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その日、黒く塗りつぶされていた意識が鮮明になったのは突然鳴り響いたチャイムの音がきっかけだった。
それでもしばらくぼんやりとしていた俺は、反応するのが遅くなってしまったことに気がつくと、慌てて近くに置いてあった帽子を手に取ってから玄関に向かってばたばたと走っていく。
覗き窓から誰が来たのか確認すると、すぐに目を真ん丸に見開くことになった。

「ダンデさん…?」

私服だろうか。
いつもとは違う格好をしているので一瞬分からなかったけれど、扉の向こうには確かに忙しいはずのダンデさんが立っていた。
こちらの都合で待たせてしまった事に罪悪感を覚えながら、すぐに鍵を開けてそろりと顔を出すと、彼はにこりと優しく太陽のように笑う。

「すいません!お待たせしてしまって」
「久しぶりだな。調子は良くなったか?」
「は、はい!ありがとうございました!すっかり元気です」
「そうか、良かった」
「あ、中どうぞ」

格好が私服とはいえ、彼はチャンピオン。
もし、俺みたいな一般人の家に来ているのがバレたら迷惑がかかるかもしれない。
そこまで思考を巡らせた俺は、慌てて後ろに下がって彼を中に招き入れた。
こっそりと外を確認したけれど、誰かにばれている様子はない。

「すみません。ダンデさんにはいつもご迷惑をおかけして…」
「あぁ…それは構わないけれど…ところでそれ、何で被ってるんだ?」
「へっ?」
「顔が見えないんだが…」

不思議そうに彼が指さしたのは、出迎えた時からずっと深く被っていた帽子。
「なんで」その問いに対する答えをすぐに見つけ出すことができなかった。
つばで見えていないだろうけれどなんだか居心地が悪くて、彼からそっと視線を逸らす。

「その…別に、深い理由は…ないんですけど」
「ふむ…」
「あっ!」

突然開けた視界。
俺の答えを聞いて口元に手を当てて何か考え込んでいた彼に、ぱっと素早く帽子を取られてしまった。
一瞬理解できなくて反応が遅れた俺は、彼と目が合ったことに驚いて目を見開く。
対するダンデさんも、こちらと同じように目を見開いていた。
慌てて両手で目元を隠したときには、もう何もかも遅かった。

「ハルト…その目」
「あ、えと…」

ずっと隠していたのは、目に入れた真っ黒なカラーコンタクト。
黒髪に、黒い瞳。今の俺はどこにでもいる普通の人。
帽子を高く掲げたままこちらを見る彼の視線がなんだか居心地が悪くて、自分の指同士を絡めながら一歩後ろに下がる。

「その…別に、理由は本当に無いんです。イメチェンと言うか…」
「ハルト」
「…はい?」
「少し、俺と話さないか?」

そう言いながら、彼は俺に帽子を手渡した。



「あの、コーヒーしかなかったんですけど…」

キッチンから出てくると、彼はソファに姿勢よく座ったままどこか一点を見つめていた。
彼のその視線がこちらに向いたタイミングで、湯気の立ち上るマグカップを1つ手渡す。

「ありがとう」

ガムシロップとミルクの入った皿をテーブルの上にそっと置く。
隣同士で座ったのは、傷を直して貰ったあの時のソファ。
暗闇のようなコーヒーに、いつもと同じようにガムシロップを2つ。
ミルクをいれながら、全部がゆっくりと濁って混ざり合う様子を静かに見つめる。
彼はカップに口を付けることなく、そのままテーブルに置くと隣に座る俺に向き直った。

「ハルト。本当は体調、悪いままなんじゃないか?」
「へっ?」
「ずいぶん痩せたように見える」

言うと、こちらに手を伸ばして頬に触れようとして、何か躊躇ったように視線を逸らした後にその手を引っ込める。
思いつめたような表情。
どうしてダンデさんがそんな顔をするのか分からずに、俺はただ自分に触れることのなかったそのぬくもりを少し勿体なく思った。

「気のせいですよ!…ちゃんと食べてます。俺、意外と大食いなんですよ」
「…そうか」
「一緒にご飯も行ったじゃないですか。ダンデさんも知ってるでしょ?この前のご飯、美味しかったですね」

俺の視線はずっと手の中の温かいマグカップに向いていた。
コーヒーとミルクは、すっかり混ざり合ってしまっていた。
彼との思い出を話しながら、俺はきちんと笑えていただろうか。

「それと、目の下。隈が酷いぞ」
「えっと…」

ここで素早く答えられていれば完璧だったのに、思わず言葉に詰まってしまった。
さっきまで饒舌に話していた俺の言葉が止まった途端、彼の眉が少し動いた。
誤魔化せない事実を突かれた瞬間に頭が真っ白になって、靄がかかったみたいに視界が悪くなった。自分の頭を支えるのは、こんなに大変だっただろうか。
まるでかかっていた魔法がとけたみたいだった。
手の中のマグカップが酷く重い。

「…ワンパチの姿が見えないようだが」
「…っ…」
「ハルト」
「キバナさんが見てくれてます…たまには1人になりたくて。数日間だけです。無理言って、俺から頼んだので」
「…なるほど」

それは、今一番触れて欲しくない、柔らかい部分。
びくりと肩を震わせた俺をその瞳は見逃さなかったようだ。
小さく反応した彼は、部屋をぐるりと見渡してから、俺が用意してしまったワンパチのご飯を見つける。
虚しい痕跡は、ずっとそこに残り続けていた。
彼の顔から、表情が消えた。

「ハルト。いつから食べてないんだ?最後に寝たのはいつだ」

それは問いかけと言うよりも、答え合わせ。
すっと目を細めたダンデさんは背中を丸めると、逃げるように視線をそらしていた俺の顔を覗き込む。
分からない。時間の流れなんか、知りたくない。
今すぐに、両耳を塞いでしまいたくなった。
記憶がない空白の時間はたくさんあるけれど、寝ていたのか気を失っていたのか。それともただ無心だったのか。一体どれなのかは自分にもわからない。

「わかんない…です」

そう、全部分からない。
今自分がきちんと話せているのかも、話しているのが本当に自分なのかも。
本当は立ち上がるのすら億劫だったはずなのに、どうしてさっきまで動けていたのか、それすらも良く分かっていない。
何となく首に触れると、そこに貼られた大きな絆創膏。
キバナさんにつけられた傷は時間が経ってもなかなか消えてくれることはなかった。
忘れるのを許さないとでも言いたげに、いつまでも首に残り続ける。
いっそのこともう一度思い切り噛んでもらえば、この悪夢から目覚められるかもしれないのに。

「…ワンパチは、本当にキバナのところにいるんだな?」
「うん。それは本当です。…俺が頼んだの」
「それで、そのキバナは?」

俺から頼んだのだから、何でもないことだ。
酷く重い頭がふらふらと揺れる。
瞬間、反応した彼が俺の手からマグカップを取り上げてしまった。
せっかく温まった体温がすぐに空中に溶けていく。

「キバナさん、最近すごく忙しいみたいで。でも毎日ワンパチの写真を送ってきてくれるんです」

優しい彼から、毎日マメに元気な相棒の写真が送られてくる。
怪我もないようだし、元気にしてくれていて本当によかった。無事で本当に安心した。
そのはずなのに、日を増すごとに自分の中で少しずつ大きくなっていく黒いもやもやは一体何なのだろう。
ずっと何かが喉にひっかかっているみたいで、苦しい。

「だから俺も近況を送るの。心配させないように」

何を食べたとか、何処に出掛けたとか。
嘘の日記を毎日、毎日。
彼との文面だけでのやり取りが、いつの間にか自分の日課になってしまっていた。
けれど、「心配させないように」なんて全部嘘。
本当は自分のちっぽけなプライドを守るため。自分から頼んでおいてこんなにボロボロになっているなんて格好悪いから。
こんなところキバナさんには見られたくない。本当は、ダンデさんにも。

「何があった?」

嘘は許さないと、意志の強いその眼ははっきりと語っていた。
だから俺は、その命令に応えるために小さく頷くと、聞こえてくる質問通りに今まで起こったことをぽつりぽつりと話し始めた。
1人で出掛けて誘拐されてしまいそうになったこと。ネズさんに助けて貰ったこと。
キバナさんにたくさん怒られたこと。
そして、ワンパチのこと。
欲しかった木の実は手元に一つも残らなかった。

「…大体わかった」
「うん…ごめんなさい」

黙って聞いていた彼が大きく息を吐きながら、長い睫毛を伏せた。
一体自分は、誰に謝っているのだろう。

「最後に聞いていいか?」
「…?」
「そのコンタクトは、何か関係があるのか?」

綺麗なのに少し残念だ。
彼はそう言いながら少し複雑そうな表情を見せた。
表情がよく変わる人だ。真っ直ぐで、眩しくて、羨ましい。なぜか視線を逸らすことができない。
いつかは必ず聞かれると思っていた。

「あの…大した理由じゃないんですけど」
「あぁ」
「外に出た時に、いろんな人に見られてる気がするんです…」

自意識過剰。
そう言われてしまえば終わりだけれど、居心地が悪くて仕方がない。
突き刺さるような視線はいつの間にか自分を疲弊させていた。
どうして自分がそんなに見られているのか、理由もわからない。
だから変装することにしたのだ。自分の一番の特徴である目の色を変えてしまえば。そう思った。
喋っているうちに段々と自信がなくなってきた俺は、彼から視線を外して下を向いた。

「この前のこともあるし、なんか怖くて…」
「…まさか、キバナから何も聞いてないのか?」
「えっ…?」

笑われると思っていた。
だから、予想と違う彼の答えに勢いよく顔を上げる。
どうして今キバナさんの名前が出るのだろうか。
そう思った瞬間、何故だか俺を誘拐した人の言葉が頭をよぎった。「ネットで話題になっている」

「はぁ…あいつ…」
「ダンデさん…何か、知ってるの?」
「あぁ。…まぁ、な…」

俺の反応を見ていた彼は目元に手を当てて、深くため息を吐いた。
何か知っているような反応を見せた彼の方に思わず身を乗り出すと、気まずそうに視線を彷徨わせて、言いにくそうに言葉を濁した。

「言えないことなの?」
「…そうだな、今は。とにかく君は自分の体調管理をしてからだ。見ていられない」
「でも…食欲なんて」

俺だって食べる努力はしたのだ。
普通の食事から始まって、甘いケーキに、クッキー。透き通るゼリーまで。色々挑戦してみた。
前までの自分ならばいくらでも食べることができたのに。
無理に飲み込むことはできるけれど、体が受け付けないのだ。

「食べたくない」

あんなに大好きだった甘いスイーツに、魅力を感じなくなってしまった。
メロンソーダに夢が見られなくなってしまった。
世界から色が消えてしまったみたいで、居心地が悪い。
ダンデさんの瞳の色も、今は綺麗に見えなくなってしまった。

「誘拐されそうになってから、本当はしばらくずっと心細くて怖かったんです。でも、もう大丈夫。…元気だし、一人は慣れてるから」
「…」
「それに、ダンデさんが来てくれたからかな。ちょっと気が紛れた、というか」

ありがとうございます。
俯きながら小さくお礼を言った。
一人でも大丈夫。きちんと元気になってから謝れば、ワンパチはいつか帰ってきてくれる。
ダンデさんの笑顔を見ていたら、何もなくなってしまった空っぽの胸の中が少し埋まったような気がした。

「ハルト」

名前を呼ばれて顔を上げると彼の大きな手がこちらに伸びてきているのが見えた。
それが何故だか凄く怖くて、勝手に体が硬直する。
思い切り目を閉じた俺を見た彼が小さく謝った。

「すまない」
「…っ…」
「嫌かもしれないけれど、我慢してくれ」

優しい手が頭に触れて、そのまま彼の胸に引き寄せるように動く。
軽い調子でぶつかった額に目を見開く。
ダンデさんは俺の頭を撫でているのとは逆の手で、小さな子供をあやすみたいに何度もぽんぽんと優しく背中を叩いた。
自分の体を包むそれは、知らないうちに焦がれるようになってしまった、人のぬくもり。
前までの自分はこんな弱虫じゃなかったのに。

「ありがとう、ございます…」
「寂しかったな」

寂しい。そう、ずっと一人で寂しかった。
彼は冷たい俺の体を温めるように優しく背中をさすってくれた。
ずっと我慢していた涙が一粒だけ流れた。
格好悪い。
こんなに泣き虫になったのは、あの時彼に初めて会ってから。

「お願い。キバナさんには言わないで…」
「ハルト…」

会いたくない。見られたくない。だから黙っていた。
体を預けた彼の胸から命の音が聞こえる。
温かくて真っ直ぐで、優しい音。
ダンデさんにだって、きっと俺なんかの何倍も辛いことが沢山あるだろうに。
それなのに子供みたいに泣きついて、ぼろぼろになって、本当に情けない。

「悔しいんです…」
「…」
「楽しそうにしてるワンパチを見るの、嬉しいはずなのに、悔しい。最低ですよね。キバナさんに頼んだのは俺の方なのに」

それは一方的な、醜い嫉妬。
ワンパチとずっと一緒に居たのは俺なのに。今も一緒に居るはずだったのに。
忙しい彼に無理を言ったのは俺の癖に、こんな気持ちになるなんて。
自分がこんなに最低な人間だとは思わなかった。
小さな声で呟いていく俺の言葉を、ダンデさんは肯定も否定もすることなく、ただずっと真剣に聞いてくれていた。
胸の辺りがずっと苦しい。

「こんなんじゃ、キバナさんに顔向けできないです」

どんな顔をして会えばいいのか分からないし、なによりもう一度ワンパチに拒絶されるのが怖い。
これ以上追い詰められたら、自分は一体どうなってしまうのだろう。

「…ハルト。一度眠った方が良い」

耳元で囁かれる低い声。
ぽんぽんと背中から伝わってくる、一定のリズム。
預けた頭が重くて、自分でうまく支えられない。
髪を梳く大きな手が優しくて、ずっと溜めこんでいた感情と一緒に大きくゆっくり息を吐いた。
彼の体温はじんわりと染み込んできて、ゆったりとした波になって広がっていく。
酷く眠い。

「う、…ン…」

少しずつ降りてくる瞼に抗うことができなかった。
誘われるまま意識を手放す寸前、彼が何か言ったような気がしたけれど、その時の俺には何も聞こえなかった。


八歩目の透明な自分