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自然に浮上した意識。
ゆっくりと目を開けると見慣れた天井が目に入った。適当に選んだ部屋の、白い天井と白い壁紙。
体が酷く重くて痺れた指先の感覚が鈍い。
澄んだような静寂の中、遮光カーテンの隙間から漏れる陽の光が静かに床を照らしていた。

「っ…、…ワンパチ…?」

酷い声。
今何時だろう?なんだか長い間眠っていたような気がするけれど。
記憶が混乱してしまっているのか、眠る前まで何をしていたのか良く思い出すことができない。
頭の中の雑音が煩い。
兎に角、まずはワンパチにごはんをあげなければ。お腹を空かせているかもしれない。
ふらつく体に喝を入れてふらふらと立ち上がる。

「あ…、れ…?」

けれど、何歩か動いたものの、両足にうまく力が入らなくてよろけた体が壁にぶつかった。
そのままずるずると壁伝いにしゃがんで目を瞑ると、ぐるぐると揺れる世界にのみ込まれてしまいそうだった。
お腹の中が気持ち悪い。こんなに体調を崩したのはいつぶりだっただろう。
床の上で丸まっているうちだんだん意識が遠くなっていくような気がした。
それからしばらくすると、不意に部屋のドアが開く音が鈍い耳に届いた。

「…なにやってんだ?」

心地の良い、低い声が聞こえた。
酷く重い頭を持ち上げてそちらを見ると、キバナさんが壁に寄りかかりながら呆れた顔でこちらを眺めている。
どうして。
自分の家に彼がいるはずがない。
とうとう自分は、幻まで見るようになってしまった。
そう思って彼の問いに答えることなく、重たい頭を下ろしてその場に倒れ込んだ。
床からの冷たい空気が火照った体を冷やしていく。

「っおい!起きろって」

その聞きなれた大きな声は、今度こそ確かに俺の鼓膜を揺らした。
それでも動かない俺を見た彼は大股でこちらに歩み寄ると俺の体を抱き起こした。
重たい瞼を持ち上げてみれば、眉間に皺を寄せたキバナさんが心配そうにこちらを覗き込んでいるのが見える。
触れ合った箇所から伝わってくる彼の体温。
これは、幻じゃないのか?

「あ、れ…?」
「ったく、勝手に動くんじゃねぇよ。良くなんねぇぞ」
「キバナさん…?な、んで…」

どうして彼がここにいるのか思い出せない。
混乱する俺の頬を、キバナさんが手の甲で軽く叩いた。

「…寝ぼけてんのか?」
「あ、そっか…俺…」

自分の体調にも気付かずにはしゃぎすぎて、彼の前で倒れたんだった。
申し訳ない。また、迷惑をかけてしまった。
ぐるぐると考えているうちに、いつの間にか俺の体を抱え上げた彼はベッドに向かって歩き出していた。
遅れてやってくる浮遊感に驚いた俺は慌てて彼の服を握って体を硬直させた。
反応の遅い俺に向かって、彼がすこし不安そうに語り掛ける。
その腕の中は相変わらず温かかった。

「おい、大丈夫か?」
「あの…ワンパチ、は…?」
「お前な…まずは自分の心配しろよ」
「でも…」
「…あの後お前のワンパチ、なだめるの大変だったんだぜ」

彼は頑固な俺の様子を見ると小さく息を吐いてから、仕方ないと言った様子であの後の事を教えてくれた。
俺が倒れてからすぐに家に運び込んでくれたこと。
かと思えば、彼の腕の中でぐったりした俺を見たワンパチが警戒して大変だった事。
うまく動かない頭でゆっくりと彼の話を処理していく。
驚いたことにあれからもう既に一日経過しているらしい。
俺自身、何度か起きて水を飲ませてもらったらしいけれど、記憶がほとんど残っていない。

「ワンパチはオレ様が見ておくから、お前はきちんと休め。…いいな?」
「ごめんなさい…」
「病人が気使ってんじゃねぇ。ほら、降ろすぞ?」

怠い体がゆっくりとベッドに寝かされた。
同時に離れていく彼のぬくもり。
さっき目が覚めた時と同じ白い天井を背景にしたその整った顔が、なんだかぼやけて見えた。
熱の所為だろうか。
寂しくて、不安で、彼がどこかに行ってしまうような気がして、思わず手を伸ばして縋りそうになったのをなんとか我慢した。

「…触るぞ?」

掛布団をかける彼の行動をなんとなく眺めていると、大きな手がぴたりと額に当てられる。
今日はどこかひんやりとした彼の手が気持ち良い。
何とも言えずに目を細めていると、熱を測っていた彼の眉が小さく寄せられた。

「熱、下がんねぇな…つらいか?」
「あつい…けど、寒い」
「なんだそれ」

俺の返事を聞きながら、彼はベッド横の簡単な椅子に腰かけて少し呆れたような顔をする。
本当のことを言っただけなのだけれど。
黙って白い天井を見ていると、彼の手によって額に冷たいシートが張られた。
急激に体温が冷やされる感覚に、少し頭がくらくらする。

「ずっと、いてくれたの?」
「ん…?あぁ」
「そ、か…」

肘をつきながらこちらを見降ろす彼のその答えに思わず笑みが零れた。
そういえば自分はいつの間にか部屋着に着替えている。彼が着せてくれたのだろうか。
なんだろう。迷惑をかけてしまって申し訳ないはずなのに。
何故だか今自分は底の知れない幸福を感じてしまっている。
こんなこと彼に言ってしまったら、きっと失礼だし、怒られてしまうに違いない。

「は、…ふ…」

吐き出す息が熱い。
重い瞼を必死に持ち上げ続けるのは、寝てしまったらなんだか勿体ない気がしたから。
目元まで熱くて、涙で視界が潤んで良く見えない。
熱に浮かされたまま視線だけ彼の方を見上げると、彼も同じようにこちらをじっと眺めていた。

「……」
「キバナ…さん?」

黙ってこちらを見つめる彼の視線が俺から一切逸らされない。
不安になって小さく声をかけると、キバナさんはハッとしたように肘をついていた手から顔を上げた。

「え。…あー…なんか欲しいものあるか?買ってくるけど」

それからしきりに視線を動かした後、気まずそうに口を開く。
彼の絞り出したようなその言葉に対して、俺は何度も首を横に振った。

「い、いらない」
「…へ?」
「お願い。ここにいて…どこにも行かないで」

立ち上がろうと腰を上げた彼の服をそっと掴んで引き留めた。
気が付いたらそんなどうしようもない我儘が自然と口から飛び出していた。
ほとんど力の入らない俺のことなんてすぐに振りほどけたはずなのに、驚いて口を開けていた彼はやがて静かに椅子に座り直した。
降参だとばかりに両手を上げた後、息を一つ吐いてから俺の頭を優しく撫でた彼は、どこまでも優しい人だ。

「分かった。どこにも行かねぇから。んな泣きそうな顔すんな」
「うん…」

きっと自分は今、どうしようもなく酷い顔をしているのだと思う。
こんな気持ち初めてで、どうしたらいいのわからない。
彼には迷惑をかけたくないのに、それなのに、今の自分は一人になってしまうのが何よりも不安で、怖い。

「一回寝とけ。そんなんじゃ良くなんねぇぞ」
「うん…えと、あのね、キバナさん。聞いて欲しいことがある…んです」

子供をあやすように頭を撫でられる間、優しそうに細められる彼の瞳をじっと見つめていた。
それから小さく彼の名前を呼ぶ。
ぽつりと話し始めたのは、いつ打ち明けてしまおうかずっと迷っていたこと。

「ん…?」
「この前、助けてもらったでしょ?あの後、キバナさんのこと…俺、調べたんだ…」

トップジムリーダー。その文字を見てどんなに驚いたか。
バトルの動画も見た。見てしまった。
何度も思い出した。ずっと、頭から離れなかった。
スタジアムの歓声、照明の光を一身に浴びてバトルをする彼の姿。
普段からは想像もつかない真剣な表情、華麗にボールを投げる姿勢。
勝った時の興奮。
住む世界が違い過ぎる。
こんなの手を伸ばして届くような距離じゃない。
だから、勇気が出せなくて自分からは連絡できなかった。
キバナさんにも、ダンデさんにも。
頼るのが簡単だなんて、とんでもない。

「約束したのに自分から連絡できなくて、ごめんなさい」
「…」
「でもまた外に出たら、キバナさんに会えるんじゃないかって…思って…それで」

だから、慣れない外出を毎日のように繰り返していた。
正直、元気なところを一目見られれば良かったのだけれど、まさか本人とぶつかってしまうとは思わなかった。
小さく笑いながら、被っていた毛布を握りしめる。
彼は目を見開いて呆けたまま、俺の呟くような言葉を静かに聞いてくれていた。
  
「会えて、嬉しかった、…です」

これは心からの言葉。
でもまさか、熱を出してこんな風に迷惑をかけるとは思わなかった。

「ハルト」
「え、…?わっ…つ、めた…」

すこし掠れた彼の声が俺の名前を呟いた。
言い逃げして眠ってしまおうと目を瞑っていたら、肌に突然の刺激。
ひやりとした彼の手が頬に添えられたことに驚いて目を見開く。
熱い頬が急激に冷やされて、それに驚いた拍子に手足に力が入った。
けれど、初めは驚いたその刺激も慣れてしまえば気持ちが良くて、俺は目を細めながらその大きな手に縋るように擦り寄った。

「…、っ…」
「きもちい」

潤んだ視界の中、ベッド際の彼を見つめる。
俺に手を貸しているせいか前のめりになった体制で、彼はこれでもかと目を見開いたまま、頬を染めてはにかむ俺の姿をただその瞳に映していた。
しばらく黙っていた彼が変なうめき声を上げる。
その喉仏が上下に動くのを俺はどこか遠い意識の中でぼんやりと見つめていた。

「キバナ、さん…?」

俺の体温を吸い取った彼の手の平が、じわりじわりと温まっていく。
やがて気が付いた時には、ベッドのスプリングが小さな音を立てていた。
顔の横に手をついた彼が真っ直ぐにこちらを見降ろしている。
宝石みたいに輝く、透き通るようなブルーの瞳。
寒い。はずなのに。
吐き出す息も、彼の体温も、全部が熱くて熱くてのぼせてしまいそうだった。
重い瞼と格闘しているうちに、彼の大きな手が汗ばんだ俺の頬を撫でる。
そのまま顎を固定されて無理矢理上を向かされた。

「え…ぁ…?」

自分に一体何が起きているのか分からずにただ、虚ろなまま彼の顔を見つめる。
やっぱり、初めて見た時と変わらずに彼の見た目は完璧に整っていて、誰よりも綺麗だった。
少しずつその顏がこちらに近づいてくるのが見える。
うまく動かせない指先を小さく動かすと、シーツに投げ出したままだったその手に彼の手が重ねられた。
やがて彼の吐息まで感じられるようになってきたその時。

イヌヌワン!

特徴的な鳴き声が部屋に響いた。
ワンパチは何かを知らせに来たのかトコトコと部屋の中に歩いてくると、俺たちに向かってまた一声鳴いてから再び玄関の方に歩いていってしまう。

「あ…ワンパチ?」
「おーい。キバナいるのか?鍵。開けっ放しだぞ」

同時に聞こえた、ダンデさんの大きな声。
まるで魔法が解けたかのようだった。
気が付けば彼は何もなかったみたいにベッドの横に立ちながらドアの方を見つめていて、薄暗い部屋は目が覚めた時から何も変わらずに俺たちを見守っていた。
きっと全部夢だったに違いない。
そのはずなのに、ふわふわした頭と熱い頬は一向に治ってくれない。
自分の体調のことなんてすっかり忘れて、重い体をベッドから起き上がらせた。

「あ、と…わりぃ…」
「なんで…?ダンデさん?」
「あー…そういや、呼んでたのすっかり忘れたわ…」

彼の手の感覚はしっかりと残っているのに、ぬくもりは空中に溶けてなくなってしまった。
キバナさんはバツが悪そうに後頭部を掻くとすぐに俺から目を逸らした。
煩い心臓。玄関から聞こえてくるダンデさんの声と足音。
なんだか異質なその状況に、もともと鈍い頭がさらに混乱していった。

「やっぱオレ様、ちょっと外出てくるわ」
「えと…うん」
「その間ダンデにいてもらえ。それと…」
「わっ!?」

彼は歯切れ悪く言葉を紡ぐと気恥ずかしそうに頬を掻いて、自身の着ていたパーカーを俺に乱暴に被せた。
驚いて声を上げた俺に構わず、彼はフードの上から何度も頭を撫でる。
どうやらこちらが病人だということは全く考慮してくれないようだ。

「それ、貸しといてやるから。オレ様が帰ってくるまで着とけ」
「は、はい」

彼は俺の返事を聞いて満足そうに目を細めてから手を振ると、ゆったりとした足取りでドアに向かって行く。
後頭部に手を当てながら歩いていくキバナさんの背中をぼんやり見つめた。
両手で握りしめた彼の服は、俺の体には嫌味なくらい大きかった。
さっきまでのぬくもりと香りがじんわりと体に戻ってくる。
それが、彼の腕の中にいるみたいで堪らなくなって、自分の膝を抱えて頭を埋めた。

「…ん?キバナ?どこに行くんだ?」
「…出てくる」
「あいつ…」

彼と入れ替わるようにダンデさんが部屋に入ってきた。
扉から出ていくキバナさんを、ダンデさんは不思議そうに振り返る。
それから何かに気が付いたように少しだけ目を細めて息を吐いてからこちらに向き直ると、珍しいものを見たと言いたげに目を丸くした。

「こっちは…新種のポケモンみたいだな」
「ダンデさん…」
「…ん?」

不思議そうにこちらを見た彼の名前を、小さく呟いた。
胸に手を当てて、これでもかと握りしめる。
動くたびに彼のぬくもりが伝わってきて、香りが自分のすべてに染み込んでいくみたいだ。
なんだか、こんなの。

「どうしよう。ダンデさん。俺…なんか、変だ…」

こんな心臓の動き、知らない。


五歩目が踏み出せない