ガタン、ゴトン、と毎回代わり映えのしない音を響かせホグワーツ特急が走る。広大な緑も七年目となれば既に見飽きてしまった。自分を含め二人だけのコンパートメントに座り、リリーは暇潰しはないかと考えを巡らせる。
そうだ、
『車内販売魔女に逆らうと蜂の巣にされる』
という噂をご存じだろうか。一部のやんちゃな生徒の間で真しやかに囁かれている噂を。検証をしたという生徒はみな震え上がって誰も詳細を語ろうとしないというのが更に恐怖を煽り、無謀なチャレンジャーを惹き付ける。定期的に誰かが問題を起こし、この噂が消えることはない。
「実際のところどうなんですか、スネイプ先生?」
「…………」
「スネイプ先生?」
「吸魂鬼でさえ我輩が読書中だということくらい分かるはずだが」
「なんだ、キスしてほしいんですか?魂が抜けるほどの情熱的な」
からからと笑いながら言えば、いつも通りの大袈裟なため息を返される。先生ははす向かいで今日発売されたらしい分厚い専門書を組んだ脚に乗せていた。タイトルは足で見えないが、そのページには楽しくなさそうな図が載せてある。
「車内販売はいかが〜?……車内販売……大鍋ケーキに……」
タイミングよく現れた噂の魔女の声を聞き取り、リリーが勢いよくコンパートメントの扉を振り返った。老婆はお菓子をたっぷりと積んだカートを手押し車のように押しながら、わざとなのか年のせいか分からないゆったりとした歩調で移動していた。
「馬鹿らしい噂ですよね」
顔を先生へ戻すと彼は本から目を離し扉の小窓から見える車内販売魔女を目で追っていた。
「そう言い切るのは早計だろうな。彼女は我輩が学生の頃から変わらない」
「え、それって何年……」
「10年以上も前だ」
「いや、でも……あのくらいのお歳ならそれもあり得ると言いますか……」
狼狽える私に先生はふっと読めない笑みを浮かべた。私をからかいたいだけに違いないその表情に、一瞬で呑まれてしまう。実在するどんな怪物よりも私はこの人が恐ろしい。恐ろしくて恐ろしくて目が離せそうにない。もうずっと前から。振り向いてはくれないと分かっているが、同じコンパートメントに居させてくれるくらいには距離を縮められた現実を噛み締める。
「そう言えば、どうして先生が特急にいらっしゃるんですか?ここでお会いするのは初めてですよね」
彼は畳まれた本以外に荷物もない。それにわざわざ特急に乗る必要がないのだ。校門近くにでも姿現しすれば事足りる。私だってこの春試験には合格したが、生徒は特急の使用が義務付けられている。
「君に説明する義務はない」
「まさか『生き残った男の子』の護衛?確か今年入学でしたよね」
監督生として特急内を見回ったときの新入生の顔ぶれを思い出しながらリリーが言った。スネイプは肯定も否定もせずにただむっつりと気配を尖らせる。
「みんな彼が大好きみたい。でもスネイプ先生は違うようで安心しました」
リリーがトントンと眉間を指すと、スネイプは更にぎゅっと寄せ不機嫌さを見せつける。緩慢に再び本を開こうとした彼からリリーが本を取り上げた。阻止する手段などいくらでもある彼がこうして付き合ってくれることが、リリーの心を震わせる。
「今年で最後です」
改めて言葉にすれば、声はみっともなく震えていた。今年で最後。そう、今年で。今年度ではなく。私と先生の別れは、他の同級生よりも早く来てしまう。私は学生生活最後の半年をホグワーツから離れた場所で学ぶことが決まっている。
「私を置いて勝手にイルヴァーモーニーへの留学を決めたのは君ではなかったか?」
『私を置いて』……?
その言葉を口に含み舌で転がす。なかなか喉を通ってくれないそれは、涙よりも塩辛い味がした。
ギシリ、と古びたスプリングが解放の喜びを叫ぶ。元は鮮やかな青だった面影を見せるモケット生地を指先で逆立てながら、スネイプは一歩、リリーへと足を伸ばした。
狭いコンパートメント内。たったそれだけで二人の距離はゼロに近付く。
スネイプは彼女の膝と膝の間、ローブで隠された僅かな隙間の座席へと片膝を寄せた。覆い被さるように広がる漆黒のローブは窓からの太陽を遮り不気味な生き物を思わせる。見上げた彼の表情はこんなにも近いというのに逆光と彼の長い前髪に邪魔されリリーに全貌を秘めたまま。
リリーは自分と目の前の男との間に立ちはだかる唯一の分厚い盾を抱え込んだ。バクバクと暴れる心臓が肋骨を突き破ってしまわないように。
「君は好意を見せ付けながら、それ以上を望まない」
スネイプがグッと腰を屈め、リリーの視界を自分一色へと染める。それから彼女の髪を掠め壁に手を付き、反対側の頬へと己の顔を寄せた。リリーの横髪や耳に彼の息づかいが届く。真っ黒だった視界は開け、窓から見える景色は湖へと変わっていた。
浅く繰り返すばかりの息にとうとう限界が来て、リリーが大きく鼻で息を吸う。魔法薬を嗅いだような陶酔感に見舞われて、ピクリと身体を跳ねさせた。
ふっ、と彼の嗤う息が私の肌を撫でる。期待のようなドキドキに混ざって、確かに感じる大人の男の恐怖。押し退けても動かないであろう胸板、逃げる気も削いでしまう威圧。
「私が何もしないとでも?こんな場所だからと。……君は私を信用しすぎではないかね?」
スネイプの長い指がそっとリリーの指に触れた。もう彼を感じていない場所などないというのに、これが初めての接触だった。複雑に絡み合う調合の理論を紐解く繊細さで、一本、一本、力の入るリリーを解していく。
「どこだろうと私は君を好きにしてしまえる。穢れなき美しい魂を抜き取ってしまうことも容易い。ゆめゆめ忘れるな」
「……はい……」
耳打ちほどの掠れ声しか出せなかった。とうとう緩みきった両手からスルリと本が抜かれていく。恐怖だって感じたというのに、膝を擦る彼のローブに誘われた気がして、腕が前へと突き動かされる。けれど伸ばしかけた指は彼の暗い底無し沼の瞳に制されてしまった。
私は虚空を握り込んだ手を膝に縛り付ける。
「見回りの時間だ。行きたまえ」
スネイプは綱渡りの寄り道で取り返した本の重い表紙を開いた。時計を見る気もない彼に倣って、リリーは立ち上がる。
「そこは開けておけ」
『そこ』と言いながらもスネイプは何も指さなかった。リリーはコンパートメント内をぐるりと見回し彼の意図を察する。通路を望める扉の小窓にはいつの間にか着替え時用のカーテンが引かれこの場所を孤立させていた。
「ここへは戻るな」
先生は注文ばかり。すべてに「yes」と返す従順な生徒でないことくらい知っているだろうに。
「戻ってきますよ」
それは30分後かもしれないし、10年後かもしれない。初めより遠い位置に座り直したあなたのために。先生は本に没頭しながら、ぐっと冷たい笑みを貼り付けていた。