イギリスへと戻ったリリーは、以前と変わらぬ生活をスタートさせることができた。ホグワーツで過ごし、休暇になればスピナーズ・エンドへと帰る。しかし学生としてではなく、単なる事務員として。
日々の雑務をこなしながら、夜にはスネイプによる個人授業。今回は英語ではなく、リリーが学び損ねた2年分のカリキュラムを叩き込まれていた。やることだらけの忙しい日々で、彼女の暮らしは充実している。
ある冬の夕暮れ。リリーは一人、中庭の望める廊下にいた。その胸元にはいつもゼラニウムが咲き誇る。身を冷やす風をマントで防ぎ、中庭を足早に通り抜ける生徒を眺める。そこには何事も起きることなく流れる平和な時間があった。
「身体を冷やしすぎぬうちに暖炉へ頼るのがよかろう」
「わっ!いつからいらっしゃったんですか、校長。驚きましたよ」
眉を潜めるリリーにダンブルドアは悪びれることなく笑った。二人きりの廊下で軽やかな声だけが石造りの壁を弾む。
「あなたにいつか聞いてみよう思っていたことがあるんです」
許可を問うような彼女の視線に、ダンブルドアが大きく頷く。
「私たちの出会ったあの日。もし私が校長だけに本の物語を語っていたとしたら。今と同じ状況だったと思いますか?」
「君の推測しておる通り……わしは物語を覆さなかった。秘めることで失うものは多くとも、ヴォルデモートは破滅する」
「大いなる善のために。大義のために」
「今はひっそりと隠されておるだけじゃ」
ダンブルドアがリリーの隣へと並んだ。窓辺へ手をかけて、中庭を見下ろす。
「ならば私は賢明でした」
「闇を滅ぼせずともか?」
「はい。あなたもグリンデルバルドを幽閉に留めたではありませんか」
半月眼鏡の奥で青い瞳が鈍い光を揺らす。リリーは中庭へ視線を向けていた。そこに現れた黒衣の男を追って身を乗り出す。声をかけずとも、男は二人に気付いた。その眉間には深いシワが築かれている。
「行かないと」
スネイプを見つめたまま、リリーがダンブルドアに言った。それを肯定するように中庭でスネイプが手招きをする。手を上げて、一度だけ手のひらを曲げる簡素な手招き。彼女の纏う空気がキラキラと輝き始める。
リリーはダンブルドアに一礼をして、大切な居場所へと駆け出した。
休暇に入れば、リリーとスネイプは揃ってスピナーズ・エンドへと帰省した。スネイプはホグワーツへ向かう日も多いものの、夜には家へと帰った。そしてリリーの作った夕食を二人で囲む。ごく自然に、生活のサイクルは作られていった。
「今日は和食にしました。お口に合えば良いんですけど」
煮物の匂いが漂う台所の扉を開けたスネイプへ、お玉片手にリリーが話しかけた。彼は部屋に満ちる匂いをその鉤鼻へ取り込んで、無意識に鍋へと吸い寄せられる。
「不思議なものだな。記憶は消えたというのに君は日本食も作るのか」
スネイプが杖を振り、ゴブレットが戸棚から飛び出した。優雅に滑り出る器を受け取って、リリーが料理を盛り付ける。
「すべてを忘れたわけではありませんよ。日本語も、箸の作法も、マグルの暮らしは覚えてます。誰かに振る舞った思い出は小瓶の中に閉じ込められていても、自炊は日常でしたから」
リリーの部屋で眠っている、記憶を入れた小瓶たち。この先見返すことがなかっとたしても、彼女にとっては大切な欠片。
「とは言え、イギリスで日本の味を再現するのはなかなか面倒ですね。もっと大きい街へ買い出しに行けば良かったのかも」
料理を並べ終え、二人は向かい合ってダイニングテーブルへと着く。未だ興味深く料理を眺めるスネイプに、リリーはクスクスと笑った。
「意中の相手の心を掴むために、まずは胃袋から攻め落とすことにしたんです」
「今更だろう」
スネイプは平淡な声色で告げた。まるでその話題を持ち出すことが馬鹿馬鹿しいとでも言うように。目を真ん丸にしたリリーは肺一杯の困惑を大きく吐き出して、両手で顔を覆う。
「どういうつもりか知りませんが、本当に、そういうの、勘弁してください……心臓に悪いんですよ」
ニヤリと口角を上げるスネイプの、意地悪く鼻で嗤う様子がリリーの耳にも届く。
「冷めないうちにいただこう」
遠い異国の料理を二人は味わって食べた。不安からスネイプを窺ってばかりいたリリーも、二口三口と大口を開ける彼を見て手を進める。美味しい料理は会話も弾ませた。
「そろそろホグワーツの雑務にも飽きてくる頃だろう、とダンブルドアが懸念していたぞ」
「そんな、とんでもない!空いた時間には教授方に勉強まで教えていただいて、飽きる暇なんてありませんよ」
「なら、今の状態に満足しているのか?」
リリーは即答することができなかった。
一時期は最難関の闇祓いを目指して努力していた。OWL試験では教師であり保護者でもある目の前の男を満足させるような結果も出せている。しかし現状からもう一度闇祓いを目指してみるのかと問われれば、「NO」だと即答する。けれどもう少し、何か違うことが出来るのでは。そう考える日も確かにあった。
「スプラウトは君を自分の下に就けたいらしい」
「薬草学に、私が?」
「薬草は煎じて煮るよりも育てる方が、君には似合いだ。興味があるなら自分を売り込んでおけ。君の得意分野だろう。散々私にしてきたのだからな」
「私、そんなことしました?」
記憶を漁って視線を斜め上へ向ける彼女に、スネイプのため息は聞こえなかった。食事の締めに、彼はゴブレットを傾けて、暖炉で温まる身体を冷やす。空になったそれへ補充するでもなく、指先で弄んでからコトリと置いた。
「リリー」
「わ、びっくりした。今日はどうしたんですか?滅多に名前でなんて呼ばないのに。心臓に悪いって言ったばかりですよ」
またからかわれているに違いない。リリーは大袈裟な動作でドキリと跳ねた胸に手を当てた。しかし彼の瞳にからかいはなく、口角がニヤリと上がることもない。彼女もその雰囲気を察して口を噤んだ。
「話は仕事だけではない。君はいつまで私とこうしているつもりだ?保護者はもう必要ない」
「えっ、と……それは……」
いつまでも。そう軽く返すこともできたのに。
彼がそれを尋ねた理由へ思考が飛躍して、不安が募る。成人はもう何年も前に過ぎ去った。独り立ちは済ませているはずだったのに、彼に甘えてずるずるとここに留まっている。
彼の言葉を聞くのが怖い。
けれどその薄い唇は、容赦なく開かれる。
「『永遠に』ではないのか」
「え……?」
「君はこの先もスネイプを名乗ればいい」
「でも、保護者は……」
「肩書きは問題ではない。これからも今までとそう変わらぬ毎日が繰り返されることこそが重要だ。ホグワーツへ行きミニトロールたちへ勉学を教え込み、休暇になればここへ戻る。――君と」
私、と?
「まさか『嫌だ』とは言うまい?」
「言いません!私は、ずっと、ずっと――」
「ずっと、君は私の過去ごと私を追いかけ続けた」
スネイプは杖を取り出して、スイッ、スイッ、と滑るように二度振った。無言でなされる命令に空の食器が従って、流し台へと辿り着く。
「やはり君は変わるべきだった。もう手遅れだがな」
「それは、どういう……」
リリーの問いかけには無視をして、スネイプはニヤリと笑う。
「私は根に持つ質でね。だがこれで水に流すとしよう」
一方的に言い終えると、彼は席を立った。置いてきぼりのリリーが説明を求めても、遂には一言も言葉は返ってこない。パタンと扉の閉まる音が何とも物悲しくリリーに響いた。
今日は一段と彼の言葉が足りない。根に持っていたものも分からぬまま勝手に何かが水に流れていった。このモヤモヤを抱えたままなのは気持ちが悪い。鬱陶しがられようとも彼に聞いてみよう。きっと隣のリビングで買ったばかりの本を読んでいるに違いないのだ。飛びっきりの紅茶を淹れれば口も軽くなるはず。
リリーは机上へ寝かせたままの杖へと右手を伸ばした。その先で、小さな花の存在に気付く。伸ばしていた指先でその可憐な花を摘まみ上げた。
白のカスミソウ。
リリーに、ホグワーツで初めてスネイプと出会った日が蘇る。それは初めて使った魔法。スネイプの黒髪に咲いたたくさんの白。
「いくらなんでも根に持ちすぎ……」
私にとっては数年前のことでも、彼からすれば十数年は経っているというのに。
苦笑し両手を頭上へやって、頭に咲いているであろう花を払った。しかしいくら髪を揺らしてみても一向に花は落ちてこない。首を傾げ頭を抱えるような状態のまま、そばの食器棚のガラス戸へ自分を映した。
「〜〜〜っ!?」
そこにいるのは、いつもの私。髪に花は咲いていなかった。髪には。
リリーの視線はある一点に釘付けだった。ガラス戸で目を見開く自分の、ある一点にだけ咲くカスミソウ。杖腕とは違う手の、小指の隣。
台所から奇声が聞こえ、スネイプは開いたばかりの本をテーブルへと戻す。そして今にも撥ね除けられるであろう扉を見つめた。飛び込んでくるもう一人のスネイプの間抜け面を想像し、誰にも見せたことのない表情で彼女を待つ。
予想通り飛び込んできた彼女へ向ける彼の言葉は、二人だけしか知らない話。