薬草学の助教授としてホグワーツに戻って数年、毎日が充実している。公私共に。スプラウト教授からは何年経っても学ぶことばかりで、生徒に教えながらも自分の研究を進める日々。
育てた植物は時折魔法薬学のスネイプ教授へも譲る。彼に関してはプライベートなものも多い。主に、私の抱く特別な感情なのだが。
今日も頼まれていた薬草を摘み、彼へと届ける。公私混同だと言われても否定できない。それでも彼と話すチャンスは少ないのだから多目に見られたい。
リリーは温室からホグワーツ城へと入り、そのまま地下へと向かう。いくつもの教室を通り過ぎ奥へと進めば、辿り着くのはスネイプの研究室。
少し早足になる心音に合わせノックを三つ。しかし返事はなかった。
『返事がなければ入ってすぐのテーブルへ置いておいて構わん』
温室へ向かう前に言われた言葉を思い出す。部屋を空けているのか調合に没頭しているのかは分からないが、金属の輪に指をかければ、扉は容易く開いた――が、すぐに閉めた。
「何、今の……」
室内に、黒衣の男はいた。私が見間違うはずがない。あれはスネイプ教授だった。しかし問題は、彼にないはずのものがあったこと。
「エバンズ、そこにいるか?」
「は、はい!」
中から声色の読めない呼び掛けが聞こえ、反射的に返事をした。中の様子を今一度思い出しながら、今やバクバクとうるさい心臓に手を当て深呼吸を一つ。
キィ、とゆっくり開いた扉から漆黒の一つ眼がギロリと覗いた。
「一人か?」
「はい。お約束していた薬草を届けに参りました」
リリーは下げていた方の腕を胸の前へと上げ、カゴを見せる。彼女の顔からそのカゴへ目線を下ろすと、スネイプは扉を大きく開けた。
「こちらのテーブルに置きますね」
何となく、スネイプを見ないようにして、リリーは数メートル中へと進んだ。そして一番近くのテーブルの角へカゴを乗せる。背後でまた蝶番の軋む音が聞こえて、リリーが振り返った。
「手間をかけたな」
「……いいえ、お安い……ご用で……」
そこに立っていたのは紛れもなくセブルス・スネイプその人。しかしその頭からはピンと天井へ伸びる黒猫の耳が生えていた。リリーはそれに釘付けになる。
「我輩は魔法薬の優秀な調合師であって、完璧な調合師ではない」
どうとも問えないリリーの不躾な視線にスネイプが答えた。
どうやら現状に驚いているのは私だけ。彼にとって調合の失敗による面白効果はよくあることなのかもしれない。中心に設えた大きなテーブルに並ぶ器具を一瞥し、彼は面倒臭そうに腕を組んだ。その手はトレードマークのローブと同化し、注視するとふさふさとした――猫の前足。
「幸いにも、喉まで猫にならずに済んだ。耳と、手と、尻尾。君から見て他に異変はあるか?」
スネイプは解いた両腕を広げ、リリーが見やすいようにとその場で回転して見せた。ふにふにと柔らかそうな大きな肉球、ピクピクと時折何かに反応する猫の耳。リリーはつい「可愛い」と口走りそうになり、すんでのところで押し止める。
「え……あ……尻尾は、どこに?」
くるりと回ったとき、その背後にあると思ったものは生えていなかった。
「服の中だ。ちょうど良い、出すのを手伝ってくれ。動きが制限されているのはどうも不快で、この手では服に穴を空けることも――」
教授は中途半端に言葉を切って表情を苦々しいものへと変えた。私が首を傾げると、彼は眉間のシワを増やし大きく息を吐き出す。
「つまり君の手でここに穴を空けて尻尾を引き出してもらいたい。だが私のこんな場所、触れたくはないだろう?屋敷しもべ妖精に手伝わせる」
『ここに』と言いながら、スネイプは猫の手で臀部を擦った。カリカリとスラックスに爪の引っ掛かる音がする。
「あの!私で良ければお手伝いします」
「……良いのか?」
「もちろんです。教授さえ構わないなら、ですが」
「なら、頼む」
再び教授は私に背を向けた。無防備なその姿にしばし手が止まる。しかし余計な恋慕は脇へ退けて、杖を取った。
「触りますね」
「あぁ」
狙う場所は一目瞭然。腰のすぐ下で膨れる不自然な場所だ。その尻尾の付け根を隠す服を摘まみ上げ、杖先を向けた。見えてしまうかもしれない色々を考えないようにして、スッと数センチ分滑らせる。そしてぱっくりとできた服の裂け目から覗く黒い毛並みに指をかけた。
「――っ!」
「ご、ごめんなさい!」
小さく身体を跳ねさせたスネイプにリリーが慌てて手を離す。
「いや、気にするな。引き出してくれ」
ギュッ、と拳に力を入れる教授に気付かない振りをして、一思いに尻尾を服の穴から抜き出した。瞬時に身体を強張らせた彼が何かの波をやり過ごす間をもって大きく息を吐き出す。感覚を確かめるように揺れる尻尾が私の手に当たった。そしてそのまま離れることなくスルリと勘違いしそうな甘える仕草で絡む。
「助かった。ただの飾りなら良いものを……だが興味深くもある」
振り返ったスネイプは彼なりの礼を言って大鍋の乗るテーブルへと向かう。離れていく尻尾の招くような揺れに誘われ、リリーはあとに続いた。
色濃い液体の張られた大鍋を覗き込む彼は研究者の顔。毛繕いのように猫の耳を弄び、鼻にかかった息で唸る。しかしリリーはそんな彼の姿よりも蛇のような彼の尻尾から目が離せなくなってしまった。ゆったりと持ち上げくねらせて、そばに立つ自身へと寄り添うような動き。尻尾の持ち主は先程同様その仕草に言葉を添えようとしない。
「ポリジュース薬に猫の毛を入れた愚か者と話したこともあるが……なるほど、意識下と無意識下の動きとはこれか」
「あの、スネイプ教授……」
「あぁ、この姿はすぐに戻るはずだ。これ以上引き止める気は――」
「いえ、そうではなく……この尻尾の動きは、そのどちらですか?」
意図的でもそうでなくても、ポジティブに捉えてしまいそうだった。もしかしたら、なんて。問うようにこちらを向いた教授の視線を誘い、彼の尻尾が触れる私の腰へと落とす。上目がちに覗いた彼の漆黒は僅かに揺らいだような気がした。
「どちらであれ同じことだろう」
「――へっ?」
想定外の返答に驚いて、だらしなく口が開く。気付いて唇をくっつけたとき、腰に当たる感触が強まった。これは明らかに意図的なもの。
「もう、私で遊ばないでください」
軽く払うように尻尾に触れればあっさりと離れていった。ニヤリと口角を上げた教授がクツクツと喉を震わせる。
「生徒に感化されたんですか?教授がそんな冗談を仰るなんて、珍しいですね」
「冗談のようなこの姿には合う」
スネイプ教授は片眉を上げ肩を竦めた。その頭部から生えた耳や肉球付きの前足を無視すればいつも通りの仕草。
「人手が必要ないようなら私はこれで失礼します」
「余計な手間までかけたな」
「気になさらないでください。それでは」
引き止められるはずもなく、リリーはスネイプの研究室をあとにした。
『どちらであれ同じこと』
その言葉だけが都合よくリリーに残る。ひた隠しにした心を緩めると途端に熱が溢れ出した。気紛れな冗談による一時を噛み締めて、頬に手を当て熱を冷ます。肉球を触らせてもらえば良かった、などと可愛い姿で気を逸らせてみても、弾む足取りが地下階段を駆け上がっていった。
巻き込んでしまったリリーを見送って、スネイプはそばの丸椅子へ腰かけた。石畳へ先をつける素直な尻尾を睨み付け、自分から生えた隠しようのない心を恨む。
『どちらであれ同じこと』
冗談めかして見せたのは成功した。それが何よりの救いだった。また明日からは何でもない顔で彼女と向き合える。この行き場のない火照りが消えてくれさえすれば。願わくは、誰にとっても邪魔でしかないこの感情諸共。
「馬鹿は私だな」
スネイプはリリーの持ち込んだカゴへと歩く。
艶々と輝く薬草は丹精込めて世話をする彼女や真剣な眼差しで収穫期を見極める姿を思い起こさせる。そんな自分に気付くと痒くもない頭に手が伸びた。髪を掴むはずのそれは、フニと平素ではあり得ない感触がして、現状を思い出す。
「その上間抜けか。情けない」
大きなため息と共に吐いた言葉に慰めはない。あるのは、消えることのない過去に並んで咲き誇る、新たな――