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★ ☆ ★




ぽたり。気が付けばいつの間にか瞳から涙が溢れていて、透明な雫が頬を伝って静かに床を濡らしていた。
喉から漏れそうになった嗚咽を、唇を噛んでなんとか堪える。
何故だか分からないけれど無性に悔しくて、冷え切って白くなった自分の足先を小さく睨みつけた。
大きく息を吸い込んで乱暴に目元の涙を拭うと、とっくに充電の切れてしまった自分の携帯を拾い上げてパジャマの簡易的なポケットの中に乱雑に押し込んだ。
そして端に寄せてあった靴に足を入れる。

「よし…」

震える自分をなんとか励まそうとして両手で軽く頬を叩いた。
兎に角、いつ飛田さんが帰ってくるかも分からないのだから、俺には迷っている暇なんてない。すぐにでも此処から出ていかなければいけなかった。
あの日どうしても開かなかったあの白い扉を視界に入れる。
それと同時にここに居ないはずの安室さんの纏う石鹸の香りと、もうすっかり忘れてしまった彼の優しいぬくもりが返ってきたような気がした。
緊張の所為か大きく見えるドアに近づくと、冷たいノブに触れた。
けれど、どんなに回しても押しても引いても、びくともしないそれに思わずぐっと息を詰まらせた。
しばらくしてノブを回すことを諦めた俺はその冷たい扉に向かって握りしめた手を叩きつけた。
ドン、という鈍い音が白い部屋に重く響く。
それを何度も繰り返しながら俺は口を開いた。

「すみません!誰か…!」

言い終わって黙ると、室内は虚しくなる程に静けさを取り戻した。
返事はなかった。

「開かないんです!あ、あの…!すいません、誰か…誰か…!い、ませんか…?」

諦めずに何度も何度も目の前に立ちはだかる憎い扉を叩き続ける。
誰かに聞かれたらと思うと羞恥心で赤くなる顔を誤魔化しながら何とか大きな声を出したけれど、いくら待っても返事が返ってくることはなかった。

やっぱり、俺なんか…。
張り付いていた扉から離れると、最後にトンと軽く殴りつけた。
行き当たりばったりで行動したところで何かできるわけもない。悔しい。下を向いてパジャマの裾を思い切り握った。その時。
目の前の扉から控えめなノックの音がして、思い切り顔を上げた。

「へっ…?」

軽い音を出しながら確かに目の前で回るドアノブに呆然としていると、きっちりとした服装の、おそらくこのホテルの従業員であろう優しそうな男性が恐る恐るといった様子でこちらを覗き込んだ。
泣きそうに歪ませていた顔を慌てて隠そうとしていると、彼はそんな俺を見るなり絞り出すようにして緊張で少し掠れた声を出した。

「お客様…?どうされましたか?」
「あ…え、と…そのドア、開かなくて…」
「…え?」

彼に投げかけられたその言葉で初めて、今自分が知らない誰かと会話をしなければいけない状況に置かれているということに気が付いた俺は何度も視線を頼りなく彷徨わせた。
彼は、俺が何とか口を開いて伝えることに成功した「開かない」という言葉に不思議そうに眉を動かした。
言いたいことは分かる。きっと「今開いたではないか」と、そう思っているのだろう。
どうやら内側から開かないなんて、本来はそんなことあり得ないことのようで、その事実を疑問に思うよりも先に、自分が今すぐここから出ていかなくてはならないことを思い出した。

「えと…、ありがとう…ございました…」
「え、…あの、お客様!?」

小さく頭を下げながらお礼を言うと、俺は彼の顔を見ずに追いやるように外に飛び出した。
必要以上に何も言わなかったのは「閉じ込められていた」なんて言ったら安室さんが悪者にされてしまいかねないと思ったからで。
こちらの様子がおかしいことに気が付いたのか、慌ててこちらに手を伸ばそうとする仕事熱心な彼を振り返ることなく、俺はがむしゃらに走り出した。

「げっ…森山くん!?おいっ」

後ろから聞こえる、酷く慌てた知らない男の人の声。
バレた。脳が一瞬で処理すると、俺は思い切り目を瞑って必死になって逃げる。
訳も分からず息が詰まって胸の辺りが握られているみたいに苦しい、ドキドキする。
廊下の突き当たりの、ちょうど開いたエレベーターに飛び乗った俺は乱暴にボタンを操作すると、追いかけてきている誰かの顔を確認することなく思い切り目を瞑る。
無意識に止めていた息を思い切り吐き出しながら、目の前のボタンに縋るように手をついた。
心臓がはち切れてしまいそうな程煩い。
何故だか分からないけれど追われるというその行為自体が怖くて怖くて堪らない。

「止、まんないで…お願い…っ!」

規則的に並ぶボタンに額を寄せながら、どうか途中で止まらないようにと、必死になって祈った。
少しでも遅れたら、俺は追いかけてきている誰かに捕まってしまう。
幸い、俺のエレベーターは一度も止まらずに一階の広々としたエントランスに着いたようだった。
目的地についたことを知らせる甲高いベルの音と共に開かれる目の前の扉。
そこではソファーに座った人たちが思い思いにくつろぎながら、待ち合わせや談笑に使っていた。
走ったら怪しまれる。最悪、引き留められるかもしれない。
そう思って胸に手を当てた俺は一つだけ息を吐くと、エレベーターから一歩を踏み出した。

きょろきょろと周りを伺いながら一歩一歩を進んでいく。緊張の所為か、自動ドアまでの距離がまるで永遠にも感じられた。
すると、カウンターに立っている女性が一瞬訝し気にこちらに視線を送った。
それに怯んだ俺は喉に詰まった息を吐かないように。そして視線を逸らすのをなんとか我慢しながら、ぺこりと彼女に向かって小さく頭を下げる。
すると彼女はコンビニにでも行くと思ったのだろう。
口の端だけ上げて俺と同じように頭を下げて、こちらから視線を外すと手元の紙に集中し始めた。
バレなかった。そのことに安心した俺は先程までよりも少し早足で、高級そうなエントランスから逃げるように自動ドアをくぐったのだった。


外に出ると、久しぶりの陽光が俺の体を包み込んだ。
その温かさに安心したのもつかの間、追いかけられていることを思い出した俺は慌てて走り出すと、大通りからそれて狭い路地に逃げ込んだ。
目的地もわからずに入り組んだ路地を何度も曲がりながら走って走って、どこかの道に出る直前の所で俺は足を止める。
がむしゃらに走る間は夢中で気が付かなかったけれど、一度止まってしまうと肺が小さくなってしまったみたいに痛くて、どんなに息を吸っても苦しいままだった。
口の中に広がる鉄の味に眉を寄せている間にも、信じられない程汗が噴き出てくる。

「は、はぁ…っは…」

狭くて暗いそこでは俺の必死な息遣いだけが響いていた。
はち切れんばかりに必死に動き続ける心臓が煩くて、周りの音が何も聞こえない。
確証はないけれどどうやら誰も追ってきてはいないようだった。
ぼんやりとしていた思考が少しずつ戻ってくると同時に、自分の置かれた状況も少しずつ見えてきてしまった。

「ここ、どこ…?」

夢中で飛び出したはいいものの、ここが何処なのか全くわからない。
携帯は充電が無いし、もちろんお金も持っていない。
どちらに進めば自分の家なのかもさっぱりだった。
それでも今更あの部屋に戻ろうなんて思えなかったし、何よりも何階の何号室なのかも分からないので、戻る方法は分からなかった。
この先どうすればいいかなんて見当もつかなかったけれど、俺はとりあえず疲れ切った自分の体を何とか休ませようと重力に引かれるままその場に膝を抱えて座り込んだ。
大通りから漏れてくる太陽の光はこちらに届くことなく、何もない地面を照らしていた。

「はぁ…ぁー…うう…」

意味のない言葉を何度も何度も、うわ言のように呻いた。
知らない場所に飛び出してしまった恐怖よりも今は疲労の方が勝っていて、苦しい。
酸欠のせいか、ガンガンと響くような頭痛で目の前がくらくらする。
流れてくる汗が不規則に何度も地面の色を変えていった。

「…晶太?」

静かに呼ばれた自分の名前に無意識に反応した。
重たい頭をゆっくりと小さく持ち上げる。
今まで気が付かなかった煙草の香りが途端に辺りに充満したような気がした。
逆光ではっきりとは見えなかったけれど、その中で唯一見えた信じられない物を見たと言いたげなそのグリーンの瞳が、うずくまって動かけなくなった俺を真っ直ぐ見据えていた。


僕の声を聞いて 

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