくらはぎがベッドにぶつかって体勢を崩した僕は、そのままベッドに倒れ込んだ。

「わっ…わ、」

慌てて上半身を起き上がらせた僕に覆いかぶさるように、怪盗は腰を折ってベッドに手を置いた。彼が近くで動くたび、艶やかで甘美な香りがする。
顔にかかった細い髪を彼の手が耳にかけたことで視界が開けた。
目の前の怪盗は僕が抵抗しないのを確認すると、慣れた手付きで手に持っていた白い薔薇を優しく僕の手に握らせた。
一本の白い薔薇。花言葉は「一目惚れ」。

「あの…僕、ここから出られないんです。小さい時からずっと」
「…」
「僕がいなくなったら、きっと父上が悲しむし、それに…」

僕が喋っている間、彼はその綺麗な唇を噤んだまま、ずっと黙って聞いてくれていた。
酷く優しく細められたサファイアの瞳から逃げるように視線を彷徨わせる。
ここから出たい気持ちはあるけれど何よりも父のことが心配だし、それに、僕を誘拐したことで目の前の彼に迷惑をかけてしまうことが何よりも嫌だった。
他人を受け入れてはいけない。何度も何度も、父に言いつけられたはずなのに。
いつの間にか、僕は彼の魔法にかかってしまっていた。

「その宝石は、あなたに差し上げます」
「え…?」
「だから、次は…」

月明かりに照らされた彼の白い衣装が青白く光って見えた。
父から貰ったこの宝石を手放しても良いなんて思ったのは、人生で初めてのことだった。
宝石を持ったその手に自分の手を重ね合わせる。
天蓋の薄いレースが僕と彼の秘密を隠してくれているかのようだった。
すぐ近くで見つめ合ったまま、昼間使用人から盗み聞いた彼の名前を呼んだ。
無意識に息が止まる。音の無い、煌めく宇宙の果て。

「キッド…」
「はい」
「また、僕に会いに来てくれますか?」

俺の紡いだ言葉を聞いた彼の口端がゆっくりと持ち上がるのを、月明かりに包まれながらどこか浮かぶような意識の中で見つめた。
それは1人が寂しくなくなった、初めての夜だった。