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蟻地獄

バイト先の喫茶店の前で人生で1番のため息を吐き出す。
今の心境としては正直、目の前の扉を開けずに今すぐ逃げ出してしまいたい。
けれどシフトが入っている以上、そうする訳にもいかなかった。

「安室さん、出勤だよなぁ…」

頭を抱える理由は1つ。
俺は先日、セフレとホテルから出てきたところをバイト先の先輩に見られるという人生最大の失態を犯したのだ。
しかも一緒にいた相手は同性。
目があった時の安室さんの冷たい瞳が忘れられない。
しばらくショックで眠ることができなかったのは、相手に嫌われたくないからなのか、それとも底が知れないほど温厚な彼にあんな顔をさせた罪悪感からか。

「俺は馬鹿だ…っていうかそもそも、なんであの人あんなところにいるんだよ…」
「…あれ?みょうじくん?どうしたんですか?入らないの?」

立ち止まったまま呟いていると、狙ったようなタイミングで開いた扉から一番会いたくない人物が顔を出した。
彼は目を見開いて固まる俺に向かって、垂れ目がちの優しそうな瞳を細めて笑いかける。
まるで先日のことなんて幻だったと錯覚させられそうなほどに柔らかい笑顔。
視線を下ろして彼の手に握られたほうきと塵取りを見て初めて、外の掃除を始めようとしているのだと気が付いた。

「あ、えと…おはようございます。俺、早めに来たつもりだったんですけど…安室さん早いですね」
「おはようございます。今日はたまたまですよ。それよりみょうじくんも支度しないと」
「そうですね…すぐ手伝うんで待っててください」

俺のために扉を開けて待っていてくれている先輩に小さく頭を下げると、慌てて店内に入っていく。
本当にいつも通りに接してくるので拍子抜けしてしまった。
あの時目が合ったのは安室さんで間違いない。あんなイケメンが世の中に何人もいてたまるか。
気が付かなかったふりをしてくれているのなら、なんて大人な対応なのだろうか。
それとも目が合ったのは気の所為で、暗かったから俺だってわからなかった?
なんでもいいけれど、出来ればそのまま何も触れてこないで欲しい。
そんな願いを込めて、いつもより強くエプロンの紐を結んだ。



「この間一緒にいた彼、恋人ですか?」
「ぶっ…」

閉店後のバイト先。
二人きりで片づけをしていたその時、地獄のような時間は無慈悲にも訪れた。
まるで世間話でも始めるかのように自然に切り出されたその話題に、一瞬反応が遅れた。
大人の対応は…?気が付かなかったふりは…?
安室さんは俺からの返事を待っている間、少し離れた場所で黙々とテーブルを拭き続けている。
血の気が引いていくのを全身で感じながら彼の方を見ると、その視線はテーブルをまっすぐ見つめていた。

「え、…えっ…?」
「…付き合ってるんですか?」

混乱する俺に向かって、彼は同じような質問をもう一度繰り返した。
動かしていた手を止めると今度は俺の方を真っ直ぐ見つめた。
瞬きをするたびに真夏の空みたいな彼の瞳が見え隠れする。
困り果てているのは俺の方なのに、安室さんの方が泣きそうな顔をしているのはどうしてなのだろうか。

「…答えてくれないんですか?」
「えと…その…なんていうか、恋人ではないです…」
「え、でも…ホテルから」

ばっちり見てんじゃねぇか。
俺の答えを聞いた彼はわざとらしく何度か瞬きを繰り返した後、可愛らしく首を傾げた。
コロコロと変わっていく表情。
店で彼に見とれている女性たちはきっとこういう所に惹かれているのだろう。
一番は顔なのだろうけれど。
俺が現実逃避している間も、安室さんは綺麗な指を顎に当ててまるで謎解きでもするように思考を巡らせ始めた。
そして、一つの考えにたどり着いたのかゆっくりと視線を俺に合わせる。

「それって」
「まぁ…なんていうか…、セフレってやつですかね…」

いっそのこと死んでしまいたい。
顔中が熱くて、うまく思考が回ってくれない。
どうして俺はバイト先の先輩にこんなプライベートなことを喋らされているのだろうか。
安室さんも安室さんだ。
面白半分でそんなこと聞くような人では無いことはわかっているけれど、そんなこと聞いたところで彼の徳になるわけでは無いのに。

「みょうじくん」

名前を呼ばれて前を見ると、さっきまで離れたところにいたはずの安室さんが目の前に立っていた。
彼は力の抜けた俺の左手を両手で持ち上げると、優しく包み込む。
近くで見ても肌が綺麗で、睫毛が長くて、整った容姿に思わず見とれてしまった。
固まる俺の手の甲を優しく撫でるその手付きに、一気に現実に引き戻される。
彼の高い体温が時間をかけてゆっくりと染み込んで、体の中を侵食していくようだった。

「恋人、いないんですよね」
「え、はい…そうですけど」
「みょうじくんのことが好きです。僕と付き合ってくれませんか」
「え、な、…っえ!?」
「僕じゃだめですか?」

自分はこんな場所で何を言われているんだ。
彼は一体いつ自分にそんな感情を抱いたと言うのだろう。
申し訳なさそうに下げられた眉。潤んだ瞳。
閉店後とはいえ、誰が外を通るかもわからないのに。
女子高生に見られていたりなんかしたら、SNSを通して一瞬で噂が広まってしまうに違いない。
彼の代わりにしきりに外を気にしていると、自分だけを見て欲しいとでも言いたげに伸びてきた手が頬に添えられて、無理矢理前を向かされた。
タレ目がちの優しい目元が愛おしそうに自分を見る。
色んな男と関係を持ってきたけれど、こんなに優しくされたことがない俺は、流されまいと彼の胸を優しく押し返した。

「なまえくん」
「っへ…あ、えと…俺、恋人はその…ちょっと…」
「そうなんですか?」

相手がどんなにイケメンだったとしても、バイト先の人間とそんな関係になるなんて正直ごめんだ。
やんわりと断ろうとする間も、安室さんの温かい手が頬を撫でて耳たぶを触る。
逃げようにも彼の腕がいつの間にか腰に添えられていて、されるがまま体を触られていく。
紐を解かれたエプロンが床に落ちる。
大きな手が頭の後ろを撫でて、そのまま首筋に触れた。
段々変な気持ちになってきて、息が上がって、気が付いた時には安室さんの腕の中に納まっていた。

「…は、え…?あ、」
「わかりました。じゃあ、僕もセフレからお願いします」
「な、にを…」
「君を満足させられたら付き合ってください」

思考が揺らいで、ずっとぬるま湯の中にいるみたいだ。
鼻を掠めるパンケーキの甘い香りと、彼自身の石鹸の香り。
腰が引けた情けない格好のまま顎を掬い上げられる。
いつもの蕩けるような笑顔は何処にやってしまったのか、真剣な表情の彼に誘われるまま、俺は顔を縦に動かした。