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彼の腕の中は温かくて、なんだかどこか懐かしい良い香りがした。

ワンパチの無事を知らされた瞬間、どこか自分ではなくなってしまったみたいに体も心も軽くなった。
興奮が何時まで経っても静まらなくて、冷たい空気に当たっているはずの頬は熱くなったまま治りそうもない。
俺の声は広大な土地に吸い込まれるように消えていく。
一方キバナさんはいきなり飛びついてきた俺を軽々と持ち上げたまま、されるがままになっていた。
はずだった。

「ハルト、大人しくしてろよ」
「え…あれ?動いてる…?」

有頂天にいたせいで気が付かなかったのか、我に返った頃には既にキバナさんは俺を抱いたまま歩きはじめていたのだ。
足が宙に浮いたまま、周りの景色が動いていく。

「ちょっと、キバナさん!?降ろして!」
「おい、大人しくしてろって」
「子供じゃないんだから、自分で歩けます!」
「うるせぇ。丁度いいからこのまま運んでやる。限界の癖にふらふら歩きやがって」

慌てて首を動かして振り返っても、彼の褐色の肌とオレンジ色のバンダナがぼやけて見えるだけだった。
いくら説得しても彼が降ろしてくれる様子はない。
結局、諦めて大人しく首にしがみついた俺をキバナさんはもう一度抱え直した。
彼の言う通り本当はもう体力の限界で、立っているのも辛いくらいだったのだ。きっと全部お見通しだったのだろう。
自分よりもかなり体格の良い彼に控えめにもたれ掛かって、肩に頭を乗せた。
あったかい。懐かしい。

「ねぇ、キバナさん」
「ん?」
「ありがとう」
「…、…おー」

ワンパチが見つかったことで気が抜けてしまったのか、それともそもそも限界まで動いてしまっていた所為だろうか。
少し微睡んだ状態で彼の耳元でもう一度お礼を言った。
一瞬くすぐったそうに、ほんの少しだけ身をよじった彼が遅れて返事をする。
遠くから聞こえる木々のざわめきが、鳥ポケモンの鳴き声が、全身に染み込んでいくようだった。

それから、会話はほとんどしなかった。心地の良い静寂。
キバナさんの靴が土を踏みしめる音を聞きながら、ゆったりと一定のリズムで体が揺れる感覚を噛みしめる。
やがてその心地よさが途切れた時、すっかり聞きなれてしまった彼の低い声が鼓膜を控えめに揺らした。

「ハルト、起きてるか?ついたぞ」
「ん…」
「…降ろすぞ?平気か?」
「うん」

彼は俺を抱きとめた時と同じように、ポンポンと俺の背中を叩いた。
そしてこちらに声を掛けながら、俺の体を優しく地面に下ろしていく。
俺の両足がきちんと地面についたのを確認してから彼はゆっくりと手を離した。
密着していた体が離れていく。
もっと一緒に居て欲しかったなんて我儘は、夜特有の冷たい空気がキバナさんの温もりごと全部攫っていってしまった。
連れてこられたのは、ワイルドエリアの入り口だった。

「重かったですよね、ごめんなさい。また迷惑かけちゃった」
「いちいち謝んな。気にしてねぇから」

急に発した声は少し掠れていた。
彼の顔色を伺って上を向く。整った顔の後ろでは満天の星々が輝いていた。
綺麗だと思ったのは夜空に輝く星のことだっただろうか。それとも。
そっぽを向いて頬を掻く彼の表情はこちらからでは暗くて良く見えなかった。

「ほら、オレさまじゃなくて。あっち見ろって」
「えっ…?あ…」
「ご対面だな」

ぼうっと立ち尽くしていた俺の背中をキバナさんの両手が少し乱暴に押した。
慌てて前に進んだ俺の目に飛び込んできたのは、嬉しそうにこちらにかけてくるワンパチの姿。
ワンパチは俺を見るなり瞳を輝かせると、一緒に歩いていた男の人を追い越してパチパチと電気を纏いながら真っ直ぐこちらに飛び込んできた。

「ワンパチっ…!っ、――ぅっ…ぐぇっ」

小さな体が加減なしにぶつかってきたその瞬間、たいあたりの勢いに負けた体が後ろに飛ぶ。
そのまま背中を地面に打ち付けながら受け止めると、周辺に生えていた雑草が辺りを舞った。
骨が軋むような衝撃に目眩がして、一瞬だけ周りに星が飛んだような気がした。
そんな俺達を見たキバナさんが慌てたようにこちらに走ってくる。

「おっおい。今ヤバい音しなかったか!?」
「いっ…たぁ…」
「君…大丈夫か?」
「な、…なんとか…生きてます…」

痛いなんてもんじゃない。けれど俺にとってはそれよりも目の前の家族が大切で。
なんとか自分の力で体を起こした俺は、足の上で尻尾を振り続けるワンパチを見た。
相棒にとどめを刺された体のあちこちが痛む。
俺を心配してくれたのはキバナさんだけではなかったようで、ワンパチを保護してくれたのだろう知らない男の人も少し離れたところから声を掛けてくれた。
相棒は、変わらない無邪気な表情で俺のことを見上げている。
まるで何事もなかったようなその表情にほんの少しだけ涙腺が緩んだ。

「バカ…どこ行ってたんだよ…もう会えないかと思っただろ」

仕返しだとばかりにその小さな体を強く抱きしめる。
俺がどんなに心配したかとか、苦労したとか、彼にはあまりよくわかっていないのだろう。
ワンパチはマイペースに俺の腕の中で吠えると、もう離してくれと身をよじる。
それから、今度は少し離れたところでスマホを見るキバナさんの方へ駆けて行ってしまった。
初めて見る彼が気になるのだろう。

「おいっワンパチ!まだ怪我も見てないのに…!」

ワンパチはキバナさんが気に入ったのか、彼の足元をくるくると回り始めた。
一方絡まれた彼は操作していたスマホから目を離すと、ワンパチの前にしゃがみこんでその頭をひと撫で。
そして、気にすんなといった表情でこちらにひらりと片手を振る。
申し訳なくてぺこりとお辞儀をする俺に、ずっと黙っていたもう一人の男の人が口を開いた。

「治療はしておいたから安心してくれ。かすり傷だけだ」
「あっ…」
「さっきの体当たり…大丈夫だったのか?」

その人は座り込む俺のそばに、背中のマントをはためかせながらゆったりと歩いてきた。
この人がワンパチを保護してくれたというキバナさんの知り合いの人だろうか。
そういえば色んなことに夢中でお礼を言うのを忘れていた。

「あの、お礼が遅れて申し訳ありませんでした!」

慌ててお礼を叫んだ俺はそこで初めて顔を上げる。そして、その人を見上げた体制で思わず硬直した。

「本当にありがとうございま…し…あ、れ?」
「よく見れば君も怪我してるじゃないか。まったく。似た者同士ってやつだな」
「あ、え…?チャンピオンの、人…だ」

彼は呆気にとられる俺を気にする様子もなく目の前に屈むと、俺の頬にできた小さな傷を指の腹でなぞった。
目の前で当たり前のようにこちらに微笑む彼のことを、俺は知っている。
むしろ、知らない人の方が少ないのではないだろうか。
何度も瞬きを繰り返す俺を見た彼は、全てを包み込んでくれるような温かい笑みを浮かべた。

「ダンデだ。よろしく」

ダンデさんは俺の手を持ち上げて優しく握ると、目元を緩めながら丁寧に名前を教えてくれた。立ち上がるのも忘れてその人を見上げる。
開いた口が塞がらない。有名人に会ったのなんて初めてで、どう反応したらいいのか全くわからない。
彼の優しげな瞳には呆気にとられる俺がしっかりと映っていた。
見つめ合って動かない俺達をワンパチが不思議そうに見上げている。

「君は?」
「えっと…ハルトって言います…」
「いい名前だ。その桜色の瞳にぴったりだと思う」
「へっ…?そ、うですかね」

これは褒められているのだろうか。
彼の直球の物言いは何だか慣れなくて、照れ臭くて、少しずつ頬が熱くなっていくのを感じていた。
すぐ顔が赤くなる癖を見られないように慌てて両手で顔を覆った。
瞳と同じように顔までピンクになってしまったらどうしようかと思ったけれど、きっと暗くて相手にもわからないだろうと何度か自分に言い聞かせる。
その時。今までずっと黙っていたキバナさんが口を開いた。

「そいつのことは知ってんのかよ」
「…え?」
「キバナ」

少し離れたところで俺たちの様子を眺めていたキバナさんは腰に手を当ててこちらをじっと見つめていた。
不機嫌そうなその様子に驚いて、理由がわからずにダンデさんを見上げる。
するとダンデさんはそちらを一瞥してから制するように彼の名を呼ぶ。
そんな二人に向かって俺は慌てて両手を振った。

「あ、えっと、知ってるって言ってもチャンピオンってことだけで、他のことは何も知らなくて…俺、世間に疎くて。ごめんなさい」
「あのな、そういうこと言ってんじゃ…、…はぁ…なんかもういいや」
「彼、面白いな」

微笑むダンデさんと、呆れ顔のキバナさん。
ダンデさんは俺にニコリと微笑むと少し話してくるとキバナさんの方に歩いていった。2人は俺から少し離れたところで並んで親しそうに話し始める。
俺はというと未だにうまく力が入らなくてその場にしゃがみ込んだまま、絵になる2人をただ眺めていた。
なんだかあそこだけ時間がゆっくり流れているような、そんな感覚すら覚える。
しばらくするとワンパチがこちらに近寄ってきたので、今度こそと彼の体を丁寧に確認することにした。
ダンデさんの言う通り、細かい傷はあったけれどどれもかすり傷。
しかもひとつひとつ丁寧に診てもらったようだ。正直、2人にはいくら感謝しても足りないくらい。

「俺たち、揃いも揃って迷惑かけちゃったね」

その場に座り込んだままの俺にぴったりと体を寄せたワンパチに、いつものように一方的に話しかける。
聞いているのかいないのかよくわからない表情の相棒は、特徴的な鳴き声を上げると眠そうに欠伸をした。

「…なんで急に走り出したんだ?なんかいいものでも見つけたの?…はぁあ…、…俺疲れちゃったよ。ごめんな。俺のせいでお前のこと1人にさせちゃった。お前も心細かっただろ?」

途中からは、ほとんど無意識で口を動かしていた。
気が抜けたのか、なんだか少し眠くて自分の頭すら酷く重い。
膝を抱えてそこに頭を乗せる。時折頬を撫でる冷たい空気も今はほとんど気にならない。
ワンパチが触れている部分だけが暖かくて、それがさらに眠気を誘うようだった。
真っ暗な視界の中、周りがゆらゆらと揺れる様な感覚がする。
少しでも気を抜いたらそのまま意識を手放してしまいそう。

「ハルト、待たせてすまない」

なんとか意識を保とうと必死になっていると、靴底が土に擦れる音と一緒にダンデさんの声が聞こえてきた。
微睡みながら重たい頭を持ち上げると、彼は優しく微笑んで俺の短い髪を梳かすように優しく撫でた。

「今度は君の怪我を治す番だ」



「あ、の…狭いし何もないんですが…」
「あぁ、構わないよ」

まさか、人を家に招くことになるなんて思いもしなかった。
何かと目立つ2人に囲まれて歩きながら町の人に見られている間も正直気まずかったけれど、今は何というか、更に消えてしまいたい。
俺は必死に断ったのに、1人での帰宅は許可できないと2人に押し切られてしまったのだ。
もっと掃除しておけばよかったとか、何か見られてはいけない物は無いかとか、今更遅い後悔が頭の中をぐるぐると回り始める。
お陰で眠気もすっかり冷めてしまった。

「その、…本当に。狭いし、汚いので」

恐る恐る玄関を開ける。
そっとのぞき込むと暗闇が何処までも続いていた。
ワンパチが勢いよく中に入っていくのを見届けてから、手探りで電気を付けた。
見慣れた自分の部屋が広がっているのを確認して息を吐く。

「なんだ。綺麗じゃないか」
「というか、綺麗すぎねぇ?本当にお前ここに住んでんの?」
「まぁ…言った通り、何もないので…」

何もないとはいえあまり見られるとなんだか恥ずかしい。
入り口付近で立ち尽くす2人の気をなんとか逸らそうと、俺は必死に両手で背中を押して中に誘導した。
それから適当にくつろぐように伝えて、慌ててキッチンに走っていく。

「あっ…!お茶とか、何かあったかな…?待ってくださいね」
「ハルト」
「お前はいいから、さっさと怪我診てもらえ」

忙しなく動こうとした俺はすぐにキバナさんに捕まえられた。
無理矢理動きを止められたことに驚いて振り返ると、そのままダンデさんの前に連れてこられる。
顔色を窺うようにダンデさんを見上げてみれば、彼はにっこりと微笑んで部屋の真ん中に置かれたソファーを指さした。
座れと言うことだろうか。

「でも、大したことないですよ」
「それは俺が見てから決める」
「うぅ…、はい」

あまり使っていないソファーに腰を下ろす。
客人である二人を立たせておくのはなんだか居心地が悪い。
申し訳ない気持ちに駆られながら彼の指示通りに靴を脱ぐと、恐る恐る足を伸ばして差し出した。
助けを求めようとキバナさんの方を見ると、彼は気だるげに窓際に立ったままスマホの画面を見つめていた。
助けてくれる様子は全くない。

「いい子だ」

チャンピオンは満足げに笑って俺の前に膝をつくと、そのまま俺の足を丁寧に確認し始める。
なんだか、恥ずかしい。
そんな俺の気持ちを気にした様子もなく、彼は慣れた手つきで傷を手当てしていった。

「沁みるかもしれないけれど、我慢してくれ」

足先から丁寧に消毒していく彼の動きをしばらく眺めていた。
たまにピリピリした痛みが走るけれど我慢できない程ではない。
やがて何もすることが無くなった俺は、電源のついていない真っ暗なテレビを横目で見つめた。
テレビで何度も見かけた人が、世間を騒がせている人が、今まさに自分の目の前にいる。
夢でも見ているみたいだ。
別にサインが欲しいとか、彼のファンだとか。そう言う訳ではないけれど、そわそわして落ち着かないのはなんだか彼に失礼だろうか。

「チャンピオン」
「ん?」
「あっ…な、んでもないです」

聞こえないように小さく呟いたはずのその言葉に、当たり前のように反応するダンデさんに少しだけ驚いた。
彼は歯切れの悪い俺を不思議そうに見つめたけれど、やがて視線を落として再び治療に集中し始める。

チャンピオンという存在が一体どのくらい凄くて、大変なのか。俺は正直あまりよく分かっていない。
けれどきっと俺なんかには想像もできないくらいの努力を重ねてきたのだろう。
彼のその大きな背中が一体どれほどのプレッシャーを受け止めてきたのか。
想像するだけで怖くなって、考えるのも止めたくなった。
目の前にいるはずの彼はあまりにも大きくて、余りにも遠い。

「そんなに熱心に見つめられると、なんだか照れるな」
「えっ…あ、ごめんなさい!」

いつの間にか彼が困ったように眉を下げてこちらを覗き込んでいた。
そこで初めてはっと我に返った俺は慌てて彼から視線を逸らして、熱くなった頬を隠す。
しまった。見つめすぎてしまった。
失礼なことをしてしまっただろうか。気を悪くさせてしまっただろうか。
考えるほど悪い方向に向かって行く思考に目が回りそうだった。
しきりに視線を彷徨わせていると、俺の無礼も別段気にしていない様子の彼がもう一度口を開いた。

「君は…意外に無茶をするんだな。痛かっただろ?」
「うん…」

どうやら気がつかないうちにいろんなところを怪我していたようだ。
手足には草で切った小さな傷がいくつも出来上がっている。
ダンデさんはずり落ちてきたズボンの裾を再び捲くり直すと、その大きな骨ばった手で太腿に触れた。
自分以外の手が皮膚を滑っていく。
それがなんだか無性に落ち着かなくて、くすぐったくて、逃げ出したくなるのを必死に我慢した。

「頑張ったな」
「そう、かな」
「あぁ」

すっかり子ども扱いされながら、彼の言葉に答えていく。
けれどそれも悪い気がしないのは甘え過ぎだろうか。
どこまでも面倒見がいい彼には、もしかしたら弟さんか妹さんがいるのかもしれない。
こんなに格好良くて優しいダンデさんはきっとその子にとって自慢のお兄さんに違いない。

「ワンパチのこと、大事にしてるんだろう?」
「え?」
「君によく懐いてる」

彼の唐突な質問に一瞬反応が遅れた。
チャンピオンは答えを待つ間も、救急箱の道具を慣れた様子で取り出していく。
消毒が終わったのか、キズぐすりを塗ったそこに絆創膏が丁寧に貼られた。

「はい…たった一人の家族なので。自分の命より大切です」

そう言いながら俺はダンデさんの方を真っ直ぐ見た。
正直この気持ちに嘘なんかひとつもなかった。ワンパチを失って1人になるくらいなら命なんかいらない。
すると彼は本当に一瞬だけ表情を崩して息を飲んだけれど、すぐにいつも通りの優しそうな表情を見せた。

「…次は顔だ。沁みるといけないから、目を瞑って」
「うん」

彼の言う通りにゆっくりと目を閉じる。なんだか恥ずかしくて少し身をよじった。
頬の傷を直そうとした彼は俺の顔に温かい手のひらで触れる。
見えない所為か、急な刺激に驚いて肩を揺らした俺に向かって彼は小さく謝った。

「ん…?ハルト、キミ…」

俺の顎に触れたその大きな手が、顔の角度を固定した。
しばらく傷を確認していた彼が、ふと何かに気がついたように指先を目元に滑らせる。
何事かと思わず目を開けて瞬きを繰り返すと、彼の瞳は心配そうに俺を覗き込んでいた。

「泣いていたのか?」
「へ?」
「ほらここ。涙の跡が」

そう言いながらダンデさんは俺の目元にもう一度指で触れた。
心当たりしかなくて、思わず言葉に詰まる。ワンパチが見つからなくて何度も泣きました。なんて子供みたいで恥ずかしい理由を口に出すことができなくて、無言で下を向く。
きっと純粋に心配してくれているのだろうけれど、恥ずかしさに負けてとっさに何も答えられない。
俺たちの間を気まずい時間が流れた。

「俺には言えないことか…心配しているんだぜ?」
「違っ…え、と…その…」

チャンピオンである彼に恥を晒すのは何となく気が引ける。
出来れば彼にはこのまま知らないでいて欲しい。けれど、何も言い訳が思いつかない。
このまま無言で通してしまおうと思った時、ふとこの場にもう一人事情を知っている人物がいることに気が付いた。
その瞬間俺の中にもう一つの心配事ができてしまった。
もしこの会話をキバナさんが聞いていて、チャンピオンに喋ってしまったらどうしよう。
そう思って彼の方をこっそり横目で見る。

「ん?キバナがどうかしたのか?」
「…え、と…」
「まさか…」

それがいけなかったようだ。
ダンデさんは俺の動きを見て、瞬時に何かに気がついたような真剣な表情を作る。
そして一体何を勘違いしたのか。キバナさんと俺の間に入って、俺の体をその逞しい背中に隠したのだ。
大胆にはためいた赤いマントが視界を覆っていく。

「キバナ、お前…見損なったぞ」
「はぁっ!?何の話だよ!」
「え、っえ…!?違うんです。ダンデさん!」

どうやら彼はキバナさんが俺を泣かせたと思いこんでしまったらしい。こんなことになるのなら初めからきちんと伝えておけばよかった。
足を踏みならして怒るキバナさんと、話を聞いてくれないダンデさん。
両手を振って否定する俺の話を一切聞いてくれない2人の言い合いは、どんどん勢いを増していく。
やがて2人がボールを取り出してポケモンを出そうとしたその瞬間。
俺がキバナさんの腰に体当たりをかましたことで2人の喧嘩は収束した。


「あの…すみませんでした」
「どうして君が謝るんだ?」
「キバナさんが怒ってるの、多分俺のせいだから。たくさん迷惑かけちゃったんだ」

再び座り直した俺は目の前のダンデさんに小さい声で謝る。
不思議そうな顔をする彼に、俺は俯きながら本当のことを話した。
ワンパチをきちんと見ていなかったこと。ワイルドエリアに一人で入った事。大きなポケモンに襲われて助けてもらった事。
そして、彼の言うことを聞かずに自分勝手に振り回したこと。
ぽつりぽつりと話す俺の言葉をダンデさんはきちんと聞いてくれていた。
全部を聴き終わった彼は口元に手を当てて考える仕草をした後、こちらに温かい笑顔を向ける。

「うん。ハルト。キミは自分から人を頼ることを覚えたほうがいい」
「え…?」
「確信はないけれど、俺はそう感じた」

彼のその言葉を聞きながら、俺は俯いて自分の足元を見た。
お気に入りの靴は土で汚れて、すっかりくたびれてしまっている。
ダンデさんの言葉はどこまでも優しくて温かくて、けれど俺には似つかわしくない。

「でも、…。あ…えっと、何でもないです。ありがとうございます。ダンデさん」
「ハルト…」

俺にはそんな人いない。これからも、きっとこの先も。
けれどそんな愚痴をこぼしてしまったら、せっかく元気付けてくれたチャンピオンを困らせるだけだ。
膝に置いた手を少し握る。
優しい彼に曖昧に笑ってみせると、どこか納得のいかない様子で俺の顔を覗き込んだ。

「頼るのなんか簡単だ。俺でもいいんだからな」
「え…?」
「もちろん、そこで盗み聞きしている男でも」
「んなっ…ダンデ!」

ダンデさんは被っていた帽子を外して口元を隠しながら、悪戯でも思いついたかのように小さな声で俺にそう告げた。そして、後ろのキバナさんを小さく親指で示して見せる。
けれどその声はしっかりとキバナさんに聞こえていたようで、離れたところにいた彼の大きな声が狭い俺の家に響いた。

「ほらな」

キバナさんの威嚇も全く気にしていない様子でこちらに微笑むチャンピオンの純粋な瞳はまるであたたかい太陽のようだった。
吸い込まれてしまいそう。
思わずつられて微笑んだ俺を見た彼は、安心したように息を吐いた。

「むしろ、頼り過ぎなくらいだと思います」

もう充分頼ってしまっている気がするし、これ以上迷惑をかけるような状況はあまり考えたくない。
俺と違って二人は忙しいだろうし、それに、依存してしまったら1人の時の寂しさが増えるだけだ。

「今は分からなくてもいいよ」

黙って俯く俺に向かってダンデさんは眉を下げながらそう言うと、手に持っていた大きなガーゼを優しく俺の頬に貼り付けた。
それから両手で俺の肩をぽんと叩く。
キバナさんもいつの間にか後ろに立っていたようで、俺の具合を確認するようにこちらを覗き込んだ。

「さて、治療も終わったし。もう遅い時間だ。俺たちは帰るよ」
「あー…そうだな」
「うん。本当にごめんなさい。ありがとうございました」


とうとうお別れだ。玄関に向かって歩く二人に慌てて付いて行く。
体が重いのは、怪我の所為だけではない気がする。
このまま2人を見送ったら、俺は今までと同じ、何の変化もない生活に戻るのだろう。
嬉しいはずなのになんだか、寂しい。
扉を開けて外に出ようとする2人の大きな背中を黙って見つめた。
そのまま手を振って見送って、名残惜しいけれど全部終わり。
そう思っていたのに。

「キバナさん」
「…ん?どうした?」

ふと気が付いた時には、俺は無意識にキバナさんの服を掴んで、意味もなく引き留めてしまっていた。
自分でもこんなことするとは思っていなくて、何を言えばいいのかも全く分からない。
彼は驚いた様子で俺のことを見る。
けれど手を振り払うことはせずに、俺が話し始めるまでずっと待ってくれていた。

「えと…その、…迷惑かけてごめんなさい。本当にありがとうございました」

口から出たのは当たり障りのない挨拶だけだった。
怖かったし、心細かった。
けれど終わってしまえば、冒険みたいで楽しかった。全部キバナさんのおかげだ。
きっと彼にとっては面倒事でしかなかっただろうけれど、兄ができたみたいで幸せだった。
引き留めてしまった手を無理矢理離しながら、彼の顔を恐る恐る見上げる。
何もない俺には何も返すことができないけれど、彼は許してくれるだろうか。

「お前な…っ…!…ったく、んな顔すんなよ!オレ様が苛めたみたいだろうが!おいスマホ貸せ。持ってんだろ?」
「え、…?え?」

彼は急に大きな声を出しながら自身の頭を乱暴に掻くと、俺から奪うようにスマホを取り上げる。
すぐに彼から返されたスマホには、キバナさんとダンデさん。二人分の連絡先が増えていた。
夢みたいで、信じられなくて、しきりに画面を撫でていると次第に視界がぼやけていく。

「オレ様はダンデみたいに甘くねえぞ。すぐ頼れ。連絡して来い。いいな?」

瞳から一粒だけ零れた涙を乱暴に指で受け止めた彼は、もう俺の泣き虫にはすっかり慣れてしまった様子で笑った。


三歩目に気が付いた