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それはただの気まぐれから起こった。
自分からはほとんど外に出ることの無い俺が、たまたま外の空気でも吸おうと、たった一人の家族であるワンパチと散歩に出かけてしまったのがすべての出会いの始まり。
運命の分かれ道だった。


「どうだ?楽しいか?」

その日は散歩するのに丁度良すぎる程の快晴だった。
隣を歩く相棒に話しかけてみると、ワンパチは楽しそうに独特の鳴き声でこちらに答える。
元々自分はポケモンに興味がなかった。
たまたま知人から譲り受けたこいつは、月日を共にしていくうちにいつの間にかかけがえのない家族になっていた。
微笑みながら見降ろすと、ぱちぱちと弾けるような綺麗な瞳がこちらを見上げる。
俺自身あまり外に出ない為か彼もどうやら外の世界が珍しいらしく、キョロキョロと辺りを見回しながら嬉しそうに走っていく。
ナックルシティ特有の城のような街並みを眺めながら、夢中で駆ける小さな家族の背中を見て思わず笑みが零れてしまう。
たまには外出も悪くないな。

そんな余裕があったのは初めのうちだけだった。


「ちょっと…早っお、おい!ワンパチ!あんまり離れると危ないって!」

景色を見るのに夢中になっていたせいだろうか。
ワンパチとの距離が俺から少しずつ離れていっているのに気が付くのが遅れてしまった。
俺が焦りだした頃には彼はいくら呼んだとて見向きもせずに、構わず何処かに走っていく。
電気をぱちぱちと弾けさせながらポケモンセンターの手前で曲がったその小さな体が、階段を駆け下りていくのが見えると同時に血の気が引いていくような感覚がする。

「ばか!そっちはダメだって!戻ってこい!」

少し遅れて同じようにその階段を駆け下りていく。
頭の中はその小さな家族を自分の元に繋ぎ止めるのに必死だった。
周りの状況とか、自分が何処に向かっているのかとか。
冷静に考えている余裕は俺には全く残されていなかった。

「ちょっと、君!?待ちなさい!」

階段の下で見張りをしていたおじさんが引き止める声も必死な俺の耳には届かない。
もう姿が見えなくなってしまった家族を探して考えなしに広大なワイルドエリアに踏み込んでしまったこの時の俺には、この後どんな地獄が待っているかなんて知る由もなかったのだ。


「おーい。どこにいるんだよ!」

それから、自分にとってはとんでもない距離を歩いたような気がする。
野生のポケモンを警戒しながら歩く俺の姿は、周りのトレーナーには一体どんな風に映っていたのだろうか。
草の揺れる音に驚いては体を縮めながら、広大な土地を行先もなく彷徨っていく。
青々と生い茂る草木。そして太陽の光を反射して輝く湖。
自然の中で暮らすポケモンたちはみんなどこか生き生きとしているような気がした。
ワンパチとしか触れ合ったことのない俺にとってはどこを見ても真新しいポケモンばかり。

「あのポケモン、可愛いな。なんて言う名前なんだろ」

正直、警戒していたのなんて初めの数十分だけだったように思う。
慣れというものは恐ろしい。
草むらに近づかないようにしながら同じ作業を繰り返していくうちに、いつの間にか野生のポケモンに対する怯えはなくなっていた。
ここが安全だと勘違いした俺の脳みそは警戒心なんてすっかり消してしまったようだ。
「草むらに入らなければ大丈夫」そんな甘い考えがいつからか自分の中に芽生え始めて、完全に油断していた。

そいつは、そんな無防備な俺を狙ったのだろう。
その巨体は死角になっていた岩の影からゆっくりと顔を出した。
影が差して、驚いた体が硬直する。
確かにその一瞬は警戒した。
けれど、可愛らしい見た目に完全に騙されてしてしまったのだと思う。

「あ、え…?クマ…?」

ゆっくりとした動作で目の前に出てきたのは桃色と黒の毛が可愛らしいクマ。耳は白い毛で覆われている。
柔らかそうなその姿に思わず笑みをこぼした俺の目の前で、ぬいぐるみのような出で立ちのそいつは無表情で俺を見下ろし続けた。
狂暴そうなやつじゃなくて良かった。
可愛らしいそいつに控えめに手を振って横を通り過ぎようとした。

「ごめんな。通るだけだから」

その瞬間だった。
何か固いものが折れる、嫌に重たい音がしたのは。
その初めて聞く音と共に、自分とクマの周りに砂埃が舞う。
近くの大きな木が倒れたのだと気が付くのに相当な時間がかかったように思う。
地面がまだ揺れているような感覚がする。
空中の砂を吸い込んでしまわないように咄嗟に両腕で顔を覆った。

「ひっ…!?」

次第に視界が開けてくると、その巨体がこちらを真っ直ぐに見据えているのが嫌でも目に入ってくる。
見間違えでなければ、一見可愛らしいその生き物はいとも簡単に片腕で木を倒してみせた。
まるで力の差を見せつけるかのように。
やばい。
考えなくても分かる。そいつの次の獲物は他でもない自分に違いなかった。
次の瞬間、思考するより先に体が動いていた。

「やっ…た、たすけ…っ」

そいつに背を向けてがむしゃらに走り出す。息をすることも忘れて。
助けを呼ぼうにも恐怖でうまく声が出ない。
入り口付近にはあんなにいたはずのトレーナー達はいつの間にかどこにもいなくなっていた。
どうしてこんな時に限って、不運は続いてしまうのだろうか。
心なしか空が暗くなってきたような気がする。

「だれかっ…な、んで…。人がいないんだ…?」

早く走れていたのは最初だけで、すぐに息が切れて足がもつれだした。
アイツは逃げ出した獲物を捕まえようと未だに追ってきているようで、後ろからひどく重たい足音が近づいてくる。
このままでは追い付かれてしまう。どう行動すれば助かるのだろうか。
どんなに考えても、どうしようもなく弱い俺に答えを見つけることは出来なかった。

「だ、め…も、走れな、い…」

結局、元々ほとんどない体力の限界はすぐに訪れた。
上がらなくなった足が転がっていた石を踏みつけて、そのまま体が傾いていく。
重苦しい足音が、うつ伏せに倒れた俺のすぐ後ろで止まった気配がした。
どうやって息をしていたのか忘れてしまったかのように、苦しい。肺が痛くて仕方がない。
自分の力で起き上がる元気なんてもう俺には残っていなかった。
自然に涙が溢れるのは擦りむいた頬と手がひりひりと痛む為なのか、それとも計り知れない程の恐怖心からなのか。

「っ…」

聞きたくなんてないのに、大きな咆哮が嫌でも鼓膜を揺らす。
きっとこのまま、誰にも気が付いてもらえないまま死んでしまうのだろう。
最後に思い出すのは俺のせいでこんな危険な場所に迷い込んでしまった家族の顔。
ごめん。俺のせいで。
そう思いながら思い切り目を瞑った。

「っ…おい!」

何かがぶつかるような大きな音と共に、地面が大きく揺れた。
けれどどんなに待っても、すっかり諦めた俺の体を想像していた痛みが襲うことはなかった。
あまりにも痛すぎて分からないのか、それとも気が付かないうちにもう死んでしまったのだろうか。
不思議に思っていると誰かに強く腕を掴まれて、すっかり力の抜けた体が無理矢理起こされる。
遠のいていた意識が引き戻された。
焦ったような大きな声が鼓膜を揺らして、温かい誰かに抱き寄せられる感覚がする。

「…大丈夫かっ!?」

突然現れた誰かは俺の両腕を掴むと無理矢理前を向かせた。
頭が付いていかない。
驚いて瞬きを繰り返すたび、瞳に溜まっていた涙が頬を滑り落ちていく。
鮮明になっていく視界の中で俺は初めて彼と目を合わせることになった。
目の前に飛び込んできたのは色気たっぷりな目元と、透き通るようなブルーの瞳。
そして俺とは正反対の大きな体に褐色の肌。
他人の見た目に疎い俺でもすぐに分かる程、目前の彼の容姿は完璧に整っていた。
返事をしない俺を見る彼は少し不安そうに眉を動かす。
一体どのくらいの間見つめ合っていたのだろうか。
先に目を逸らしたのは俺の方だった。

「あ、え…?」
「ったく、きちんと返事くらいしろよ。こっち見ろ。あー…頬擦りむいてんな…他にどっか怪我してないか?」
「さっきのポケモンは…?」

彼に気を取られていて気が付かなかったけれど、先程まで俺を襲っていたポケモンの姿が見えない。一体どこに行ってしまったのだろうか。
周りの景色は信じられない程に平和そのものだ。
きょろきょろと周りを見渡していると、彼は大きな体を器用に曲げて目の前にしゃがみ込む。
そして目を細めながらこちらの顔を覗き込んだ。
彼の長い指が自然な動作で俺の頬に触れるたび、ピリピリとした痛みが走る。
痛みにつられて目を閉じた拍子にまだ目に溜まっていた涙が一粒こぼれ落ちた。

「俺、生きてる…?」

擦りむいた手も頬も痛むけれど、とても疲れたけれど。
どうやらまだ自分はちゃんと生きているようだった。
胸に手を当てながら安心して息を吐くと、乱れていた息を整える。

「…あのな、聞いてんのか?」
「え?」

どこか少し不機嫌そうな声が聞こえてきたので自然に前を向く。
彼は先程までの焦った表情とは一転。声色と同じようにあからさまに不機嫌そうな顔をこちらに向けていた。
どうやら思考を巡らせるのに必死で、彼の言葉に反応することを忘れてしまっていたようだった。

「あっすいません!…あの、俺っ…何が起きているのか…全然…助かるなんて、思ってなくて…」
「ふーん?」
「ポケモンから逃げて…それで、こ、怖かった…死んじゃう、かと」

そうだ。
死ぬところだったのだ。簡単に折られてしまった木のように。
自分よりもはるかに大きな生き物に追いかけられて、どこに行けばいいか分からずに。
一人ぼっちで。

「お、おい泣くなって!オレさまが泣かせてるみたいだろ」

喋っているうちにさっきまでの恐怖がゆっくりと思考を侵食してくる。
ギョッとしたように目を見開いた彼の顔を見て初めて、再び自分が惨めに泣きだしてしまったことに気が付いた。
目の前の整った顔が滲んで、歪んでいく。鼻の奥がツンと痛くなった。
溜めきれなかった涙の粒が頬を流れ落ちるたび、頬に触れたままの彼の指も濡らしていく。

「わかった。分かったから!もう泣き止めって」
「ご、めんなさ…でも…止まんなくて」
「オレさまが助けてやったんだ。安心だろ?だから泣くな」
「へ…?おにいさんが?」

誇らしげに胸を張る彼の姿はそれが嘘ではないと証明しているようだった。
あんな一瞬で?どうやって?
現状が把握できない俺と、不敵に笑い続けるお兄さん。
笑うたび、白い八重歯が見え隠れする。

「ったく、ポケモンも持ってない癖に危ねえだろ」
「わっごめんなさい!」

俺がしばらく口を開けて呆けていると彼は俺の頭を乱暴に撫でた。
温かくて大きな手が髪をかき混ぜていく。
いつの間にか涙は止まっていて、彼も満足そうに笑って目を細めた。
吸い込まれてしまいそうな彼の瞳は晴れ渡った空と同じ色をしていた。


「落ち着いたかよ?」
「はい…すみませんでした」

人前で泣いたのなんて、一体いつぶりだっただろうか。
どうやらお兄さんは意外に面倒見が良いらしく、泣き止むまでずっと背中を撫でてくれていた。
彼のぬくもりが離れていくのがなんだか寂しくて、膝を抱えていた手に少しだけ力を込める。

「お兄さん、ありがとう。優しいんですね」

人から貰った優しさに、自然に笑みが零れる。
彼の方を見ながら小さく呟くと、一瞬だけ目を見開いた彼は俺から目を逸らしてほんの少し口を尖らせながら、気恥ずかしそうに頬を掻いた。
それから小さく息を吐いてスマホを指で示した。

「ポケモンを持ってない奴がうろついてるって連絡が来たから駆けつけてやっただけだ。それに…」
「…?」
「お兄さんじゃねえ。キバナだ」
「キバナ…さん?」
「おう」

優しくて格好良いお兄さんにピッタリの名前だ。綺麗。
そう思ったけれど、それを口に出すのは何となくやめておいた。
教えてもらったばかりの名前を復唱してみる。
すると、八重歯を見せながら満足気な笑顔を見せた彼が、また乱暴に俺の頭を撫でた。
そのまま立ち上がる彼を見上げて初めて、いつの間にかすっかり夕方になってしまっていることに気が付く。
青色だったはずの空は遠くの方から少しずつ綺麗なオレンジに色付き始めていた。

「ほら、早く立てよ。手ェ貸してやる」
「あ…りがとう、ございます」

空を眺める俺を訝しげに眺めていた彼は痺れを切らしたのか無理矢理俺の手を掴んで、いとも簡単に立ち上がらせてしまった。
なんだか面倒見のいい兄貴が出来たみたいだ。
そんな夢のようなことを思ってしまった自分がなんだか恥ずかしくて、彼の目を真っ直ぐ見つめ返すことが出来なかった。

「ほら、どっから来たんだ?送ってやるから」
「あ、いや。俺はまだここに用事があるので。助けてくださってありがとうございました。その…それでは」

掴んでいた彼の手を自然に離して、ぺこりと頭を下げて踵を返す。
これで誤魔化すつもりだったのだけれど、どうやら簡単に騙されてくれないようで、伸びてきたお兄さんの手がいとも簡単に俺の服を掴んだ。

「はぁっ!?何言ってんだ!んなこと許せるわけないだろ!俺の話聞いてたか?」
「でも…」
「でもじゃねぇ!」

彼から発せられる大きな声に驚いて瞬きを繰り返す。
お兄さんの言っていることは正しい。自分が間違っていることなんてとっくに分かっていた。
でもどんなに怒られたって、どんなに危ないからって、ここから1人で帰るわけにはいかないわけで。
あいつは無事だろうか。俺と同じような目に合ってないだろうか。
大好きな家族の顔を思い出して再び泣きそうになった情けない自分を抑えつけるように両手を強く握りしめた。

「実はこう見えてポケモン、持ってるから。大丈夫です」
「嘘つけ。どう見ても1人だろ。また襲われたらどうすんだ」
「持ってる」
「だーっ!我儘言うなっての!オレさまにも予定があるんだよ」
「ワンパチ…」
「あ?」

野生のポケモンは怖い。
さっきの出来事でそれは身を持って体験した。
思い出すだけで体が震えてしまう。
でも、俺にとってはそんなことよりも家族と離れてしまう方がずっと怖い。
怖くて怖くて、仕方がない。

「あいつがいなくなったら…本当に一人になっちゃう…から」
「…」
「俺のせいではぐれちゃって、探さなきゃいけなくて…たった一人の家族なんです!」

勝手に声が震える。
必死に喋っているうち、声色はどんどんと大きくなっていく。
こうしている間、一番大事な家族が危険な目に合っているかもしれないのだ。それなのに自分だけ家に帰るなんてできるはずがない。

「俺が助けてやらなくちゃいけないんです!」

怖い。けれど、もう涙は出なかった。
必死に迫る俺を見て、彼は目を真ん丸にしながら息を呑む。
そんなキバナさんの服の袖を離してしまわないように強く強く握りしめた。


最初の一歩、踏み出した。