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しまった。つい、勢いで行動してしまった。
驚いたと言わんばかりに大きく見開かれた瞳は、ただ真っ直ぐ目の前の俺を見つめていた。
家族だとか、大切だとか、きっと相手にとっては全部どうでもいいことで。
そんなことわざわざ言わずに隙をついて思い切り手を振り払って逃げ出してしまえば良かったのに。
一向に動かないキバナさんに段々と不安になってきた俺は、掴んでいた彼の服から恐る恐る手を離していく。

「あ、の…だから、俺を見逃してください…」
「…」
「もう大丈夫。迷惑はかけませんので」

まともに顔を見ることができない。
服から完全に指先が離れた。
このまますぐにでも逃げ出してしまおう。
それが一番いい選択のはずだ。俺にとっても、彼にとっても。
そう思って慎重に1歩後ろに下がったはずだったのに、靴の裏が地面に擦れて音を立ててしまった。

「…何処に行く気だ?」

突然動き出した彼の手に手首を強く掴まれてしまった。
喉から引き攣った様な音が漏れた。
この人から逃げるだなんてとんでもない。早すぎて反応することすらできなかった。

「は、離して…」

振り払って逃げてしまおうと力を込めてみたけれど力の差は歴然だ。
それでも必死にもがく俺を見つめていたキバナさんは、呆れたと言いたげに深く深く溜息をつく。
それから、頭に被っているオレンジ色のバンダナを掴むと目元を隠すように引き下げた。

「お前な…」

彼は低い声を出しながら腰を折ると、限界までこちらに顔を近づけた。
鋭く光るその瞳はまるで彼の芯の強さをそのまま表しているかのようだ。
勢いに負けた俺は目線だけ彼から逸らしていく。

「ご、ごめん…なさい…」

ここまでだ。また一人きりの家に帰らないといけない。
最後の望みを込めて近くの草むらを眺めてみたけれど、ワンパチの姿を見つけることは出来なかった。
掴まれていた腕が引かれて半ば強引に一歩を踏み出すことになった。
足が長いキバナさんの1歩はとても大きくて、転ばないように着いていくので精一杯だ。

「どこまで探した?」
「…え?」
「お前の家族なんだろ?仕方ねえからオレさまも手伝ってやる」

想像もしなかったその言葉に勢いよく顔を上げる。
処理しきれなかった頭が真っ白になって、咄嗟に何も答えることが出来なかった。
キバナさんはこちらを見ずに真っ直ぐ前を向いたまま、ほんの少しだけ赤らんだように見える頬を掻いた。
何か言葉を返そうと口を動かしてみたけれどそこから出たのは吐き出した空気だけで。

「何泣きそうな顔してんだ」
「だ、って…なんで、…」
「強いオレさまが目の前にいるんだ。ちょっとは頼れよ」

瞼を閉じてふにゃりと笑う彼に、また涙が滲んできそうになった。
早くお礼を言わなくちゃ。
そう思って口を開けたのに胸の奥から湧き出るような感情のせいで、何も喋ることが出来ない。
目の奥が痛い。
それでも、言わなければ後悔する。
そう思って口を開けたのに、突然近くの草むらが揺れた事に驚いて発するはずだった言葉が呑みこまれていった。

「あの、キバナさん…ひっ…」

ガサガサと草が揺れるたび、風が頬を撫でるたび、肩が大袈裟に震えた。
また凶暴なポケモンに出会ってしまったらどうしよう。その恐怖で体がうまく言うことを聞かない。
急に足元が揺れているような感覚に襲われて、自然に歩くペースが遅くなっていった。
やがて隣に歩く彼と息が合わなくて転びそうになった時、近くでため息を吐く音が聞こえる。
はっとして顔を上げると呆れ顔のキバナさんと目が合った。

「…これでもまだ1人で歩けると思うか?」
「あ、えーと…へへ…駄目。かも」

いつの間にか隣にいるキバナさんの服をしっかりと握りしめていることに気が付いた俺は、彼の発したその言葉に笑って誤魔化しながら目を逸らした。
子供みたいだと思われただろうか。
弱い自分が恥ずかしくて少しだけ耳が熱くなった。

「ごめんなさい。迷惑ばっかりかけて」
「バーカ。変な気使ってんじゃねぇよ」
「う、ん…ごめん」

彼は悪戯っぽい笑みを零しながら俺の頭に手を置くと、乱暴に、それでもどこか優しく数回撫で回した。
不思議な人だ。
どんな事があっても大丈夫だと思わせてくれる。強くて、格好いい。
だからそんな彼の親切に少しでも答えようと、俺は不確かな一歩を懸命に踏み出した。


それでも、人生とはなかなか上手くいかないもので。
一体どのくらい探し回っただろうか。
空はオレンジ色からすっかりと濃紺に変わり、星も瞬き始めていた。
辺りが暗くて草むらに隠れるポケモンがほとんど見えない。
隣から聞こえてきた小さなため息に、俺は全てを悟るしかなかった。

「…こりゃまた明日だな」
「そう、ですよね…」

唐突に彼の口から飛び出したその言葉は、恐れていたタイムリミットが無慈悲にも訪れた何よりの証拠だった。
自分の無力さに絶望感でいっぱいになった。
明日なんて、あるのだろうか。
ポケモンを持っていない俺を周りの人たちがまたここに入れてくれるとも限らないし、それに家族が無事だという保証もない。

「キバナさんありがとう」
「あー…」
「ごめんなさい俺なんかの我儘に付き合わせちゃって」
「時間があったらまた付き合ってやるから、オレさまに頼れよ」

気まずそうに目を逸らした彼にお礼を言いながら笑いかけた。
確信はないけれど、彼は日頃からとても忙しい人なのだろうと思う。
だから、明日も付き合ってほしいなんてそんな我儘はどうしても口に出せなかった。
ただ、「頼れ」と言ってくれたその一言が理由もなく嬉しくて、その言葉を噛みしめるように胸の前で手を握る。

「…一人で入ろうとすんなよ」
「うん」

キバナさんは俺の返事が嘘だと完全に見透かしているようで、何か言いたげに口を開いたけれどそこから言葉が発せられることはなかった。
正直、何を言われたとしても、どんなに絶望的だとしても諦める気は無い。
明日はどうやってここに侵入しようか。なんて思考を巡らせながら、いつのまにか俺の歩幅に合わせて歩いてくれている彼の横顔を見つめる。

「そういえば、名前。聞いてなかったな」
「え?」
「お前の」

思い出したように話し始めたキバナさんは、おもむろに俺を指差す。
無邪気に細められた宝石のような彼の瞳は暗闇でも一際目立っていてとても綺麗だった。
そういえばこんなに親切にしてもらっていたのに、ワンパチのことに必死で名乗ることすら忘れていた。

「ハルト」

自分の名前を教えるのなんて久しぶりでなんだか気恥ずかしい。
一音一音大事に紡いだその言葉を、キバナさんはちゃんと聞いてくれていた。

「へぇ、なんか…お前っぽいな」
「何それ…。それに、お前じゃないです。ちゃんと教えたんだから…」
「あー…ハルト」
「うん」

名前を呼んでもらえた。
それが何故だかとても嬉しくて、思わず笑みがこぼれてしまう。
そんな俺を見た彼はひどく驚いた顔をして、あからさまに俺から目を逸らすと近くに飛んでいたスマホを触り始めた。
何か失礼なことをしてしまっただろうか。
少し傷つきながら彼の長い指先が画面を滑るその様子を眺める。
急に訪れた静寂。
近くにいたポケモンの鳴き声が夜の澄んだ空気に溶けていく。

「おいハルト!」
「へ?」

その静寂をすぐに破ったのは他でもないキバナさんだった。
唐突に大きな声で呼ばれたせいで、心臓が大きく音を立てる。
よろめいた体を立て直して慌てて彼の方を見ると、興奮冷めやらぬと言った表情で俺の手を引いた。
一体どうしたというのだろうか。
彼の指は早く見ろと言いたげに携帯の画面を力強く指差していた。

「おい、こっち来てみろ」
「…でも、見ていいの?」
「いいから。驚くなよ?」

体を寄せ合って、彼の指差す通りに画面を見つめる。
メールだろうか。文字の羅列にしか見えないけれど、一体なんだと言うのだろうか。
不思議に思って彼の方を見るとニンマリと笑った彼がもう一度画面に向いた。

「知り合いが保護したそうだ」
「え?」
「お前のワンパチ」

その言葉を理解するのに、普通よりも長い時間がかかった。
諦めかけていた俺にとっては衝撃が大きすぎて鈍器で殴られたみたいだった。
沈んでいた気持ちが一気に上がってきたことに体が付いて行かなくて、頭が痛くなる。

「嘘…!」
「ほら、こいつだろ?」

そう言いながら携帯を操作した彼が見せてくれた画面には、はぐれてしまった家族が写っていた。
思わず両手で口を隠した俺に向かってキバナさんは得意気な笑顔を見せる。
色んな感情が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って、何も整理できない。
目を見開いたまま携帯の画面を見つめ続ける。
何度も何度も確認した。間違いない。
息をするのも忘れそうで、心臓が煩くて、周りの音が何も聞こえなくなりそうだった。

「…っ…、っ…!」
「おい、泣くなよ?」

感動で体を震わせる俺の顔を、彼は恐る恐る覗き込んだ。
視界の端に褐色の肌が見えたので画面から目を離すと、彼の心配そうな瞳と視線が交わる。
全部を我慢できたのは、そこまでだった。

「キバナさんありがとう!大好きだ!」
「おわぁっ!?」

大きな声で叫んだ。
今までの人生で1番だったかもしれない。
夜の冷たい空気を思い切り吸い込んだ肺が少し傷んで、それでもその時の俺には高ぶった感情を抑える事が出来なかった。
そのまま彼の首に全力で抱きついた俺は、その首筋に頭を思い切り擦り付けた。
耳元で焦ったキバナさんの声が聞こえたけれど、彼はそれでもしっかり俺を受け止めてくれる。
身長差のせいで足は完全に地面から浮いていて、でもそんなことは気にならないくらい背中に回された大きな手が温かい。

「お前なぁ!」
「ありがとう。本当に、ありがとう!」
「…ったく」

一瞬後ろによろめいた体制を建て直した彼は、俺の背中を何度も優しく叩いた。


二歩目は大胆に