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目を覚ましたのはダンデさんと座っていたソファではなく、自室のベッドだった。
どうやら寝ている間に運んでもらったようで、力の抜けた体は真っ白なシーツに包まれていた。
ふわふわと浮かぶような感覚の中、重い瞼と格闘していると白い天井が見え隠れする。
ふと、その視界の端に何か動くものが見えて無意識に視線をずらした。

「よぉ」

本来そこにいるはずのないその人物は、こちらの視線に気がつくとひらりと片手を上げて八重歯を見せて笑う。

「…、…キッ…!?」

遅れて反応した俺は、寝坊に気がついた時みたいに飛び上がって上半身を起こした。
呼ぼうとした彼の名前は信じられないほど掠れた声で音にはならずに空気に消えていく。
急に動いたせいか、世界が回るようにくらりと目眩が襲ってバランスを崩した体が横に倒れる。

「ったく、今にも死にそうな顔しやがって…」
「キバナさん…!?な、んで…?ダンデさん…は?」

ベッドから落ちかけた俺の体はすぐに懐かしい彼の体温に包まれた。
いつもより重く感じる頭を持ち上げることができないまま不機嫌そうな彼の声を聞く。
どうして彼がここにいるのだろう。だって、確かに眠る前まではダンデさんがここにいたはずで。
それにキバナさんには言わないで欲しいって、そう言ったはずなのに。

「ダンデなら仕事。たまたまここに来たオレ様とちょうど入れ替り」
「な、んで…来たの…?だって俺、元気だって言ったのに…」
「バーカ。誘拐されかけて、しかもワンパチと離れ離れ。そんな状態でお前がご機嫌に飯食ったり出かけたりするはずねぇだろうが。わかりやすい嘘つきやがって」

乱暴なのにどこか優しい声。
冷たくなった体に、再びゆったりと彼の体温が染み込んでくる。
会いに来てくれて嬉しいけれど、どんな顔をしたらいいのかわからなくて、顔を上げることができないでいた。
分かりやすく彼から顔を逸らして黙っていると、小さく息を吐く音が聞こえてきた。
こんな顔、見られたくない。

「ハルト」
「だって、忙しいって…」
「終わらせてきた。どっかの誰かさんのためにな」
「そっ…!そんな迷惑、かけられないです…帰って休んでください」

可愛くないことを言った。そんなこと、自分が一番理解していた。
図々しくワンパチの世話を頼んだくせに勝手に傷ついて突き放して、キバナさんからしたら迷惑な話で。
それでも彼はそんな最低な俺を怒りもせずにただ、考えを見透かしているとでも言いたげに優しく頭を撫で続ける。

「ほら、いい加減こっち見ろ」
「…やだ…見ないで」
「はぁ…なんて顔してんだ。世話が必要なのはお前の方だ」

大きな手に両頬を挟まれて無理やり上を向かされた。
目が合った途端、彼はあからさまに眉間に皺を寄せて不機嫌そうにその瞳を細めた。
酷い顔をしているのは自覚しているから、だから、見られたくなかったのに。
自由なままの両手で、白いシーツを握りしめた。

「立てるか?飯作ったから。食え」
「食えない…」
「わがまま言うんじゃねえ。ほら、立て」

首を振って否定した俺の意見は、彼の一言で簡単に無かったことにされてしまった。
体が無理やり抱き起こされる。
ベッドの中の俺を軽々と持ち上げた彼はそのまま素早く床に下ろすと、きちんと立てているか確認してすぐに両腕を離した。
両足が床についているはずなのに、何故だかふわふわしてまるで地面がないみたいだ。

「う、気持ち悪い…」
「おい…大丈夫か?」
「食えないって、言ってるのに」
「…お前、たまに変に頑固だよな」

ぽつりと漏らした文句。
それが聞こえていたのか恨めしげに俺を睨む彼の視線を感じながら、体を引きずるように無理矢理一歩を踏み出した。
けれどすぐに足がもつれてバランスを崩した体が後ろに傾いて、背中が彼の体にぶつかった。

「おっと」
「あ…ごめんなさい…」
「…本当に大丈夫か?ふらふらしてんぞ」
「へーき…」
「お前がそう言う時、だいたい平気じゃねえんだよ」

その言葉と同時に後ろから抱きしめられて、軽々と持ち上げられた。
無かったみたいだった地面が本当になくなって、驚いて振り上げた足が空気を蹴る。

「うわ、やっぱ軽っ…マジか」
「自分で歩けます!降ろして」
「はいはい…少しの間我慢な」

見慣れた景色が動く間、体を抱くそのたくましい腕を振りほどこうと必死で力を込めたけれど、力の差は歴然だった。
諦めて両手足を振っていた時には、傍から見れば俺はただの駄々っ子。

「ほら、着いたぞ。飯温めてきてやるから、とりあえずソファで寝とけ」

彼は暴れる俺の体を難なくソファに寝かせると、大人しくなったのを確認して自身が着ていたいつものパーカーを脱いで俺の体にかけた。
すぐにキッチンに歩いていく彼の背中をぼんやりと眺めた。

「…」

彼が居なくなったのを確認してから、体に掛けてもらった彼の上着を乱雑に丸めて抱きしめた。
横向きに寝そべって限界まで身体を丸める。あったかい。キバナさんの匂いがする。
本人から伝わってくるわけではない、間接的なその温もりが今はなんだか心地がいい。
ワンパチは元気だろうか。
本当はそれが一番気になっているのに、聞き出すのが怖くて何も言えないでいた。


「おー…オレ様の服、そんなに気に入ったか?」
「…、…」

しばらくすると、部屋に戻ってきたのだろう彼の足音が聞こえてきた。
のんびりとした低い声が鼓膜を揺らす。
それでもしばらく反応を示さずにいると、テーブルに何かを置く乾いた音がして、俺が身体を丸めているから空いている一人分のスペースに彼が腰を下ろした。

「目眩するんだろ」
「…うん」
「顔色。酷いぞ」

目を瞑っているだけで何にもしてないのに、勝手に揺れる世界。
自分のものじゃないみたいに重たい体に無理矢理力を入れてよろよろと起き上がった。
意志とは関係なくブレる視界が鬱陶しくて、前髪を握り締める。

「ぐらぐらする…」
「そりゃそうだ」
「うぅ…」
「…ダンデも心配してたぜ。今のお前を1人にすんなって言われた。…もうすっかり保護者だな」

ダンデさんの様子を思い出しているのか、どこかを見つめながら面白そうに笑う。
ダンデさんに、また迷惑をかけてしまった。
けれど、正直言うと途中から記憶が曖昧で、彼に何を言ったのか良く覚えていないというのが本音で。
ただ子供のように泣いて甘えてしまったという記憶だけが都合悪く残っていて、とにかく恥ずかしくて仕方がなかった。

「その…ダンデさん、他に俺のこと何にも言ってなかったですか?」
「は…?なんの話だ?」
「あ…言ってないならいいんです!…気にしないでください」
「っ…なんだよそれ…」

じわじわと熱くなる頬を隠すために下を向く。
そんな俺の様子を見ていたキバナさんは訝しげな顔をした後、小さく舌打ちしてすぐに不機嫌そうに自身の頭を乱暴に掻く。
それからしばらくすると、俺が抱いていた上着を乱暴に取り上げた。

「…持ってないで着てろ。寒いだろ」

乱雑に扱ったせいで少し皺が寄ってしまった上着が、彼の手で手際良く着せられていく。
指示通りに袖を通した途端に強くなるキバナさんの香り。
彼が慣れた手つきでチャックを上げていく様子を見つめた。
やがてその嫌味なほど大きな服にすっかり痩せてしまった体が包まれた頃、俺は彼が持ってきてくれた料理に視線を逸らした。
テーブルに置かれているのは、お粥だろうか。湯気が立ち昇るその深皿は、持っている食器の中で唯一愛着を持っているお気に入り。
色がワンパチに似ていて一目惚れして購入したものだ。

「お前のそれは寝てても治んねぇの。無理してでも食え。ほら、あったかいぞ」
「でも…せっかく作ってくれたのに、俺、ダメにするかも」

何を食べても体が受け付けなかった。
キバナさんが一生懸命作ってくれたものなのに、台無しにしてしまったらどうしよう。
大袈裟なほど余った服の裾を伸ばすように引っ張っていると、動かない俺を見かねた彼が皿を持ち上げた。
そして木のスプーンで掬ったそれをこちらに差し出す。

「ハルト」
「食べらんないよ」
「特別にオレ様が食わせてやるから。な?」
「…うん」

こちらを真っ直ぐ見つめる、真剣な彼の眼差し。
負けたのは俺の方だった。
差し出されたスプーンを思い切って口に含んだ。温かくて優しい味がする。
俺が物を口にしたのを見て、彼が安心したような顔をしたのを見逃さなかった。
不意に、彼とケーキを食べたあの日のことを思い出した。あそこのケーキ、美味しかったな。
元気になってワンパチも戻って来たらまた一緒に行きたい。
もし頼んだらキバナさんは約束してくれるだろうか。

「うまい…です」
「…だろ?ほら、もっと食え」

久しぶりに味を感じた気がする。本当に、美味しい。
ひとくち、またひとくちと口に含むたび、キバナさんが自分のことみたいに本当に嬉しそうに笑うものだから、俺の方がなんだか恥ずかしくなってしまった。
それから彼は、俺がいくら自分で食べると言っても聞いてくれなくて、小鳥にでも食べさせるみたいに俺の口に次々とご飯を運んでいった。

「食えるじゃねぇか。良かったな」
「うん…」

自分は今までずっと馬鹿みたいに意地を張っていて、だからご飯が食べられなかった。その事に気がつくのにそう時間はかからなかった。

「ごめんなさい。俺、キバナさんに謝らなきゃ…」
「はぁ?何の話だよ」
「俺、自分からワンパチのこと頼んだのに、一緒に居られるキバナさんに勝手に嫉妬したの。ご飯も食べずにムキになって、結局また迷惑かけちゃった」

ぽつぽつと話し始めたのはずっと喉につかえて苦しかったこと。
気まずくなっていたのは俺だけだって、そんなことは分かっていた。
会うのすら勝手に躊躇っていたのに、こうして実際に会ってみたらやっぱりいつも通りで優しいキバナさんにまた救われてしまった。

「…別に気にしてねぇよ。んなことより、次からはこんな事になる前にきちんと自分からオレに連絡して来い」
「えっ?」
「寂しかったんだろ?」
「でも…」

彼のぶっきらぼうに優しい言葉を噛みしめながら、テーブルに置かれた空っぽのお皿を眺める。
キバナさんも、ダンデさんも、ネズさんだって、何故かみんな俺の気持ちがすぐ分かってしまうのだから、隠し事なんてできそうにない。
けれどどんなに寂しくたって、忙しいキバナさん達を自分のわがままで振り回すような勇気は俺にはない。

「そんな深く考えなくてもいいだろ。オレが好きでやってることなんだから」
「でも…キバナさんは忙しいんだから、時間があるときにきちんと休んでください」
「今の顔色のお前にだけは言われたくねぇよ…まだ体調悪いだろ?寝るか?」
「ん…大丈夫」

心配そうに頭を撫でる彼の手を受け入れながら、そっと大きな体に寄り掛かった。
足元が何だか冷たい。
ワンパチがいた頃は、いつも俺がソファに座っていると寄ってきてくれたんだけどな。
いつもの癖で、ワンパチを撫でるみたいに手を動かして着せてもらったキバナさんの上着に触れた。

「ワンパチ、元気にしてますか?…俺がいなくても」

元気にしているのはキバナさんからのメールで知っていたけれど、聞かずにはいられなかった。
俺がいなくてもワンパチは大丈夫なのか。
聞きたいけれど、聞きたくない。怖い。指先が震える。
消え入りそうな声で呟いた俺の疑問は、静かな部屋に吸い込まれていった。
それでも彼には届いていたようで、頭を撫でる手の動きが止まったと思ったらすぐ近くから大きなため息が聞こえてきた。

「お前ら…似た者同士っつーか…飼い主に似たのか?」
「え?何の話…?」
「お互い素直じゃねえなってこと!早く良くなって仲直りしろよ」

謝るときは、俺も付いててやるから。
彼はそう言いながら、元々寝癖だらけの俺の髪の毛を乱暴にかき回した。
歯を見せながら眩しいほど朗らかに、弾けるみたいに、にぱっと笑う。
それはなんだか見覚えのある笑顔。
思わず手を伸ばして、バンダナ越しに彼の頭を撫でた。

「キバナさんも…」
「あ?なんだよ」
「ワンパチによく似てますね」
「…喧嘩売ってんのか?」

思ったことをそのまま口に出すと、キバナさんは笑顔から一転、こめかみを押さえながら不機嫌そうな顔をした。

「すぐ噛むところもそっくり」
「はぁ?」
「キバナさんの噛み跡、全然消えないんですよ?」

俺はおもむろに絆創膏を外すと、首を傾けて彼に見えるように部屋着の首元を広げて見せた。
そういえば、ワンパチも来たばかりの頃は俺のことを噛んでばっかりで、小さな傷跡が絶えなかったっけ。
そんな俺の傷をただ見ていた彼はしばらくすると、あからさまに視線を斜め上に逸らした。
それから、ほんのりと頬の血色を良くする。

「あー…なんつーか…あれだな…」
「なんですか」

彼はしばらく歯切れ悪く言葉を探しながら、数回俺の傷を確認した。
初めは反省しているようにも見えたけれど、その様子はすぐに見えなくなった。
やがてじとりと睨む俺の視線に気が付いた時には、手を叩いて悪戯を思いついたという顔をする。
にんまりと嬉しそうに笑うその顔はなんだか見慣れてしまった。

「消えないようにもっかい噛んでやろうか」
「うん…?あ…えっと…、…お願い、しようかな」
「…え゙っ?」

どうしてそんな返しをしたのか自分でもよくわからなかった。
今度こそ腑抜けた自分の目を覚ましたかったのか、それとも昔のワンパチを思い出したせいだろうか。
前のめりになって彼に身体を近づけると、首を傾けながら目を伏せる。
すると彼自身もその返しは想定していなかったのか、喉から変な音を出しながら八重歯を見せた状態で固まった。
そしてすぐに現実に戻ってくると、首を振りながら俺の肩を掴んで、乱れた服を正していく。

「い、いやっ冗談!冗談だって!」
「…そうなんですか?」
「オレ様、あの後めちゃくちゃネズにどやされたんだぜ?それに、お前も痛かっただろ?」
「痛かった。けど…やじゃなかった」

目を見開く彼を真っ直ぐに見上げた。
きっと全部終わってしまったからだと思うけれど、あの時感じた彼の温もりといい香りは正直悪くなかった…と思う。
痛かったという記憶はあるけれど、あの皮膚を突き刺すような感覚だけ都合よく忘れてしまった。
それに、思い出したら何故だか胸のあたりが締め付けられるような気がする。

「なんで嫌じゃなかったのか、知りたい」
「…却下だ!お前、いつの間にか保護者増やしてっから、どやされてめんどくせーの!もっと大人になってからだ」
「なにそれ…噛むのと関係あるんですか?」
「…あるの!」

彼に向けたのは期待の眼差し。
けれど腕を組んでそっぽを向いた彼に一蹴されてしまった。
少し不機嫌そうに口を尖らせたキバナさんは、自身のバンダナを下げて目元を隠した。

「ったく…こっちの気も知らねぇで…」
「ごめんなさい…」

もう一度噛むかどうか聞いてきたのはそっちじゃないか。
俺も納得いかない部分がたくさんあったけれど、キバナさんの表情からあからさまな機嫌の悪さを伺うことができたので、この話は強制的に終わりにすることにした。
なんだか少し、残念。
斜め下に視線を逸らしながら消えない傷跡を指で撫でた。

「…んなことより」
「うん?」
「その目のこと、ダンデに聞いた。…悪かったな」

背中を丸めて俺の顔を覗き込んだ彼が言いにくそうに切り出したのは、先日瞳に入れたコンタクトの話。

「なんか、もったいねえな」
「そうかな?取れば元に戻るよ」
「まぁ、そうだけどよ」

彼の綺麗なブルーの瞳が真っ直ぐこちらに向けられる。
恐る恐るといった様子で伸びてきた大きな手が優しく頬に触れた。

「キバナさんもダンデさんも、全然教えてくんないんだもん」
「悪い」
「俺、なんで皆に見られるの?」
「あー…それは。とりあえずこれ見ろ」

ずっと近くを飛んでいたスマホロトムが、彼の指示で目の前に飛んでくる。
その画面に表示されていたのは、この前の喫茶店でフォークを差し出すキバナさんと、嬉しそうに目を細めてケーキを頬張る俺の写真。

「おー…よく撮れてますね」
「お前なぁ…」

呑気なことを言ったせいか、彼はがくりと肩を落とした。
それからすぐに真剣な顔をした彼から聞いたのは、カフェで俺達がケーキを食べているところをキバナさんのファンに隠し撮りされてしまったこと。
それがSNSでたくさんの人に見られてしまったこと。
元の画像は消せたけれど、一度流出してしまったのでもう止めることはできないということ。
それと、何故だか俺のファンが増えているということも。

「へ…?俺?」
「そー。この男の子は誰だとか、もっと写真が見たいとか、俺のとこにメッセージが来るわけよ」
「なんで俺…?キバナさんじゃなくて?」
「お前…もっと自分に興味持った方がいいんじゃないか?」

戸惑う俺に向かって、彼はすこし呆れたような顔を見せた。
どうして何の取り柄もない一般人である俺の話になるのか。
俺が首を傾げる間、彼はずっとスマホに指を滑らせていた。

「そういうの疎くて、良くわかんない」
「あー…だろうな」
「あ、でも…キバナさんのことは、初めて見たあの時、凄く綺麗な人だって思いました」
「…っお前なぁ!」

膝を抱えて座りながら目を細めて、綺麗な彼を見上げる。
すると、スマホから目を離してこちらを見たまま一瞬固まった彼が、じわじわと赤くなりながら大きな声で俺の言葉を遮った。
自由になったロトムがどこかに飛んでいく。
これは、照れているのだろうか。
キバナさんならそれぐらい言われ慣れていそうなのに、なんだか意外な反応だった。

「はぁあ…兎に角、気を付けろよ」
「へ…なんで?」
「実際、この前みたいなお前を狙った悪質な奴も湧いてる訳だし、それにオレといることを面白くないと思ってる奴もいる」
「…なんで面白くないの?」
「なんでって、そりゃあ…キバナ様のことが好きだからだろ」
「ふぅん」

自信満々に胸を張る彼から視線を逸らす。やっぱり、人気者なんだ。
俺なんかただの一般人で彼にとっては何でもない存在なのだから、そんなこと気にしなくてもいいのに。
きっとキバナさんの熱心なファンの人達の方が、俺よりもたくさん彼のことを知っているんだろう。
考えてみれば俺は、キバナさんのことをほとんど何も知らない。
そう思ったらなんだか急に胸が締め付けられるみたいに痛くなって、自分のことなんかどうでも良くなってしまった。
適当に相槌を打ちながら彼のパーカーに包まれた自分の体を見下ろす。

俺だってキバナさんのこと、好きなのにな。

「あれ…?」
「お…?どうした?」

無意識に飛び出した思いもよらない考えに、自分で首を傾げる。
誰が、誰を好きだって?
ぽかんと呆ける間も、不思議そうにこちらの顔を覗き込む彼の視線を感じた。

「うん…なんでもない。勘違いだったかも…」
「ふーん。…まぁいいや。なるべくオレも気を付けるけど、お前自身もきちんと危機感持てよ?」
「へーき。気を付ける」
「はぁ…本当かよ…」

最後の方は、彼が何を言っているのかさえ聞いていられなかった。


九歩目だけは許して