まだ雪の溶け始めていない季節、太陽が姿を見せ始めたばかりの時間、ホグワーツの城門に一人の女が現れた。大きなレモン色のトランクケースを片手に夏摘みのダージリン色をした厚いマントを合わせた彼女は、汚されることなく敷き詰められた粉雪に浮き立って見える。
朝冷えの凍てつく風にクセのついた髪を遊ばせ、女は羽の生えたイノシシを見上げた。
「わぉ」
ドサリと落ちた冬の悪戯が彼女の足跡を消す。
「何を遊んでいる、来い」
声をかけた男は面倒なことこの上ないといった様子で門へと杖を叩いていた。カチャリ、ガチャン、と門が開き、女はかつて通った学舎へと足を進める。
女が男を上から下までじっくり眺めた。
それを背中越しにも感じたのか、門を施錠し直した男は杖を懐へ戻しながら、ギロリと女を威圧する。しかし女はにんまりと三日月よりも唇を反らせ、手招きするように靡く男の黒衣を追った。
案内されたのはつい数ヵ月前に男のものとなったばかりの校長室。
擦れたマントの裾や靴裏にこびりついた雪を遠慮なく叩き落とす女に男が顔をしかめた。
「まさか渦中のホグワーツへお呼ばれするとは思いませんでした、ミスター」
しかしやはり女は物怖じせずにこりと笑みを浮かべ、終始大事そうに連れ添っていたトランクケースを拓けた場所へ寝かせる。そしてキョロキョロと不躾に室内を観察し始めた。
真鍮の良く分からない球体、量るものの見当たらない天秤、主のいない止まり木、そして歴代校長の肖像画。すべてに目を向けて、女は最後に目の前の男へと視線を戻す。
「我輩の趣味ではない」
女の目に何を読み取ったのか、男は苦々しくそう言うと、マントを引き寄せ腕を組んだ。一方女は笑みだけを返すとマントを脱ぎ捨てる。それを銅や銀メッキの奇っ怪な道具の並ぶ机へ乗せると、自身はトランクケースの側へと膝を付いた。
幾つも仕切りのあるバケツに薬瓶、使い古した紙箱、様々な形の絵筆。これらはすべて彼女の商売道具であり、彼女がここへ呼ばれた理由そのものだった。
彼女、リリー・エバンズは最近独立したばかりの魔法画家。今日は現校長のセブルス・スネイプから内密に肖像画の作製を依頼されていた。
スネイプは彼女の一挙一動を背後から睨み付ける。少しでも妙な動きがあればすぐさま止められるよう、指先には杖が触れるように身構えた。周りに敵ばかりの情勢で、外から客を招き一対一で対面するなど危険極まりない行為だった。
それでも彼には肖像画に託したいものがあり、彼女ならと独立の噂を聞きつけ依頼をした。世間を騒がせる死喰い人の自分の頼みなど断られると思っていた。だが世間を騒がせる死喰い人だからこそ断られなかったのかも知れない、とスネイプは思う。
どちらにせよリリーは二つ返事で仕事を引き受け、ここにいる。
「私を指名していただいた理由を伺っても?」
振り返り様に杖を抜いたリリーにスネイプはぐっと身を固くする。自分に向くかもしれないと警戒した先は部屋の隅に追いやられた丸椅子へ向き、彼女は勝手にその二つを拝借した。
のんびりと、飄々と、するりするりと這うしなやかさに、スネイプは警戒するだけ無駄かも知れないと感じながらも、指先の感触はそのままに話を続ける。ひらひらと掴み所のない彼女だが、奥底には確りと狡猾さが息づいていることをスネイプは知っていた。
「君はスリザリンだろう。人柄も、全く知らないわけではない」
リリーは丸椅子をコツリと叩く。木の持ち味はそのままに三角錘型のイーゼルへと変わった。それを自分がスネイプと向かい合うようになる位置へ置く。
すべての挙動において断りを入れる気などさらさらない彼女に、スネイプは最早たしなめる気も起きず成り行きを見守った。
聞かれたところで自分は首を縦に振ったに違いない。
「もしかして覚えてくれてた?ナルシッサと二人でルシウスを取り合った女だって」
途端に柔らかく雰囲気を変えた彼女が「セブルス」と呼んで、呼ばれた本人は眉間にぎゅっと力を寄せる。それすらも懐かしいと喜ぶ彼女にスネイプはまともに取り合うだけ損だと息をついた。
自分どころかルシウスのことまでも軽く話す彼女は自分にとって六つ上の先輩で、ルシウスと共に昔から自分のことをそう呼んでいたと、消える間際の記憶に浮かぶ。
「そんなものに興味はない」
彼女のペースに飲み込まれつつある不快さに顔をしかめるが、元より今日は彼女の独壇場だ。モデルとして居るだけの自分は座るくらいしかすることがない。その着席すらも今は放棄したままである。
道具を整え終わった彼女が仕上げとばかりにトランクケースをまさぐる。そして見るからにそのまま入れていたわけではないと分かる大きさのキャンバスを取り出した。木枠に張られた草臥れた薄黄色の布は壁に並ぶ歴代校長の肖像画よりも二回りは大きい。スネイプは自分の立場も薄れるほどぎょっとした。
「張り切りすぎたみたい」と呟いて、リリーは杖をコツコツと木枠へ落とす。ちょうどダンブルドアの肖像画と同じ大きさにまで変えるとスネイプを窺った。彼は首を横に振る。彼女は少しサイズを縮めた。また彼は首を横に振る。また彼女は少しサイズを縮めた。彼がコクリと頷いたのを確認して、キャンバスをイーゼルへと立て掛ける。窓から入る雲越しの弱い光にキャンバスが不思議な煌めきを放った。
「ルシウスを取り合った噂は大嘘なの」
興味のない昔話から離れられたと思ったのに、彼女は話の片手間に仕事をしているくらいの軽さで捨てられたはずの話題を抱え直した。スネイプは顔に『うんざり』と浮かばせながら、流線形の不思議な薄い木の板に絵の具を乗せていく彼女を見つめる。
「私はあなたに気があったもの。そしてあなたは別の彼女に」
「……っ!」
突然の告白に、はたまた自分の恋慕を気づかれていたことに、スネイプは引き結んだ唇がパカリと開いた。身を守るように胸で絡めていた腕は解け、中途半端な間抜けなポーズのまま固まる。視界の端で一番新しい肖像画がにやりとしたのをスネイプは見逃さなかった。
「わぉ……知らなかった?ルシウスに聞いてない?あぁそうだ、彼はお元気かしら?」
どちらかと言えばスネイプは後者に意識が向いていたが、リリーは前者だけを拾った。まるでスネイプの内を見透かし揺さぶっただけの選択に、彼の顔はますます険しくなる。
だが後者を無視できるのはスネイプにとって都合が良いことに違いはない。話に乗らず後者に話題が移っては堪らないと、スネイプは息を吸い込んだ。
「さぁな。生きているのは間違いない」
「お仲間のクセに薄情な人。さて、始めてしまっても構わないのかしら?」
数色の小瓶からパレットナイフで器用に絵の具を取り出したリリーがパレット上で絵画専用の魔法薬を練り込んでいく。
「ここにサインしてからだ」
スネイプは事務机に用意していた真っ白な羊皮紙を差し出す。右下にうっすらと引かれたラインが名を書く場所だけを示していた。
「白紙の契約書なんて初めて。随分と粋なこと」
リリーは迷わず細い絵筆を手に取り絵の具をつつく。スネイプはまさかと訝しみ、彼女が白い羊皮紙へ深緑を付ける寸前に止めた。インクを浸した羽根ペンを渡したときのニコリとした笑みが、彼女の手の上で踊ったことを示していた。
リリーは隠された内容を訪ねるどころか少しの躊躇も見せずにサインした。スネイプは多少手こずることを覚悟していたため拍子抜けし、契約の内容を浮かび上がらせる。
「わぉ。一応読ませてもらっても?」
「破棄はできない」
杖先の触れた部分からインクが染み渡るようにして浮かんだ文字にリリーは素直に感動して見せた。そして今更ながらに契約書を読み込む。
金銭に関するものや作品への諸権利などの一般的な内容に加え、仕事を終えた暁にはここでの記憶を消去する旨などが書かれていた。
「なぁんだ、大したこと書かれてないのね」
それをリリーは事も無げに切り捨てる。ひらひらと契約書を遊ばせてスネイプの手に返した。そして大きく伸びをすると準備運動とばかりに身体を捻る。
「裏にサインを残すのは構わないのかしら?作品に責任と誇りを持ちたいの」
「記憶が消えててもね」とリリーが腕を回しキャンバスの裏をとんとんと叩く。あっけらかんとし過ぎる彼女の様子にスネイプは今度こそ飲み込まれ、返事をするのに数秒の間を持たせてしまった。
「よかろう」
「そう、良かった。なら何も問題ないわ」
リリーはクセ付いて広がった髪を手で纏めると、くるくるとひねり櫛代わりに杖を挿す。ゆっくりとした瞬きに真剣さを垣間見せ、さ迷わせた腕を一本の絵筆で止めた。
スネイプは手持ち無沙汰だった。加えて自分がどうするべきかも皆目見当がつかない。絵のモデルを務めるなど初めてだ。タイミングを逃して立ったままだがこのまま何時間も立ち尽くしていられる歳でもない。しかし今動いても良いものなのか、それすら判断しかねた。
この慣れない状況に、歩くだけで周囲を縮み上がらせる漆黒の威光が潜める。戸惑いに揺れる瞳で尋ねるべきかと口を開きかけたとき、顔を上げたリリーと目が合った。
「私の視界に居てくれれば自由にしてて。仕事をしても構わないわ」
リリーは視界を示すようにここからここだとほぼ真横に両手を広げる。スネイプは内心助かったと胸を撫で下ろした。
「仕事はしない」
「あら?私、あなたの仕事になんて興味ないのに。ならお話ししてくれる?私話してる方が筆が乗るのよ」
『話してる方が筆が乗る』と言うのは本当で、リリーは自らペラペラ話しながらも同じくらいスラスラと筆を滑らせていく。
チラ、チラ、と全身を走る視線がむず痒く、スネイプは事務机の向こうへと身を翻した。大きな背の椅子に座り何かすることはないかと目玉だけで部屋を見回す。
「私、早描きで有名なの」
「知っている」
「わぉ。嬉しいわ。下書きを省いちゃうからみんな驚くのよね」
「結果に満足できれば過程に興味はない」
「私、あなたのそういうところが好き」
戯れ言には無視をして、スネイプは分厚い一冊の本を呼び寄せて読み耽ることにした。時折リリーから「顔を上げて」だの「好きな色は?」だの「今何考えてる?」だの声をかけられた。それ以外は静かに時が流れ、心地よい紙擦れとポチョンとバケツに筆の沈む音、絵の具を足す小瓶の軽い響きが部屋を温めていった。
何時間もそうして過ぎて、スネイプがとうとう腹の虫を騒がせそうになったとき、リリーがふっと笑みを溢した。筆をバケツに浸し、新しいものを取らず、顔を上げたスネイプを手招きする。
「まだ修正はいくらでも出来るわ。要望は?」
「……ない。流石だな」
普段なら絶対洩らすことのない賛辞だった。スネイプはそのくらい彼女の仕事ぶりに感服したし、自分の専門外に特化した彼女への敬意を疎かにはしなかった。
真っ黒でハリのある一人掛けのソファは地下の部屋に設置したものと酷似している。絵の中の自分は座っても居眠りはせず、今は真っ直ぐ前を見ていた。姿勢を正したその姿は壁に並べば窮屈そうな堅物の気配がするが、それが自分らしいとスネイプは思う。
いつもの服で、いつもの髪。そう言えば自分はこんな顔をしていたと、鏡を避けがちな生活で忘れかけた自分を思い出す。ただ少し、違いを探すのならば、自分はこんなに血色が良くないだろうし眉間もなだらかに描かれていた。
肩の荷がすべて降りた日には、こんな顔になることもあるのだろうかと思ってしまうくらいに、絵には吸い寄せられる魅力があった。
「……ありがとう」
リリーは緩む頬を抑えきれない様子ではにかみ、とろんとした目をスネイプに向ける。スネイプはそれに気づくと迫り来る何かを感じ、バッと身体を離した。
「記憶を消すのはもう少し待っててもらえる?ここで仕上げるから」
「あぁ」
スネイプが頷いたのを見届けて、リリーが巨大なバットを取り出す。並々と魔法薬を注ぎ込むと、写真の現像よろしく出来上がったばかりの肖像画をザブンと浸けた。あまりの躊躇のなさにスネイプの眉がピクリと跳ねる。
「さて、出来た。本当なら最後まで私が面倒見るんだけど、今日限りで終わった方が良いのよね?」
「そうだな」
絵を引き上げたリリーが杖先から風を出して、滴る薬液を簡単に乾かしていく。解かれた彼女の髪が跳ね返った風に揺れていた。
風が目元を通る度に絵の中の男が鬱陶しげに目を瞬かせる様を、スネイプは奇妙な心地で眺める。
「育て方は平気かしら?」
「育て方?」
スネイプが絵の中の男と同じ顔をした。
「記憶の……人格の移し方とでも言うのかしら。画家の常識ってわけでもないの。肖像画の隠し技みたいなことで、子育てみたいなもの。セブルス、子供は?」
「いると思うか?ここのやつらで手一杯だ」
「あら、私と一緒ね。壁にたくさん経験者がいらっしゃるみたいだからあとで聞くと良いわ。大切なのは、たくさん話すことよ」
リリーは最後にキャンバスの裏へ杖で控えめに名を刻んだ。遠慮のない彼女のことだからサインもため息を吐きたくなるに違いないと吸い込んだ息を、スネイプはそのまま吐き出した。彼女は杖をローブに納めると手早く荷物をトランクケースに詰め、記憶への名残惜しさも見せずに立ち上がる。
「待て」
スネイプは出来上がったはずの自分の肖像画を見ていた。つい数秒前までソファに座っていた自分がいない。絵画の住人は往々にしてこのような行動を取るが、額の中の自分は他に行く宛などなく、つい不安が過ってしまった。
「あぁ、『いない』のね。大丈夫、これはそういうものなの。『あなた』がいなくなれば『あなた』は帰ってくる。分かるかしら?」
スネイプは間を置いてから首を縦に振った。
「わぉ、お利口さんね。それまでは無人の絵に話しかけることになるけど、『あなた』はちゃんと聞いてるわ。でもそれって、とっても滑稽よね」
眉尻を下げ肩を竦めたあと、リリーがからからと笑った。
「さて、どうすれば良いのかしら?」
「門まで送ろう」
絵の礼だとでも言うのだろうか、トランクケースを持ってくれようとするスネイプにリリーがやんわりと断りを入れる。
外に出て、初めて雪が降りだしていたことに気づいた。窓をまともに確認していなかった二人は視覚的な寒さに震え、喝を入れて雪の中へと進み行く。
リリーはついに前を行く黒衣の男以外の姿を見ることはなかった。内密に、と依頼をした男が人払いをしていたのかもしれない。遠い記憶が正しければ、今は冬期休暇中だったはずだと、リリーは冷える足先に顔をしかめながら思った。
カチャリ、ガチャン
別れの音が舞い落ちる雪を掻き消した。厚い雪雲が邪魔をして時間の感覚を狂わせる。もし頭上に居座る鈍色がなかったならば、今頃茜がその存在を誇らせていただろう。雪を踏み均す夏摘みのダージリン色を纏う女のように。そして追いかける暗紅色や青紫に無視をして、遠い闇色へと手を伸ばす。
門を開け道を譲るスネイプが、追い抜き様のリリーに布袋を差し出した。金貨の擦れる高い音が耳へと馴染む。
「これから忘れちゃうのに律儀ね」
「契約は絶対だ。それに……君の仕事ぶりには満足している。報酬はあって然るべきだ。記憶も、別のものを入れておく」
「わぉ。なら遠慮なく」
リリーは中を確かめもせずに布袋をマントの下へと引きずり込む。そして数秒溜めた後、その艶やかなルージュを震わせた。
「どうせ記憶が消えるなら、最後にお願いしても構わないかしら?」
「何だ」
スネイプの眉間には意識しない渓谷が刻まれていた。しかしけんもほろろに断らず、一応尋ね返して見せたのは、のらりくらりと生きる彼女から飛び出す『忘れてもいい願い事』に興味を持ったから。
「キスして」
ほしいのは別れの挨拶ではないと、リリーが自分の唇をとんとんと示す。
スネイプは自分の眉間以外の時間が止まったような気がした。彼女の声、息づかい、身動ぎに擦れる布、些細な音ばかりの空間で、聞き間違えたと思うのは無理があるだろうか。
「あの頃は子供の恋愛ごっこだった。でも今日あなたに再会した瞬間、愛に変わったんだって言ったら信じてもらえるかしら?明日生きているかも分からないんだもの。ねぇ、死喰い人さん?記憶は消えても、身体に刻んでおいて。肖像画裏のサインみたいに」
聞き間違いではなかった上に、気があったのだと言った台詞の信憑性まで裏付けて、彼女がニコリと微笑んだ。
秘密に妙な出来事をくっ付けて、私だけが記憶したまま抱え続ける羽目になることを、この女は理解しているのだろうか。
たった2年、浅い同寮付き合いをしただけの男に何を言い出すのかと、弧を描くルージュに毒でも仕込まれているのではと、スネイプは無言のままに杖を出した。
「わぉ。意地悪な人」
彼らしい真っ黒で真っ直ぐな杖先を眼前に、リリーは素晴らしい再会の幕と共に目を閉じる。
「どうせ君は忘れてしまう」
オブリビエイトと唱えるかさついた薄い唇が、
果たしてどんな軌跡を辿ったか。
秘められた再会を見届けた雪は融け、
夏の気配と共に唯一それを知る者もふつりと消えた。