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明日の予報は

俺がポアロという名前の喫茶店で働き始めたのが、つい数か月前。
飲食店で働いた経験があったためか仕事を覚えるのにそこまで時間はかからなかった。

「安室先輩!」

いつものように名前を呼べば、先輩は不思議そうにこちらを振り返った。
いつも女の子達から視線を集めている彼。
それがここで働き始めたきっかけだった。
別に俺が恋をしたとかそう言うわけではなく、彼が女の子にモテているというのが俺にとって重要な事だった。

「なまえくん…?仕事で何かわからないことがあるんですか?」
「仕事は大丈夫です!それより、今日こそ女の子にモテる秘訣教えてほしいなって」
「はぁ…。君はまた…真面目に働かないと駄目ですよ」

彼は呆れたように笑うと、ぽんと俺の肩を叩いた。
まるで小さな子供にでも話しかける様な優しい声で俺を諭したあと、彼はもう一度女の子達に向き直る。
返事を聞いて口を尖らせて立っていると黄色い声が聞こえてきて、不意打ちに驚いた心臓が一度だけ大きな音を立てた。
先輩の背中越しに少しだけ顔を出せば、彼女達がうっとりとした顔で先輩のことを見つめていた。

「やっぱり顔かな」

ちらりと見上げた彼の顔が物凄く整っているのをもう一度確認する。
それから自分の顔を思い出した俺はがっくりと肩を落としたままカウンターに引き返した。
元気がないのを心配したのか声を掛けてくれた梓さんにぎこちなく笑い返す。
モテる秘訣なんて本当はないのかもしれない。
そう思いながら、先輩の言いつけ通りに真面目に仕事を再開したのがお昼過ぎ。


「あ、あの…安室先輩?」

自分の置かれている状況がうまく理解できない。
今日一日、嫌というほど見ていた整った顔を見上げながら相手の名前を呼ぶ。
自分は先ほどまで閉店後のポアロを片づけていたはずだ。
なのに、どうして。
突然店内のソファーに押し倒された体を動かすと、ギシリと嫌な音が耳に響いた。
俺のことを見降ろしている先輩の大きな手が手首を強く握る。
動くたびに綺麗な髪の毛が揺れて、触らなくてもその柔らかさを想像することができる。

「なまえくん」
「…やっぱり、顔ですよね」
「は?」
「先輩と話してる女の子達の反応見て気が付いたというか…」
「自分が今何をされてるのか、分かってます?」

先輩の顔には、いつもみたいな優しい笑顔は浮かんでいなかった。
どうしよう。怒らせてしまっただろうか。
このおかしな空気を変えようとその言葉を放った途端、彼の纏う空気が冷たくなったのを感じた。
倒れた体制のまま首を動かすと、ソファーに擦れた髪の毛が乱れていく。
優しい人が怒ると怖いというのは本当なのだろうか。

「怒ってますか…?」
「…」
「せ、んぱい?」
「鈍感、」

彼はそう言いながら目を細めると、俺の唇に指を滑らせた。
目を見開いた俺の反応なんてお構いなしに、褐色の指がゆっくりと焦らすように唇を撫でていく。
彼が動くたびにふわりといい香りが鼻を掠めた。
どうしたらいいのか分からない。
手首を握っていた手の力が弱まって、離れていく。
顔の横に手をついた彼の顔が近づいてきていることに気が付くと、じんわりと顔に熱が集まった。
このまま大人しくしていたらどうなってしまうのかなんて、馬鹿な俺にもわかる。

「や、何してんの。外から見、られたら…」
「…大丈夫。見えませんよ。それより、モテたいんでしたっけ?ねぇ、普段君がお客さんにどんな目で見られてるのか、教えてあげましょうか?」
「な、に言って…」

力なく手を上げた途端、押し倒されているソファーが二人分の体重に悲鳴をあげた。
すぐに体制を戻した先輩に再び手首が掴まれる。
一日中エアコンで冷やされていたソファーに押し付けられた手首が痛くて、眉間に皺を寄せた。
俺を押さえつけるために体制を変えた安室先輩の体が傍のテーブルにぶつかったのだろう。
片付け損ねた食器が微かに音を立てた。
その音に気を取られている間に、彼の手が戸惑う俺の顎を掴んだ。

「なに…や、やだ…そんなの知りたく、ない」

そう言いながら慌てて目を逸らそうとしたのに、どうしてだろう。
真剣な顔が真っ直ぐ俺に向かっているのが視界に写った途端、うまく身体が動かなくなってしまった。
なんで、どうして。そう思う間にも先輩の綺麗な瞳が俺から逸らされることはなくて。
夏の空を写し取ってしまったかのような紺碧が夕日の赤色と混ざり会う。
やがてその瞳が射抜くようにゆっくりと細められれば、ガラス玉みたいなそこにギラギラと欲情の色が姿を現した。
心臓が締め付けられる、経験したことのない感覚。
このままでは、喰われてしまう。

「嘘…絶対そんな目、されたこと、ない…から」
「そうですか?」

お客さんの話じゃなかったのだろうか。
なんで先輩がそんな顔、するの。
口に出そうとした言葉は先輩の唇が首筋に触れたことですぐに引っ込んでいった。
快感が滑り落ちていく感覚に、すぐに背中が反る
何これ、駄目だ。
顔に触れる柔らかい髪の感触に意識が持っていかれそうになる。

「ぎゃあっ、何…や、やめっ…」

そんな心境とは裏腹に、咄嗟に口から出たのは色気のない悲鳴だった。
触れるか触れないかのもどかしい距離でゆっくりと滑っていく唇。
たまに吐き出される吐息に、喉が震えて止まらない。
視界に映る金色の髪は、閉店後の薄暗い店内でも変わらずに存在を主張していた。
いつもの優しい先輩じゃない。
頭がうまく動かなくてもそれだけは理解することができた。

「やだ、先輩、こんなの…」
「なんですか…?」
「俺、なんかヘン、だ…」

きゅう、と胸の奥が締め付けられるみたいに痛い。
このままじゃ俺の心臓は小さくなってしまうかもしれない。
すぐ外の通りを人が歩く度に店内に大きく影が差して、その度に心臓が大きく跳ねた。
いつも働いている場所で、どうしてこんなこと。
先輩は大丈夫だって言っていたけれど、どうしても誰かに見られているような気がして顔の熱が引いていかない。
知らない人が見ていなかったとしても、もし忘れ物でも取りに梓さんが帰ってきてしまったら。
そんな考えが何度もぐるぐると頭の中を回って、先輩の影に隠れるように必死になって身を縮めた。

「や、離して」
「どうしてこんなことするのか、わかりますか?」
「…っ、分かんない!…わ、かんないです」

どうしよう、泣きそうだ。
何度も首を振って必死に否定していると、掴まれていた手首が解放された。
先輩の綺麗な指がすっかり力が抜けてしまっている俺の手の平を撫で上げる。
その後すぐにその指が絡められて、指の間を擦られた。
その動作も、何もかも俺には未経験のこと。
けれどその未経験の感触もすぐに離れていって、自由になった手がそのままソファーに投げ出される。
先輩に触られたところが全部、あつい。

「せ、んぱい…?」
「どうしてだか、自分で考えてみてください」
「え…?ちょ、ちょっと!?…っや、」

なんで、なんで。何度も疑問を声に出しているのに、先輩は何も答えてくれなかった。
どうして何も言ってくれないの、仕事の時はあんなに優しく教えてくれるじゃないか。
そう思っていると体が急にうつ伏せに転がされた。
先輩の手が俺の着ていたエプロンの紐を解いていくのが聞こえてきて、一気に顔が熱くなった。

「っ…な、にして…」
「…」
「やめ、…や、だ…何か、言ってよ」

乱れたシャツの裾から温かい手が侵入してきた。
その手が腰を掴んだ途端、後ろから細いだなんて聞こえてきた呟き。
少しだけ腹が立ったけれど、運動なんてほとんどしていないのだから当たり前だ。
何も言い返すことができなかった。
先輩とはそんなに体格が変わらないと思っていたのに、この力の差は一体何なのだろうか。

「なまえ、」
「っ…ゃ、…離して!…う、わぁ!?」
「危な、」

いい加減にしろ。
そう思いながら思い切り体をひねると、その途端にソファーから足が滑った。
身体に引っかかっていたエプロンが床に落ちていくのがひどくゆっくりに感じられる。
ガクン、と体が傾く感覚と同時に焦ったような先輩の声が耳に届いた。
一瞬の出来事。
浮遊感に驚いて思い切り目を瞑ったけれど、恐れていた痛みはやってこなかった。

「…あれ?」
「すみません…大丈夫ですか?」

耳元で聞こえてきた声に恐る恐る目を開ける。
傾いた身体が先輩に抱き留められて、密着した体からじんわりとぬくもりが伝わってきた。
その高めの体温に、先程までされていたことを思い出して青くなっていた顔に再び熱が集まっていく。
あつい。
すぐに帰れると思ってクーラーを切ってしまったのは失敗だったかもしれない。

「なまえくん…?どこか痛いんですか?」
「わっ…大丈夫です!」

心配そうな声。
後ろから俺の体を抱いている先輩に、力の抜けた手が優しく持ち上げられた。
振り返れば、心配そうないつもの優しい顔。
申し訳なさそうに下げられた眉と潤んだ瞳を見ていたらなんでも許してしまいそうだ。
きっと、世の中の女性たちはこの顔に騙されているのだと身を持って体験したような気分。
そう思ったら急に目が覚めたような気がして、相手の力が緩んでいるうちにその腕の中から抜け出した。

「顔が良いからって何でもしていい訳じゃないんだからな!」
「…へ?」
「覚えてろ!」

見開かれたその瞳をまっすぐに睨みながら、乱れた服を手早く直す。
目の前の獣から距離を置くと大きな声で捨て台詞を吐きながら店から飛び出した。
夕方から夜に移り変わっていく空。
オレンジ色と濃紺の綺麗なグラデーションのなかにいくつか星が瞬き始めている。
息を切らせながら走っているうちに片づけの途中だったということに気が付いてしまったけれど、それは全部優秀な先輩に任せることにした。
頬の熱がなかなか引いてくれないから。