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「#エロ」のBL小説を読む
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あれから、忽然と現れた彼の手によってその場は一瞬で収束した。
彼の合図と同時にエール団と呼ばれた派手な人たちが集まってきて、男の人を拘束する。
俺はただぐったりとしているうちに簡単にその腕の中から解放されて、人生最大のピンチからいつの間にか救出されていた。
結局、弱い俺には何もできなかったということだ。

エール団の人に背負ってもらいながら連れてこられたのは、ビルの中の一室。
空き部屋だろうか。何故だか薄暗く感じる部屋の、少し埃っぽいベッドに膝を抱えて座りながら、俺は後悔のため息を思い切り吐き出した。
感覚がなかったはずなのに、男の人に抱きかかえられた時の感触が体に残っている気がするし、痺れた体を薬で直して貰ったもののなんだかまだ痺れているような気がする。
気分は最悪だ。きっとシャワーを浴びても、眠っても、この気分は晴れてはくれないだろう。
ちらりと視線を自分の横に動かすと、拾ってもらったダンデさんの帽子が目に入る。
すっかり汚れてしまったそれはさっきまでの出来事が夢ではないことをはっきりと物語っていた。
丁寧に洗えば、綺麗になってくれるだろうか。

「はぁあ…」

溜息を吐くのが止められなくて、持っていたハンカチで口元を押さえた。
なんだか口の中…舌がまだぴりぴりする気がする。
俺を助けてくれた彼はネズさんと言うらしい。スパイクタウンのジムリーダー。
助かったという安心感と、そんなすごい人に助けてもらったという罪悪感が胸の中でぐるぐると混ざり合う。

「気分、悪いですか?」
「あ…大丈夫です。なんかまだ痺れてる気がして」
「そうですか…。キバナにはオレから連絡しておきましたよ」

部屋の隅で腕を組みながら立っていたネズさんが、静かにこちらに話しかけた。
何故だろう。皆、俺がキバナさんと知り合いだということを知っている。
ネズさんも、あの男の人も。
カーテンのない裸の窓から、ネオンの光が漏れ込んでくる。
さっきまで待機していたエール団の人はいつの間にかいなくなってしまっていた。

「ごめんなさい。迷惑かけてしまって。俺、何かするたびにいつも人に迷惑かけてばっかりで」
「…」
「ワンパチも怒ってるみたいだし…はぁ…落ち込むなぁ」

あれから、ワンパチはいくら呼んでもボールから出てきてくれなくて。こんな事初めてで、どうしたらいいのかわからない。
きちんと助けてやれなかった俺に失望したのだろうか。
あの時は俺も必死だったから手段を選ぶことができなかったし、もしどこか怪我させていたらどうしよう。
ただ木の実を取りに行っただけのはずなのに何もできなかった俺は、いつの間にか相棒にまで見放されてしまった。

「最低です。俺…」
「…先ほどのあなたを見ていて思ったのですが」
「…へ?」
「あんな危険な状況に置かれたのなら、少しは他人に助けを求めなさい」

一瞬、何を言われているのか分からなかった。
理解した時には、すでに彼のお説教は始まっていた。
その口ぶりから推測することしかできないけれど、どうやら俺と誘拐犯の一部始終を見ていたようだ。

「大きな声を出す。人を呼ぶ。自分だけで解決しようとしない」

もたれ掛かっていた壁から体を離すと、気怠そうな表情をそのままにゆったりとこちらに向かって歩いてくる。
靴底が床にぶつかる音。凛とした、奏でるような声。
やがて座り込む俺の前に立った彼は、透き通るようなブルーの瞳で真っ直ぐこちらを見降ろした。
色素の薄い瞳はネオンの光が変わるたび、その色を次々と変えていく。

「あ、え…?」
「大人をもっと頼りなさい。怖かったのでしょう?」
「こわ…かった…?」

彼の諭す様なその言葉達は、すっかり乾いていた俺の心にすとんとなじむように吸い込まれていった。
怖かった。そうか。ワンパチと自分を守るのに必死で、そんなこと感じることすら忘れてしまっていた。
俺は、怖かったのか。抑え込んでいた感情がじわりと一気にあふれ出そうとした。
その時。
突然なんの前触れもなくネズさんの後ろに見えていたドアが思い切り開かれた。
驚いて飛び上がった拍子に、勝手に出てこようとしたその感情は再び俺の中に戻っていく。

「わっ!?」
「ハルトっ!」
「あ、キバナさん」

物凄い音を立てて現れたのは少し格好の乱れたキバナさんだった。
部屋中に響き渡る大きな声と、額を押さえたネズさんの深いため息が重なる。
彼は部屋の中の俺を見つけた途端、足をもつれさせながら慌てたようにこちらに飛んできた。
そして俺の前に膝をつくと思い切り両腕を掴む。
ぱくぱくと何か言いたげに口を動かしたけれど、その声が空気を震わせることはなかった。

「キバナさん…?」

彼はそのまま諦めたように口を閉じると、痛いくらいの強い力で俺を抱きしめた。
俺の肩に頭を乗せた彼が自身を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出す。
風呂上がりだったのだろうか。ほんのりと石鹸の良い香りがする。
いつもあんなに自信満々なのに、様子がおかしい。そんなに心配させてしまったのだろうか。
胸に小さな傷がいくつもできていくみたいに痛くなった。
なんだかいつもより小さく感じる彼に少し戸惑いながら、恐る恐るその背中に手を伸ばした。

「あ、あの…」
「馬鹿野郎!」
「…っ…」
「助けくらい呼べただろ!ワンパチも、スマホもあったんだろうが!」

次の瞬間飛んできたのは怒りを含んだ大きな声。
耳元で聞こえた大きな音に驚いた拍子に、掴んでいた彼の服から手が離れた。

「ごめんなさい…」

そうだ。思えば彼の言うことを聞かなかったのが今回の事件のきっかけなわけで。大人しくポケモンセンターに行っていれば、今頃ワンパチだって笑ってくれていたかもしれない。
後悔なんてしたって時間が戻るわけではないけれど頭をよぎるのはそんなことばかりだった。
ワンパチを危ない目に合わせたのも、ダンデさんの帽子を汚してしまったのだって。全部自業自得。
さっき男の人に強く掴まれた手首が何故だか少しだけ痛んだ。

「オレ様確かに言ったよな?ポケモンセンターにいろって」
「あの、それは…ワンパチもいた、から。大丈夫かなって…思っちゃったというか…」
「そのワンパチをボールに戻したのはどこのどいつだコラ!」
「はぁ…うるせぇのが来たので、オレは外に出ますよ」

しきりに視線を彷徨わせながら苦しい言い訳をしてみたけれど、それは彼の大きな声で簡単に蹴散らされてしまった。
そして、その大きな両手で頬を挟まれて押しつぶされながら、無理矢理前を向かされた。
釣り上がったその瞳から分かるのは怒りの原因が明らかに俺だということ。
ネズさんに助けを求めようと目線だけ逸らした時には、すでに彼が出ていった扉が閉まった後だった。

「ご、ごめんなさい!」
「ったく、傷ばっかり増やしやがって…ちゃんと見せてみろ」
「舐めとけば治りますよ。なーんて」
「馬鹿言え」

苦し紛れの軽口は再び一言で叩き落とされてしまった。俺の冗談なんか聞き入れないと言った様子。
気が付けばまた手も足も擦り傷だらけ。一体どこまで鈍臭ければ気が済むのだろうか。
少し赤くなった手首を見て小さく眉を顰める彼を、どこか遠くに感じた。
しばらく丁寧に俺の傷を確認していた彼が、何かに気が付いたようにこちらの顔を覗き込んだ。
その手が額に伸びる。
反射で目を閉じる間に、温かい指先が肌に触れた。

「お前…額、赤くなってんぞ」
「あー…これ」

そういえば、すっかり忘れていた。
木を揺らしていたらポケモンとちょうどぶつかりました。なんて、正直に言ったところで信じてもらえるだろうか。
もしかしたら鈍臭いと笑われるかもしれないし。
一体なんて説明しようか悩んでいると、歯切れの悪い俺の答えを聞いた彼の顔色がじわじわと青くなっていく。

「まさか、殴られ…っ」
「へっ!?あ、違う!違います!何にもされてないですから!」
「薬使われてる時点でなんかされてんだよ!」
「わーっ!ごめんなさい!」

両手を振って否定した途端、部屋中に響くほどの大きな声で、彼はその怒りを惜しげもなく晒した。
一気に身を縮めた俺の頭が彼の両手に包まれて乱暴にかき混ぜられる。
その手付きは、声色とは裏腹になんだか優しかった。

「他には?」
「…うん?」
「どこか触られたとか、何か言われたとか…」
「あ…。気になったことなら…あるんだけど。…良く分からないんだけどね、あの人、俺のこと知ってたみたい」

ずっと気になっていたことをなんとなく伝えてみることにした。
あの男の人は、俺を見て「ジムリーダーキバナと一緒に居た」確かにそう言っていたはず。
途端、彼はこれでもかと眉間に皺を寄せて。悔しそうに唇を噛んだ。
その時考え事をしていた俺は、彼の機嫌が急激に悪くなったことに気が付くことができなかった。

「でもおかしいですよね。俺、一般人なのに」
「お前なぁ!」
「わっ!」
「おかしいと思ったならその時点で逃げろよ!」

大きな声と同時に強い力で身体を押された。
体を襲う浮遊感に思い切り目を瞑る。
勢いよく押し倒された体がベッドにぶつかった途端、すこしだけ埃っぽい香りがした。
自分に一体何が起こったのか分からずに守るように身を固めていると、ベッドが軋む乾いた音が耳に届く。
恐る恐る目を開けると、薄暗い部屋をバックにこちらを見下ろしているキバナさんの顔が見えた。

「ほら、逃げらんねぇ。ネズも居ねぇ。…どうする?」

後ろでちかちかと光るのは街の煌びやかなネオンの光。
少し真剣な彼の目が、状況が読み込めずに何度も瞬きを繰り返す俺をまっすぐに見つめた。
それは、試すような瞳。
小さく動かそうとした手がいつの間にか彼の両手に掴まれてしまっていることに気が付いたのは、しばらく時間が経ってからだった。

「え…何?なんで、ネズさん…?」
「はぁあ…お前なぁ…流石に少しは危機感持てよ。本当に」
「あの…次からは、気を付けるので…」
「今の話をしてるの!オレ様は!」

どうして今ネズさんの名前が出てくるのか分からずに首を傾げる。
俺の反応を見た彼は、俺の手首を掴んでいた手を離すと、顔を押さえながらがくりと肩を落とした。

「え…?え…ごめんなさい…?」
「もしあのまま連れ去られてたとして、どうなってたかわかってんの?」
「えっと…わ、かんない…です」

あの状況を切り抜けるのに必死で、その後の事なんて考える余裕なんてなかったし、なにより俺みたいな人間をさらったところで誰かに得があるなんて到底思えない。
目を逸らしながら答えたその言葉に、彼が少し反応した。
視線が少しくすぐったくて身じろぐと、薄いシーツが足に纏わりついてくるのを感じる。

「わかんねぇのに、助けも呼ばねぇで」
「ねぇ、キバナさん?やっぱり、お、怒ってる…?」
「…怒ってないように見えるか?」

俺のその一言を聞いた瞬間、彼の眉がぴくりと反応した。
彼の方に伸ばしていた手首が勢い良く掴まれて再びベッドに押し付けられる。
それに俺が反応する前に、彼はその長い指で俺の顎に触れると、そのまま掬うように動かして少し上を向かせた。
自然に交わる視線。綺麗なその瞳が真っ直ぐ目の前の獲物を射抜く。
この前とおんなじ体制。でもなんだか纏う雰囲気が違うような。

「あぁ、そういえば」
「…?」
「傷、舐めときゃ治るんだったか?」
「へっ?え、…キバナさん?…俺、ちょっと…待っ」

キバナさんはそう言うと、俺を見降ろしたまま怖い程に朗らかな笑顔を見せた。
瞬間。額の傷がほんの少し痛んで、嫌な予感が一気に自分の体を貫いた。
本能が教えてくれたのだ。ここで逃げるべきだと。
だから手足に力を入れて彼の下から抜け出そうとしたその時、俺よりも素早く動いた彼が。
俺の首に思い切り、噛み付いた。

「…っ…ひゃあぁ!?痛っ!いたいっキバナ、さっ…や、めっやめて!」

その鋭い痛みに頭から足先まで、全身に一気に力が入った。
混乱する俺をふわりと包み込んだのは、シャンプーの香りだろうか。
いつも見えていた鋭い八重歯が今まさに自分の皮膚に突き刺さろうとしている。
痛くて、怖くて、頭が真っ白になってしまって、自分でも驚くほど悲痛な声が喉から漏れた。
動かそうとした両手はいつの間にか彼の大きな手に掴まれて、埃っぽいベッドに押し付けられている。
それに両足の間にいつの間にか潜り込んでいた彼の体のせいで、どんなに必死で両足を動かしても形のない空気を蹴ることしかできない。

「痛いっいたい!嫌っ!ごめっごめんなさいっ…ごめ…治んなっ…治んない!から!」
「…」
「たすけっ…助けて!誰か!」

暫くすると恐怖が勝ったせいか、既に痛みなんて分からなくなってしまった。
大粒の涙がはらはらと目から零れ落ちる。
体格の良い彼に全身で押さえ込まれてしまってはこちらに打つ手なんか一つもない。
自由に動くことができないというその事実が、今感じている恐怖を一番煽っていたように思う。
俺はその永遠にも思える時間、理由も分からずにただひたすら謝り続けた。
怖くて怖くて、うまく呼吸ができない。
けれどどんなに叫ぼうとも彼が聞き入れてくれる様子がなくて、段々心細くなってきた。その時。

「なんばしよっと!」

扉が勢い良く開いた音。轟くような声。
やがて首の痛みと重みから解放されて、感じていた彼のぬくもりがなくなった。
必死に力を入れていた全身から一気に力が抜ける。
瞳に溜まった涙に視界を塞がれてしまって、俺に分かるのは天井の色とネオンがちらちらと煌めいている様子だけ。
ベッドにくたりと体を預けながら必死になって乱れた呼吸を整える。たくさん叫んだせいか、なんだか喉がひりひりするような気がする。
主張するように痛む首に、自ら触れてみる勇気はなかった。
しばらくして視界がクリアになってきた頃、つんとそっぽを向いて不機嫌そうに立つ彼と、呆れ顔のネズさんが目に入った。

「騒がしいと思って来てみれば…年下襲って泣かせて…何してやがるんです」
「なんつーか、腹が立った」
「う、…うっ…ごめ…な、さ…」
「はぁ…もういいです。とりあえずお前は離れてください」

ネズさんが眉根を寄せながら部屋の隅を指差す。キバナさんが言う通りにその場所に歩いていく。
部屋の壁に背を預けたキバナさんの視線は真っ直ぐこちらを見つめていた。まるで監視でもしているかのように。
彼がこんなに怒っているのが俺のせいだと理解しているから、相応の罰は受け入れるつもりだった。
けれど、まさかあんなに痛い思いをすることになるとは。
ベッドに倒れたままだった体をネズさんに起こしてもらった後、俺はそのまま情けなく泣きついた。

「ネズさん…お、…俺の首、まだついてますか…?」
「ついてなかったら生きてねぇですが…見せてみなさい」
「うん…」
「…肌、触りますよ」

彼の声に小さく頷く。
そんなに情けない顔をしているのか、彼は俺の顔からそっと目を逸らした。
見やすいように傾けた首に彼の指が触れると、そこからひやりとした少し低めの体温が伝わってくる。
やることもなく何となくキバナさんの方を見ると、途端に合った視線にぎくりと体が固まった。
彼は、瞳を細めながらネズさんを指差していた。

「他の傷も見てもらえ」
「簡単にしか見れねぇですよ…まぁ、お前の傷が一番重症ですが」
「…」

俺の首を見ていたネズさんから発せられた嫌味に、キバナさんは居心地が悪そうに口を噤んだ。
むっとしたように口を尖らせながらパーカーのポケットに手を入れる。
それを境に薄暗い部屋は痛いほどの静寂に包まれた。
時折外から聞こえる誰かの声。衣擦れの音。
ネズさんから伝わってくる体温がなんだか気持ち良くて、そのうち俺はいつの間にか眠ってしまっていた。
一瞬、かくりと頭が揺れる。
はっとして顔を上げると呆れ顔のネズさんがこちらを覗き込んでいた。

「終わるまで我慢なさい」
「う、ん…」

瞼が酷く重い。意志とは関係なく勝手に閉じてしまう目を擦りながら、彼の言葉に相槌を打つ。
一体今何時なのだろうか。
時計も何もない部屋の中。
時間に縛られずネオンの光に呑まれた街にいるうち、時間の感覚がすっかりなくなってしまった。

「…助け。呼べるじゃねぇか」
「…へ?」
「次からはそうしろよ」

静かな部屋の中。突然口を開いた彼の声は微睡みの中にいた俺の耳に届いた。
慌てて顔を上げると目を細めた彼が恨めし気にこちらを見ている。
先程くらった噛み付きでよく分かった。危険に晒された時の人の呼び方。
身をもって体験したと言うべきだろうか。

「はい…よく分かりました」
「だからって怪我増やしてんじゃねぇですよ」
「ぐ…」

ネズさんの的確な指摘に、彼は何も返せずに悔しそうに視線を逸らす。
なんだかそういうコントでも見ているようだ。

「…終わりましたよ」
「ありがとうございます…ごめんなさい。迷惑かけて」

話しながらもてきぱきと治療をしてくれたネズさんが、ぽんと優しく俺の肩を叩いた。
頭を下げながら小さく謝ると、彼は「気にしてねぇです。また遊びに来なさい」そう言いながらにこりと笑った。
ふにゃりと崩れたその笑顔に思わず一瞬呆けてしまった。
そんな俺のことは気にした様子もなく、俺の頭をひと撫でした彼は立ち上がってキバナさんの方に歩いていった。

二人が話すのを座りながらぼんやりと眺める。
小さく動かした指先にコツンと当たったのは、赤と白のモンスターボール。
そうだ。思い出した。今自分がやらないといけないこと。

「ワンパチ…ごめん」

小さく名前を呼んでみてもやっぱり何も反応がない。
もう、相棒を守るには一つしかない。本当は、自分が守ってやりたかったけれど。でも。
覚悟を決めて小さく息を吐いた。
少し汚れてしまったダンデさんの帽子を膝に乗せて、何度か撫でてから思い切り深く被る。
座っていたベッドから立ち上がると気怠そうに壁にもたれたままのキバナさんの方に歩いていく。
先程あんなことされたばかりだというのに、不思議と何も怖くない。

「あの、キバナさん…お願いがあるんです」
「あ…?」
「ワンパチの面倒、見て欲しくて…」
「…」
「なんでも、しますから…」

俺が急に話し始めたことで、ネズさんとキバナさん二人の視線が痛いくらいに突き刺さる。
帽子のツバで顔は見えないけれど、それがむしろありがたかった。

「ワンパチ、どうしてもボールから出てきてくれなくて…その、怪我とか心配で…」
「いいのかよ?オレで」
「キバナさんのこと、信用していますから」

口から飛び出したのは、紛れもない本音。
彼はまさかそんなこと言われるとは思っていなかったのか、一瞬だけ息を呑む。
目を見開いて何度か瞬きを繰り返した後、俯いたままの俺の頭を数回ぽんぽんと叩いた。
そして手を伸ばして、手の中の大切なボールを受け取ってくれた。

「…わかった。オレ様に任せておけ」
「ごめん…なさい」

自分が謝ったのは、一体誰に対してだったのか。
俺のことなんか嫌いになっちゃったかな。
もしかしたらキバナさんの方が良いって思われてしまうかもしれない。
でも相棒を守るためには、これが一番良い方法だったのだ。
じくじくと痛む胸を慰めるように自らの手で優しく撫でてやる。
いろんな感情が混ざり合って、溢れる涙を我慢できそうになくて、思わず被っていた帽子で顔を隠した。

「ワンパチの事、よろしくお願いします」
「ハルト…」
「俺、許して貰えるように、頑張る」

もし許してくれる日が来るのなら。
それまで、お別れ。


見透かされた七歩目