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ショック療法

課題を早めに終わらせた。
そのどうしようもない理由の自信は気分を自然に浮つかせた。
しっかり気合を入れてセットした髪型はバッチリだし、見栄でつけている黒縁の伊達メガネもぴかぴか。
新品の靴に足を入れた俺は、特に理由もなく街を歩いていた。
外に出てきてみたはいいけれど目的はない。
手ごろなカフェでも探そうかと辺りを見回したけれど、やはりどこも混んでいるようだ。
休日だからなのか普段より人通りの多い道を、マイペースにのんびりと歩く。
このまま歩くのならば公園にでも行ったほうがいいだろうか。
そう思って行先を変えようとしたその時。

「…わっ!?」

突然、後ろから誰かに背中を押された。
俺が一体何をしたというのだろう。力強く弾かれた体が人混みから飛び出した。
あんなに聞こえていたはずの周りの話し声が聞こえなくなって、背中が冷たくなった。
咄嗟に反応することができなくて、そのまま重力に従って体が前に傾く。

「わ、…っわ…」
「…っ…」
「…ぇ…あ、すいませ…っ…」

そのまま倒れるかと思った体が、誰かの腕に抱き留められた。
固い胸板に頭が当たる衝撃で息が詰まる。
慌てて体を起こして謝りながら顔を上げると、真っ黒な服に真っ黒なニット帽。
顔は怖いぐらいに整っているのに、怪しさしか感じられない装いのその人は眉一つ動かさずに俺のことを見据えた。
鋭いエメラルドグリーンが眩しいくらいに輝いて見える。
そんな彼からするのは、強い強い煙草の香り。
俺を捕らえたその瞳はしばらく俺から逸らされることはなく、腰に添えられた手に少し力が籠ったような気がする。

「あ、の…えと…本当にすみません。助かりました」
「…」
「あの…?」

恐る恐る声をかけると、彼はやっと俺から視線を外した。
彼は隈の目立つ目を細めて眉を寄せながら、謝るこちらに今度は視線も合わせずに後ろの人混みを確認した。
それから、俺の肩を軽く叩くと返事もしないでどこかに歩いていく。
…何だったのだろうか。
不思議な彼をもう一度確認しようと、後ろを振り返ろうとした体にもう一度衝撃。
また誰かにぶつかられたのだと気が付いたのと同時に、香水の甘い香りが鼻を掠めた。

「おわっ…」
「っあ…ごめんなさい…!私ったら」
「あ…えと…気にしないで…ください」

長くて綺麗な黒髪を揺らした彼女は、俺の手を掴んで両手で包み込むとふわりと笑う。
突然知らない女性に触れられるなんて経験のない俺は、体を硬直させながら指先を小さく動かした。
何処に視線を合わせたらいいのか分からない。
控えめで上品な香水の香りとか、触れた手の柔らかさとか、彼女のすべてに思考を呑みこまれていく。
触れ合った場所から、じわじわと熱が広がっていった。

「…私と一緒に来てくれませんか?」
「え、俺…?」
「こっちです!!」

彼女は動揺する俺を無視したままで話を進めると、腕を掴んで突然走り出した。
抵抗するわけにもいかず必死に足を動かして人混みを掻き分けながら進む。
見えるのは彼女の小さな背中。
柔らかそうな長い黒髪がゆらゆらと揺れて、身に纏った真っ白なワンピースと同じように風になびく。
理由は分からないけれど切羽詰まった様子の彼女に無我夢中でついていく。
乱れた自分の呼吸音と、二人分の足音だけがやけに大きく聞こえた。
一体どのくらい走っただろうか。
あんなに周りにいたはずの人がいなくなって、俺達はいつの間にか薄暗い路地を走っていた。

「は、ぁ…あの…どこ、っいくの…?」
「もうすぐです!」
「…おれ、もう…走れなっ…」

複雑に入り組んだ路地を何度も曲がる。
もう自分がどこから来て、どっちが帰り道なのかもわからない。
呼吸を乱しながら必死で走る俺とは違い、息一つ乱していない彼女は腕を強くひきながら俺を無理矢理走らせる。
情けない話だけれど、運動不足の俺にはもうついていける自信がなかった。
口の中に鉄の味が広がって、口で呼吸しすぎたのか喉が乾燥して張り付く。
うまく持ち上がらない足が地面と擦れて新品の靴を汚すのを気にしている余裕すら失った。
やがて意地で動かしていた足がもつれて、集中力が途切れた。
彼女の手を振り払って立ち止まった俺は膝に手を当てて上半身を倒すと、必死で身体に酸素を取り入れた。
咳が止まらない。頭が痛い。
ここはどこだろう。さっきよりも薄暗い…部屋?
苦しくて涙でぼやける真っ暗な視界の端で揺れる、彼女の真っ白なスカートだけが目立っていた。

「げほっ、は…ふ…ここ、どこ…?」
「ふふ、目的地です。…ごめんなさいね」
「…え?」

細い腕に肩を押されて、よろめいたまま数歩後ろに下がった。
楽しそうな声に顔を上げると、さっきまでそこに居たはずの彼女の姿はそこになく、すぐ近くで響いた重苦しいドアの音に頭が真っ白になった。
唯一光を部屋に入れていたドアが封鎖された事で、完全な暗闇が俺の視界を支配する。
閉じ込められた。そう気が付くのにしばらく時間がかかった。
縋りつくようにドアに走って、両手を使って全力で叩く。

「えっ…え?…ちょっと!…誰か!誰かいませんか!」

誰もいないなんてこと、自分が一番よく分かっている。それでも声を出さずにはいられなかった。
とにかくノブを回そうと手をかけようとすると、その扉には普通あるはずのドアノブが付いていなかった。
もしかしてこの部屋、人を閉じ込めるための…。
そこまで考えて全身から血の気が引いていった。

「ははっ…いやいや…」

笑わずにはいられなかった。
背後から迫る暗闇に背筋が凍りつく。
咄嗟にさっきまで叩いていたドアに背中をくっつけると、自分のいる部屋の中を初めて視界に入れた。
窓一つないこの部屋は真っ暗で、本当に何も見えない。
どのくらいの広さなのか、何があるのか。
情報が全く入ってこない。
聞こえるのは乱れた自分の呼吸の音だけ。
恐怖で呼吸が浅くなる。足に力が入らなくて、背中をドアにつけたままその場に座り込んだ。

「そ、そうだ…携帯…」

背負っていたリュックから携帯を取り出して恐る恐る画面を付けた。
左上に表示された『圏外』の文字にすぐに肩を落とす。
当たり前だ。
自分が何のためにここに閉じ込められたのかは分からないけれど、もし電波が通るなら今頃俺は荷物だって取り上げられているはずだ。
とはいえ明かりを手に入れたことにより乱れていた心が少しだけ落ち着きを取り戻した。
部屋の中で小さく息を吐いた、その時。
何かが落ちたような、大きな音が乾いた空気を揺らして、驚いた体が飛び跳ねた。

「っっっ…!!」

咄嗟に体を縮めて、頭を抱える。
心臓が痛いほど騒ぐのを、胸を押さえてやり過ごした。
しばらくして落ち着いたのを確認すると、音がした方に目を向ける。
いったい暗闇の奥には何があるのか。
そう思ったら静かになったはずの心臓が再び煩く動き始めた。
携帯の明かりで暗闇を照らそうとしたけれど躊躇って手を止める。
けれどここで震えていても仕方がないし恐怖は募るばかり。
一気に手を動かして部屋を照らすと、恐怖で思い切り瞑っていた目を恐る恐る開いた。

「…っ…、はぁ〜〜…」

部屋の中には、全くと言って良いほど物はなかった。
無意識に止めていた息を思い切り吐き出す。
そこには、絵の入った額縁が無残な姿で床に落ちていた。
衝撃で割れてしまったのか、ガラスの破片がそこら中に散らばっている。
中は思ったほど広くはない。コンクリートの床と壁が部屋の温度を低くしているようだ。
どうしてこんな部屋に絵が飾ってあったのか。そんなこと考える余裕は俺に残されていなかった。
怖い。こわい。何も起こらないのが、怖い。
部屋に何もないことを確認した俺はずっと張り付いていたドアから離れると、急いで部屋の隅に移動した。
しゃがみ込んでから震える体を抱きしめる。
誰か、誰でも良い。早く俺を助けて。


それから、どのくらいの日数が経ったのだろうか。
ゆっくりと目を開けると相変わらずの暗闇が場を支配している。
いつの間にか眠ってしまったようだ。
体が限界なのか、眠る感覚が短くなっている気がする。
外の音も光も何も入ってこない部屋は相変わらずで、今が夜なのか昼なのかも分からない。
必死で電波を探していたせいで携帯の電池はとっくに切れてしまって、俺は暗闇の中で震えることしかできなかった。
何度かドアに向かって叫んでみたけれど人が通る様子もない。
助けを求める手段は、もう俺には残されていなかった。
閉じ込めた犯人に何かされた訳でも、なんでもない。けれどそれが問題だった。
このまま放置されたら自分は本当に死んでしまう。

「…くそ」

女の人に見とれているうちに捕まりましたなんて、格好悪くて仕方がない。
とにかく喉が乾いたし、腹も減った。
立ち上がる体力すらない。
すっかり暗闇に慣れてしまった目で部屋を見渡すけれど、何度見たところで相変わらず何もないままだ。
何時のことだったか、間違えてガラスに触れて切れてしまった手が痛んだ。
いつまで続くかもわからないこの状況がじわじわと自分を追い込んでいく。
もしかしたら死ぬまでこのままかもしれない。
そう思うと眩暈が止まらなくなった。
思わず頭を押さえると、目を瞑る。

「…?」

その時、かすかに物音が聞こえた気がした。ずっと静かだった部屋の空気が小さく震える。
顔を上げてみたけれど、中は今までと特に変わった様子はない。
けれど。

「…っ…?え…?」

聞き間違いかと思ったその音は、時間が経つにつれて次第に大きくなっていった。
ドアを蹴破ろうとするような激しい音が狭い部屋の中で反響する。
怖い。けれど、体がうまく動かない。
やがて根負けしたのはドアの方だった。
軋んで形を歪めたそれが勢いよく開かれると、ずっと真っ暗だった部屋に光が差し込む。
と同時に、誰かがその光を遮るように中に入ってきた。
その靴がガラスを踏む音が静かな部屋に響いた。

「…っひ…」
「人質…か?」
「へ…?ひ、とじち」
「無事…だな」

ゆっくりと近づいてくるその人の顔は、逆光で確認できなかった。
彼は部屋に誰もいないこと、そして隅で座り込む俺を確認すると、握っていた銃を下ろす。
久しぶりの明かりの眩しさに目の奥が痛んで思い切り目を瞑る。
警察だろうか。俺は助かったのか…?
俺を見降ろした男の人は、俺の意識があるのを確認して小さく息を吐いた。
当たり前だ。俺はただこの部屋に放置されていただけなのだから。

「…、…お前は」
「…へ?あ…、」

近くで聞こえた低い声に誘われるように顔を上げると、見覚えのある顔。
簡単に闇に溶け込める真っ黒な装いのそいつは、俺の顔を確認した途端、力強く輝きを放つエメラルドグリーンを細めながら眉を動かした。
体が怠いせいでうまく動くことができない。
助かったという安心から少し泣きそうになったけれど、男の前で泣くなんてプライドが許さなくて唇を噛んで我慢した。
彼は目の前に膝を立ててしゃがんでから顔を合わせたかと思えば、俺の顎を乱暴に掴んだ。
それから、何処から出したのかハンカチで力強く頬を擦り始める。

「いってて…や、めろって…!」
「…、…」
「痛っ…いたい…やめ…」

疲弊して力の入らない体で抵抗できるはずもなく、俺は結局されるがまま顔を拭われた。
それが終わると彼は黙って俺の顔を見つめる。
それにしても喋ることが無い。長い沈黙。
助けてくれたのはありがたいのだけれど、この人はここに何をしに来たのだろうか。
そう思って男に視線を移すと、挑発的に細められた瞳がこちらを見つめていて無性に腹が立った。

「なんだよ…簡単に捕まって、ダサくて悪かったな」
「遅くなって悪かった」
「…っ…」
「頑張ったな」

馬鹿にされるかと思った。
けれどそいつは大きな手を俺の頭に乗せると、むくれるこちらに向かって初めて不敵に微笑んだ。
力のはいらなかったはずの指先が震えて、心臓が大きく音を立てた。
混乱した頭が真っ白になる。…何だ、これ。
慌てて胸を押さえようとしたけれどうまく力が入らなくて、バランスを崩した体が傾いた。
地面にぶつかるかと思った体が簡単に抱き留められる。

「おい、勝手に動くな。…大丈夫か?」
「…ダメです…腹が減りました…」
「ホー…大丈夫そうだな」
「美味しいものが食べたい…」

出会った時と同じ、煙草の強い匂いが纏わりつく。
俺の身を案じる、落ち着いた低い声に今の欲求を伝えると、彼が静かに笑ったのが聞こえて恥ずかしくなる。
俺の体を優しく起こして再び壁に寄りかからせると、男の人は携帯を取り出してどこかに連絡を取り始めた。
やることもなくて周りを見渡すと、少し離れたところに自分の携帯と鞄が転がっていた。
手早く話を済ませたらしい男の人がポケットに手を入れながらもう一度こちらに戻ってくる。

「あの、俺の鞄…拾ってくれませんか?」
「…ん?…あぁ」

彼は俺のお願いをあっさりと受け入れて、すっかり汚れた鞄を拾い上げる。
それを受け取ると、中から丁寧に折り畳んだ紙を取り出して乱暴に男の胸に押し付けた。
まさかこれを男に渡すことになるとは思わなかった。
困惑しながら受け取った相手を確認してから、赤くなる顔を隠すためにそっぽを向いた。

「それ…連絡先。…、…その…助けてくれて…、あ、りがと」
「…、…」
「俺、みょうじなまえ…そっちは?」

それが、俺と秀一の初めての出会い。